十一月が終わろうとしても、凪くんは未だに食堂に行ってはくれなかった。相変わらず普段の食事は菓子パン、ゼリー、レトルト食品やカップ麺などで済ませているらしい。勿論、部屋から一歩も出ることのないままに。
 それまで静観してくれていたけれど、何の進展もないまま一か月も経ってしまえば栗原さんが痺れを切らしてしまうのは無理もなかった。業を煮やし、とうとう「こうなったらもう、私が直接話すわ」って彼の部屋に乗り込もうとしたのだ。



「ままま、待ってください!」



 エレベーターのボタンを押そうとしていた栗原さんの前に滑り込み、両手を広げてどうにか制止する。皆が夕飯を終えて、部屋に戻っていた時間帯だった。あまり大きな声を出すと響いてしまうと気がついて、小さく咳払いする。



「わ、私が不甲斐ないばかりに、すみません、栗原さん……! でもお部屋に行くのは、ちょっと……」



 管理人と寮生以外は、基本的に学生の居住スペースである二階より上には行ってはいけない決まりになっている、それが例え食堂で働いている職員さんであったとしても、っていう規則が頭をちらついたせいもある。だけどそれよりも、突然インターフォンを押された凪くんがドアを開けて、素直に栗原さんの話を聞くとは思えなかったのだ。
 事実、私だって朝なかなか姿を見せない凪くんが心配になって、部屋まで声をかけに行った回数は数知れない。それでも凪くんにドアを開けて対応してもらったことは、一度としてないのだ。凪くんはいつも、ドアの奥から気のない返事をするだけだったから。「いませーん」って言われたことなんか、これまで何度あっただろう? そういう凪くんの態度が栗原さんの感情をさらに逆撫でさせてしまうのは、容易に想像できてしまった。栗原さんが直接彼と話して、進展することはきっとない。



「も、もう一回、私からもお話してみます。きちんと凪くんを呼び出して、時間を取って貰って……!」



 それでも逃げられたり、聞いて貰えなかったら、凪くんのご両親に相談することもできる。放任主義らしいとは言え、きちんとお話したら何か希望が見えるかもしれないし。
 最近の病状を思えば伯母に協力を仰ぐことは難しいかもしれないけれど、本当に最後の手段として、伯母に実情を打ち明けることだってできないわけじゃなかった。ただ私がどうしても、弱っていく伯母の前で不甲斐ない自分を晒せずにいただけで。――だけどもうここまでの事態に至ってしまった以上、いつまでもそこから逃げ続けているわけにもいかない。
 そういうことを一つ一つ説明する私の顔を、栗原さんは、じっと見つめていた。彼女から見たら私なんか小娘同然で、どうしようもなく頼りないだろう。ここまで見守ってくれていたことは、だから物凄く感謝している。本当は黙ってくれていただけで、言いたいこともたくさんあったはずだ。進展なんか少しもなかったんだから。だけどそれでも、無理を承知で頼みたかったのだ。
 栗原さんに向かって、勢いよく頭を下げる。



「だから、もうちょっとだけ私に頑張らせてください……!」



 手応えなんか、まだ全然なかったのに。それでももう少しだけ、凪くんと、凪くんの問題に向き合わせてほしかった。
 はぁ、って、小さなため息と共に、「わかった、もうちょっとね」って了承の言葉が聞こえたのは、その直後のことだった。








 エントランスのタイルを水で湿らせたモップで拭きながら、昨夜栗原さんと一悶着起こしたエレベーターのあたりを視界に入れる。一機しかないエレベーターは今、三階でとまったままだ。
 壁にかかった時計は、十六時半を過ぎていた。もう帰ってきていたって良いはずなのに、今日の凪くんは少し帰宅が遅いらしい。妙に落ち着かないような心地がして、胸にこっそり手を当てる。
 今日は凪くんを捕まえて、きちんと膝を突き合わせてお話をしようと思ってはいるのだけど、自分にできることって考えると、やっぱりどうしてもなかなか思いつかない。凪くんに食堂に来て貰う作戦として毎日の声かけはもうやっているし。「さんまたやってる」って、他の寮生の子たちに笑われるくらいにはしつこく。
 顔を合わせれば必ず「食堂」って単語を出す私を、だけど凪くんはさして疎ましがらなかった。「行かなーい」「めんどくさーい」「間に合ってまーす」「持って来てくれるなら食べるー」ってのらりくらり躱すだけ。まるきり響いてないんだから、暖簾に腕押しの状態だ。
 逃げられたり、睨まれたり、うぜーとか言われないだけ全然マシ(流石にそういうことをされてしまうと傷つくから)、って思っていたけど、でも、凪くんに届かないなら何の意味ない。
 タイルの汚れはすっかり落ちているのに、ぐるぐると脳内を巡るあれこれがあるせいでいつまでも磨き続けてしまう。隙間汚れまでピカピカになった頃、ようやく我に返ったけれど。



「…………どうしよう」



 モップの柄を握りしめて、はあ、って項垂れた。難しい。すっごくすっごく難しい。その時だ。自動ドアが開いて、外から冷たい風がエントランスに入り込んできたのは。
 振り向いたときに髪の毛が口に入ってしまって、慌てて耳にかける。この時間までに帰ってきた帰宅部の子たちの顔を思い出せば、今帰ってきたのは凪くん以外にないはずだったのに、それでもその顔を見た瞬間、心臓がびっくりしたみたいに跳ねたのは一体どうしてだろう。
 凪くんは、大きな身体を縮こめてやって来た。ず、と鼻を啜って、両手をポケットに入れて。



「うー、さむかったー」

「お、おかえりなさい凪くん、遅かったね……! どこか行ってたの?」

「いや、寒すぎて学校から出れなかっただけ」



 そんなことある?
 だって、まだ十一月だ。雪が降っているわけでもなければ風が物凄く強いわけでもない、なんてことない初冬。これで寒くて出られなかったなんて、流石に冗談――ってわけでもないらしい。「寒いの、きらーい」って、いつもより二倍三倍は覇気の無い声で呟いていたから。
 じゃあ、これから完全に冬になったらどうするの? 今からそんなんじゃ、部屋から出てこれなくなったりしない? 色々思ったけれど、口にはしない。してしまったら最後、「うん、だから冬は冬眠するねー」って冗談なのかそうでないのか判然としないことを言われかねなかったし。それに、そもそも私は今日は凪くんと雑談がしたいわけじゃあなかったのだ。幸運にも、凪くんは今日はスマホを持っていない。想像するに、寒くてポケットから手が出せなかったのだろう。たったそれだけで運命みたいに思える。話すなら、今だ! って。



「若い方のさんは掃除中? がんばるねー」

「えっ、あ、うん」

「じゃー俺は部屋でぬくぬくするから、掃除がんばってねー」

「わ、ま、待って」



 私の真横をすり抜ける凪くんに慌てて声をかけたとき、モップを持つ手に、自然と力が入った。「凪くん!」と気持ちいつもよりもしっかりした声で彼の名前を呼べば、彼はエレベーターに向かいかけていた足を止めて、首だけでこちらを振り向く。
 その瞳に息が止まりかけたなんて、死んでも言えない。
 瞬間、本当は準備していた言葉が喉に引っかかりそうになっていた。そのまま飲み込んでしまう寸前だった。「どうしても今日、ちゃんとお話したいです」って、ずっと舌の上に置いていたそれは、私の一瞬の逡巡をまともに食らって、異物みたいに存在していた。
 でも、どうしてそれを飲み込むことができただろう。



「――なに?」



 凪くんの手には、今もスマホがなかった。だからやっぱり、話をするなら今日だった。


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