「凪くん。ちゃんと食堂でご飯食べないなら、そのスマホ取り上げちゃうよ」
どこか切羽詰まった物言いではあったけれど、本気で言っていたわけじゃないんだろうってことは、その目を見れば分かった。
寮の管理人の、さん。うちの親よりかは年上だけど、ザ・おばちゃんって感じの人。ながーく住み込みで働いてるって言ったっけ? 寮生の中には「あの人ほんとに親みてえ」って言ってる人もいたけど、俺からしたら正直本物の親よりも距離感が近くて、ちょっと面倒臭かった。
スマホ見ながら歩くなとか、学校に遅刻しかねない時間に寮を出るなとか、最低限食事はちゃんとしろとか、いつも言われていた。夜中にこっそり外に出ようとして警報機を作動させた先輩のこと、ちゃんと怒ってたのは見たことあるし、良く分かってなかったけど俺も多分、怒られていたってことなんだと思う。頼むから食事だけはちゃんとして、せめて一食だけでも良いからまともに食べて、って顔を合わせる度に叱られた。はいはいって聞き流してるのは、どうもバレているようだった。
「あのね、こっちはあなたたちを親御さんから預かってるんだよ。きちんと見守らないといけないの」
そうは言いながらも、学生を尊重して、大事なこと以外には極力踏み込もうとしない人だったのは知っている。俺のことも、だったらほっといてくれたらよかったのに。でもさんは、「衣食住の整った環境下で、元気に学校に行って貰わないと困る」って、真剣な顔をして話していた。俺にとっては優先順位の低い食事は、さんからしてみたら、なくてはならないものなんだってさ。別にいいのに。
のらりくらり躱していたけれど、俺が二日に一回夜ご飯だけは食堂で食べるようになったのは、スマホを取り上げるって言われたからとかじゃなくて、いい加減面倒臭くなったからだ。
朝と夕、顔を合わせれば必ず「ご飯!」と言ってくるさんを黙らせるには、それが一番手っ取り早かった。歩いて食堂に行くのも、見ただけでお腹がいっぱいになりそうな食事を受け取るのも、咀嚼をして飲み込むのも、片付けるのも面倒臭かったけれど、毎日のお説教がない方が時間を縛られずに済むって気がついたのだ。毎日少しずつゲームの時間を削り取られる方が、俺に取っちゃ死活問題だったし。ぶっちゃけさんは食堂の中の様子まで見に来るわけじゃなかったから、残したって文句言われなかったしね。良く隣に座ってくる先輩が、俺の残したご飯を食べてくれるのが常だった。ついでに食器も下げてくれてたし、良い人だよね、あのセンパイ。名前、今でも知らないままだけど。
二日に一回食堂に行くのはだるいけど、学校に行くよりかは面倒臭くないし、小言も言われなくなった。とは言え部屋でゼリーとかパンを食べるだけだった日々よりは遥かに体力を消費するようになったのは確かだ。でも、まーいっか。買い物の頻度は減るしね。何より逐一言われていた文句がなくなったのが、俺にとっては大事だったから。
そういう生活に慣れ始めた頃、だけどさんはいなくなった。
病気? だったっけ? 倒れたって聞いたけど、俺はよく知らない。いつ戻ってくるのか、そもそも戻ってこれるかどうかすら。お知らせみたいなのをもらった気がするけど、ちゃんと読まなかったから、わかんない。後で読もーと思ってたんだけど、なんかどっか行っちゃった。掲示されてたのも、いつの間にか撤去されてたし。ただ、いつもさんがいたところに別の人がいるのは、ちょっと変な気分だった。最初の頃は、この人誰だっけって、ぼんやりした頭でいちいち考えてた。「おはよう」って言ってくれるその声から緊張が抜けた頃、ああ、新しい人だ、って、俺も覚えたんだけど。
「凪くん、ゲームしながら歩くの、危ないよ」
「慣れてるからヘーキ」
「え~……気を付けるんだよ~!」
「へーい」
新しく来た「さん」は、前のさんよりも口うるさくなかった。
飴置いといてくれたり、飲み物くれたり、俺の代わりにボードにチェックつけてくれたりで、結構いー人。たまに注意はしてくるけど、声が丸いし逃げても追いかけてこないから、あんまり面倒臭くなくて、良い。
あのさんみたいにご飯をちゃんと食べろってしつこく言う人じゃなかったから、自ずと食堂から足は遠のいた。いや、まあ新しいさんからも何回かは言われてた気がするけどね。だけど「これだったら大人しく言うこと聞いといた方が楽だな」と思うまでにはいかなかったから、知らんぷりしてたのだ。やっぱ毎日しつこく言われるのと、たまに思い出したように言われるんじゃ、煩わしさのレベルが違う。
「食事を部屋で済ませる」ってことに慣れると、やっぱり食堂まで行くのも、食事を運ぶのも、食べるのも、名前の知らない先輩に残りを押し付けるのも、それからまた部屋に戻るのも、全部面倒臭くなった。パンとかゼリーでいいじゃん。死なないし。お腹はふくれるし。そう思ってたから、ある日いきなり若い方のさんに「凪くん、あのさ、ちょっといいかな?」って声をかけられたとき、つい顔を上げてしまったのだ。それがこれまでのものと違って、急に深刻さを帯びていたもののように聞こえたから。
「食堂で、ちゃんと食べない? ご飯」
いつも通り、スマホでゲームをしながら寮に戻ったときのことだった。最後に残ってるあいつを撃てば、試合終了。そういうタイミングだったのに、俺はつい指を止めてしまった。管理人室のガラス窓の向こうで、少しだけこちらに身を乗り出して俺を見ているその人は、緩く拳を握りしめて、妙に真剣な顔をしていた。頬の曲線。薄く色づいた唇に、光に透けて少し茶色がかって見える目。耳に慣れた効果音が、ゲームオーバーを報せなければ、そのまままじまじとその顔を眺めていたかもしれなかった。
「――あ、死んだ」
「えっごめん……! 生き返る? ちゃんとセーブしてある!?」
「や、そーいうゲームじゃないし」
「そうなんだ……ご、ごめんね……! やっぱタイミング悪かったね……」
「いーよ別に」
言ってから、あ、って思った。「良くないからもう行くねー」って行ってしまえば良かったのだ。これじゃあまるでさっきの言葉の続きを待っているみたいだ。流れから考えるに、どーせご飯の話をされるだけだってのは目に見えてるんだから、どうにかしてここから逃げるべきだったのに。
多分この人も仕事に慣れてきて気がついたんだろう。俺の食生活が、決して正しいものではないってこと。今まで流してくれてたのになー。誰かから指摘されたかな。うちの親が何か言ってくることはないだろうから、そうなってくると、うーん、それこそ「おばちゃんの方のさん」か、もしくは食堂の人って線もある。
今俺の目の前にいる「さん」は、前のさんの血縁者らしい。親戚だっけ? 娘? 全然知らないけど、ほんとに若い人だった。働いてるんだから俺らよりは間違いなく年上なんだろう。でも何て言うか、全然そうは見えない。いくつなんだろ? そーいうのこの人、自分から話さないから、前のさんと関わりがある人、ってことくらいしか俺は知らない。
働き者で、真面目。エントランスの隅っこの汚れを落とそうとしゃがみこんで躍起になっているのを見たこともある。小さく丸くなったその背中が、ねずみみたいだなって思った。なんか、そーゆー本なかったっけ? 働き者のねずみが、馬鹿を見る話。もう薄く伸ばされて膜くらいになった子供のときの記憶が蘇りそうで蘇らなくて、頭のあたりがむずむずした。
むずむずしているのだ、今も。
「凪くん、だから、ええとね、私、凪くんに食堂でちゃんとご飯を食べてほしいなって思ってるんだけど……」
ガラスの向こうにいるさんは、意を決したように俺を見上げていた。あ、これ、最終的にはちゃんと面倒臭くなるやつだなって気がついてしまう。だって今までのこの人とは、顔つきが違ったから。
「そのスマホ取り上げちゃうよ」
本当に取り上げる気なんかなかったくせにそう言った人の、ちょっと怒ったような目が、今ここにいる彼女のものとダブって見えた。あの人は今、どこにいるんだろう。鬱陶しくて、そんで、ちょっと面倒臭い人だった。ほんとの親よりも親みたいな。困らせるのも本意じゃなかったから、二日に一回だけ、食堂に顔を出すことにしたのだ。あの時は。
返答に詰まって、画面のついたままのスマホを顎に押し当てる。この人もこれからしつこくなるんだろうか。そう考えたら、たまに食堂に行くって約束はしてもいいのかもしれない。……でも、やっぱめんどくさいな、まだ。だって部屋で全部を完結させることの気楽さを、俺は思い出しちゃったから。
ちょっと考えてから視線を落として、返事を考えるけど、「面倒臭い」って感情しかないのに、それ以外の言葉が出てくるはずもなかった。