「ねえ、ちゃん」



 皆が学校に行った後、管理人室で雑務を片付けていた私を、ガラス窓の向こうで誰かが呼んだ。
 私のことを「ちゃん」と呼ぶのは、この寮内には一人しかいない。顔を上げると、そこには思った通り、寮の食堂で働く調理師の栗原さんがいた。おはようございます、って言いかけたのを遮るように、栗原さんはカウンターにその手を乗せる。仕草に荒々しさはないものの、ため息を吐かれたものだからドキッとした。



「もう、一年生のあの子、凪くん。どうなってるのかしら。あなたからも言ってくれてるのよね?」

「す、すみません。ちょくちょく話をしてはいるんですが……逃げられてしまって……」

「……まあ、さんも手を焼いてたくらいだからねえ……一筋縄じゃいかないわよね」

「今度改めて声をかけてみます……」

「そうしてくれると助かるわ。いくらきちんとお金を払ってもらっているって言ったって、こうも廃棄が続くとこっちとしてもやっぱりねえ」

「そうですよね……すみません……!」

ちゃんが謝ることじゃないわよ」



 寮の一階のほとんどを占める食堂は、朝と夜、学生たちに栄養バランスのとれた食事を提供してくれる。
 ボリュームも味も申し分なしのメニューは寮の看板にもなっていて、利用している学生からの評判も良い。備え付けの大きな厨房があるから、出来合いのお弁当ではなく、朝も夜もきちんと出来たての状態で食べられるのだ。それを、毎食廃棄! 聞いただけで胸が痛む。
 凪くんが食堂に行ってないだろうっていうことは知っていたけれど、それを本気で改善しようとまでは考えていなかったのは事実だ。こうして指摘してもらって、それでやっとそれが普通じゃないってことに気がつくなんて、いくら他の仕事で手一杯だったからって、許されることじゃない。



「凪くんが学校から帰ってきたら、ちゃんとお話します……!」



 深々と頭を下げてそう伝えた私に、栗原さんは念を押すように「お願いね」って口にした。伯母ですら手綱をちゃんとは握れなかった凪くんとどう向き合えば良いのか、その方法を、だけど私はまだ全然思いついていなかった。








 凪くんのことで栗原さんから初めて声をかけられたのは、先月、丁度球技大会が終わった後くらいのことだったと思う。なんでも、もうずっと食堂を利用していないんだって。伯母が入院してから一回も食堂に来てないって聞いて、ひっくり返りそうだった。部屋から出てこないのは知っていたけれど、流石にそこまでとは思わなかったのだ。
 いくら食に関心が薄いとは言え、三ヶ月も菓子パンやゼリーで済ませるって、育ち盛りの高校生には良くないに決まっている。
 栗原さん曰く、「さんがいたときは二日にいっぺんは食べに来ていた」そうだから、凪くんが現在こんな生活に陥ってしまったのはどう考えたって私の認識不足と、指導の甘さによるものだ。なんで今まで他人事でいたんだろう。だってそんなに食べてないって、やばいよ!
 凪くんが栄養失調で倒れたらどうしよう。無気力で動くのすら億劫っていうのに拍車をかけていたのは、もしかしたら私が原因だったんじゃ? いや、きっとそうだ。凪くん、痩せ細っちゃうかも。頭に栄養がいかなくて成績不振に陥ったらどうしよう。こちらを信頼して預けてくださっている凪くんのご両親を悲しませるようなこと、して良いはずがない。
 でも、じゃあ一体どうしたら良いんだろう。伯母に相談に行くのがベストではあると思う。けれど最近の伯母はどうにも調子が良く無さそうだ。余計な心労をかけてしまうのも、本意ではない。そもそも凪くんは一体どうしてあんなに食に無頓着なのか。男子高校生なんて学校帰りにラーメン食べて夕飯も食べるくらいお腹が空いているんじゃないのか。本当にただただ面倒臭いだけ? 実は偏食なのでは?……それだったらあり得るかもしれない。
 悶々と考え込んでいたせいで、寮の自動ドアが開いたのも分からなかった。すぐそこに凪くんが立っていたのも、本人から声をかけられるまで気がつかなかったのだ。



「――聞いてる?」

「ひゃ!?」

「うわ、びっくりした」



 びっくりした、なんて言いながら、全然驚いてなさそうな声だった。でも凪くんのその目だけは僅かに丸く見開かれていたから、本当にちょっとびっくりさせてしまったのかもしれない。凪くんは普段から表情や声色にほとんど変化がないから、そういうの、良く分からないのだ、私は。
 丁度学校から帰ってきたところなのだろう。さして重くもなさそうなリュックサックを背負う彼の顔色は白くも青くもなく、いつも通り健康そうで、私の空想の中で痩せこけていった彼とは全然違った。がっしりとした体躯。筋肉はきれいについていて、太っているわけでもない。……ていうか、スタイルがすごくいい。この身体が菓子パンとゼリー、その他手軽に摂取できる食べ物で構成されていると思うと、何だか信じられなかった。だって私が同じ食生活をしたら、もっとこう……肥えるもん、絶対。



「ご、ごめんなさい、ボーッとしてて」

「そーみたいだね。全然俺に気付いてなさそーだったし」

「うん、わかんなかった……びっくりした……」



 凪くんはそれで、もう私には興味を失ったとでも言うかのように視線を外した。カウンターの向こうで何かしているようだったから、椅子から立ち上がってそちらを覗き込むと、彼は珍しく、帰宅を確かめるボードにチェックをつけていたのだった。凪誠士郎の横につけられた、筆跡の薄いチェックマークに目を丸くしてしまう。いつもだったら絶対私に「やっといて」って言うのに、自分でやっているなんて。



「わ、珍しい」

「……だって今日のあんた、ボケッとしてるし」

「私がボケッとしててもしてなくても、それは自分でやってほしいかも……」

「やだー、めんどくさい」

「でも、ちょっとピッてやるだけだよ」

「じゃーこれからも俺の代わりにちょっとピッてやっといてー」

「…………」



 ボールペンをカウンターに置いた凪くんは、エレベーターの方に向かって歩き出しながら、制服のポケットに入れていたスマホを手にする。ゲームをするとき、彼はそれを横向きにするのが常だった。そうなると凪くんは私と目も合わせないし、会話もしなくなる。反応が極端になくなってしまう――というのは私がこの三か月で学んだことだ。だから、それが彼の手の中でくるりと向きを変える瞬間、慌てて「あ、待って、凪くん!」と声をかけたのだ。栗原さんと約束をした今、どうしても彼に無視されるわけにはいかなかったから。
 ご飯、どうして食べないの? 栄養偏ったら良いことないよ。髪の毛バサバサになっちゃうし。折角お金払ってるのに勿体ないよ。お母さん達も心配するよ。ここのご飯、それに、すっごく美味しいんだよね?
 説得の言葉はそれこそ湧き出るみたいに私の周囲に落ちて行くのに、それを拾って凪くんに放ることは、どうにもできなかった。だって、そういうのはもう、私や誰かに、とうに言われていることだろうから。でも、じゃあなんて言ったら良かったんだろう。私を振り向いたまま、ともすれば怪訝とも形容できる目でいる彼の気を、どうやって引いたら良いんだろう。



「あ、あの……ええと……凪くんの……凪くんの好きなおかずは……!?」



 だけど絞り出されたのがそれだったのは、流石にだめだったかもしれない。いくら偏食なのかもしれない、っていう疑問が頭の片隅に引っかかっていたとは言え。
 でも凪くんは、変な顔をしなかった。目を細めることも首を傾げることもないまま、私を真っ直ぐ見据えて、その唇を最小限に開けて、口にした。温度も抑揚もない声で。



「とくにないけど」



 ふつーに目の前にあるもの食べるから。って。
 凪くんは今度こそスマホに目線を落とすと、顔を上げることもないまま慣れた手つきでエレベーターのボタンを押して、さっさと乗り込んでしまった。そうか、好きなものも、嫌いなものもないのか。じゃあ問題はやっぱり、部屋から出るのすら面倒くさがる凪くんの目の前にご飯が準備されないこと、ってことになる。
 ちょっと考え込んでいたら「あ、でもレモンティーなら好き」って扉が閉まる前に言われて、目を丸くしてしまう。だってそれ、おかずじゃないじゃん、凪くん。



「…………レモンティーか~…………」



 エントランスに一人取り残されて、頭を抱えたいのを、どうにか堪える。
 凪誠士郎。やっぱり私には、どうしても彼は手強い存在みたいだ。


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