伯母の入院している病院と寮はさほど距離があるわけではないから、お見舞いにはちょくちょく通っている。と言っても平日は私もやることが多いから、病室に顔を出すのはどうしても休日に限られてしまうのだけど。
点滴のチューブに繋がれた伯母の腕は白くて、血管が浮き出ていた。せめて少しでも気分が紛れたら、って、毎回お花を見繕って買っていく私に、「きれいね」っていつも笑ってくれるのだけが救いだった。明るい色の花は、伯母のいる窓際のベッドを少しだけ華やかにした。
手術が終わってもすぐ退院できるわけじゃないってことはその病気の質から分かっていたけれど、まだその目処は立っていないらしい。退院しても、仕事に復帰できるかどうかは怪しいそうだ。「これから」の話は、だからあまりできなかった。今後のことを見て見ぬふりをしていたのは、だけど、私の方だろう、多分。
先の見えない治療の中でも、伯母はいつも寮の子供たちのことを心配していた。里崎くんはああ見えて頭に血が上りやすく、去年卒業した先輩とトラブルを起こしたことがあること。谷くんが部屋に女の子を連れ込んで問題になったこと。丸山くんはストレスが溜まるとその階全部に漏れ聞こえるくらいの爆音で音楽を流すこと。竜胆くんが潔癖すぎること。浅井くんが身体が弱く、しょっちゅう熱を出すこと。渡井くんのゴミの分別が、あんまりにも雑すぎること。それから、凪くんの諸々が心配だ、ってこと。
「ちゃんも大変だと思うけど、よろしくね」
正直、伯母の話すエピソードには「えぇ……」って思ったこともいくつかあったけど、これまで私が覚えた、或いはこれから先の私が背負う「大変」なんか、伯母の「大変」に比べたら全然大したことじゃない。
だから絶対、弱音なんか吐けなかった。任せて、って言うしかなかったのだ。
「大丈夫、上手くやれてるよ。皆良い子たちだもん」
だからどうか、安心してね、って。
半身をベッドから起こした伯母の手は、私のものよりも幾分かひんやりしている。
昼前、買い物から戻って来たら、在否を知らせるボードにいくつかチェックが入っていてぎょっとした。確かに今日は球技大会で自分の出る試合に負けたら帰って良いらしいとは聞いていたけれど、まさか午前で早々に帰宅してくる子たちがいるとは予想していなかったのだ。私の通っていた高校とは違うんだから、自分の経験から想像すること自体間違っていたんだろうけれど。
大量のペッドボトルが入ったエコバッグを一旦カウンターに置いてからボードを確かめてみると、どうやら竜胆くんと丸山くんが既に寮に戻っているらしい。二人とも運動よりも別の方面に秀でているイメージがあるから、わからないでもない。――そう思うのは、だけどちょっと失礼か。
でも、そうなると凪くんももう帰ってきているんだろう。「明日は早く帰るね」って宣言していた彼を思い出しながら視線を彷徨わせて、それから「あれ?」って首を傾げた。凪誠士郎の欄に、帰宅を知らせる印がついていなかったのだ。
つけ忘れだろうか。でも凪くんは、私が管理人室にいるときは自分でやらないものの、私がいないときはちゃんと自分でチェックをして行く。てことはまだ試合があって、帰ってきていない、ってことだろうか。……確信めいた口調で「早く帰る」って言っていたのに?
うーん、って首を捻っていたら、エレベーターから丸山くんが下りてきた。いつもしている大きなヘッドフォンがないところを見ると、すぐそこのコンビニでも行くつもりなのかもしれない。「あ、丸山くん」私が声をかけると、丸山くんはいつも、困ったような、ちょっと嫌そうな顔をする。
「ね、丸山くん。凪くんってまだ帰ってきてない……のかな?」
丸山くんは、凪くんの隣の部屋だった。この寮はさほど壁が薄いわけじゃないけれど、隣室の在不在くらいは何となくわかるだろう。そう思って尋ねたんだけど、丸山くんはやっぱり困った顔をしていた。こっちがちょっと申し訳なくなってしまうくらいに。
丸山くんはちょっと不明瞭な声で、「多分、まだ」と言って、私が何か言うよりも先に、逃げるようにエントランスを抜けて行った。せめて、「球技大会お疲れ様賞」で買ってきた、このエコバッグに入っているお茶はもらっていってほしかったんだけど、言いそびれてしまったな。……でも、帰ってきたときで良いか。
十分後に寮に戻って来た丸山くんに、「お茶持っていって」ってクーラーボックスを指したら、なんと丸山くんは飲み物を買ってきたところだったらしく、めちゃくちゃ気まずかった。伯母だったらきっともっと上手くコミュニケーションが取れるに違いない、って思うと、なんだか双方に申し訳ない気がした。
結局、凪くんは夕方の、さしていつもと変わらない時間帯に帰ってきた。里崎くんや谷くん、浅井くんたちはまだ戻っていなかったから、最後の最後、ってことではなかったんだけど、「早く帰る」と宣言していたことを思えば、不本意な帰宅時間だろう。「おかえりなさい、凪くん」って声をかけたら、凪くんが普段以上に疲れ切った目で私を見た。ゲームすらしてないのは、珍しかった。
「結構遅かったねぇ。試合、勝ち進んだの?」
本当は、何の試合に出たのかとか、会話が続きさえすれば引き出せる情報はいっぱいあったはずなんだけど。
凪くんはふらふらとこちらに歩み寄ると、地面に膝をつき、ガラス窓の向こう側にあるカウンターに突っ伏して「もー無理」って、短く言った。私がぎょっとしたのは言うまでもない。凪くんの、きれいな形をした頭蓋が無防備に差し出される。ごつごつした指が、すぐそこに投げ出されている。育ち盛りの高校生とは思えないくらいに成長しきった身体つきをしているのに、あんまりにも子供っぽすぎないか。
「ちょちょちょ、ちょ、凪くん!」
「もーやだ、歩けない、おんぶしてー……」
「こ、ここまで頑張って歩いてきたでしょ? お部屋までもう一息だよ……!」
「無理。一週間分のエネルギー使い切った。これ以上は死んじゃう」
「そんなんじゃ死なないよ、ねえ、凪くん、制服汚れちゃうよ~……」
「別にどーでもいー……」
「よくないよ……!」
その制服、すっごいお高いじゃない。
流石にそんなことは言えなかったけれど。
脇の扉からぐるりとまわって、カウンター側にいる凪くんに駆け寄る。よっぽど疲れたんだろう。何の球技をしてきたかも定かではなかったのに、項垂れているのを見ると心配になってしまう。
小さくなっているのに、それでもやっぱり、随分大柄な子だった。おんぶなんかできるわけがないし、肩を貸して支えたって私が潰れるのは目に見えている。だけどそもそも、病気でも怪我でもない、ただ「疲れた」ってだけの男子高校生を本当にかついであげようなんて、思ってなかった。……管理人室においてある荷台でだったら運べるかな、って、ちらっと思わなかったとは言わないけれど。
凪くんの隣にしゃがみこんで、「凪くん」って、呼びかける。
「…………そんなに疲れちゃった?」
「限界」
「よっぽど大変だったんだねぇ……」
「ゲームしたい……」
「じゃあお部屋に戻った方が早いね……!」
それでも凪くんは、全然動く気配がない。どうしようかな、誰か帰ってくるまで待とうか、って思ったけれど、それでも二人がかりじゃないと凪くんは運べないだろう。うーん、って首を傾げる。その時視界に入ったのは、お昼に準備したクーラーボックスだ。これでもダメかなあって思いながら、駄目元で口にする。
「球技大会頑張ったで賞のお茶あげるから、お部屋までもうちょっと頑張ろ?」
ね? って、エントランスの丸テーブルに置いておいた小さなクーラーボックスを指差す。顔をあげた凪くんはゆっくり瞬きをして、「レモンティーある?」って聞くから、「…………残ってればあると思う」と答えた。でも、何とか立ち上がってくれたから、ありとあらゆるお茶を買っといてよかったな、ほんとに。
凪くんが選手として出場していたバレーボールが上級生のクラスを蹴散らして優勝した、っていうのは、彼の後に帰ってきた浅井くんに聞いた。「え、すごいね凪くん、活躍したんだ」って思わず言った私に、浅井くんはちょっと難しそうな顔で首を傾げていたけれど、優勝は優勝だ。翌日、管理人室の前を通りかかった凪くんに、「そういえば昨日優勝したんだってね。すごいねえ」って声をかけたら「…………そうだっけ?」って言うだけだったから、やっぱり凪くんって、ちょっと変わった男の子だなって思う。