夕方、寮の管理人室で書類を整理していたら、表の自動ドアが開いた。のっそりと現われたのは、相変わらずスマホに目線を落として歩く凪くんだ。
 危ないなあって思うけど、ここまで来たら蹴っ飛ばして危険な物もそうそうない。注意したいのをぐっと飲み込んで、「おかえりなさい、凪くん」って、他の皆にしているように声をかける。凪くんは絶対、「ただいま」とか言わないけれど。でもそれだけだとやっぱり味気ないように思えるから、「んー」とだけ言う凪くんに、「管理人さん」らしく会話を試みることにした。ネタだったら、今日はあるのだ。



「……そういえばさっき渡井くんに聞いたんだけど、明日って球技大会なんだってね。凪くんは何に出るの?」

「――え、忘れた。なんだっけ」

「……忘れることなくない?」

「そーいうの俺、キョーミないもーん。……あ、そうだ。負けたらそのまま帰って良いらしいから、明日は早く帰るね」

「…………覚えておくね」



 負ける前提なんだ、とは思ったものの、口にはしなかった。凪くんは一年生だし、種目がなんであれ、上級生のクラスに勝つっていうのもなんだか想像できなかったから。ぼんやりしている凪くんが活躍しているところなんかも、全然。
 スマホから顔を上げないままエレベーターまでの最短距離を器用に歩いていく凪くんの姿を管理人室のガラス越しに見送った私は、だけどはっと我に返った。「帰宅したらちゃんとここにチェックつけてってば!」ってボードを指しながらその背中に言うけれど「代わりにやっといてー」って返事と共に、するりとエレベーターに乗り込まれて扉を閉められてしまった。思わず呻く。私ではどうにも、凪くんに勝てない。
 凪くんは、いつもこう。私が不在の時はちゃんと自分でチェックをつけているから、忘れているってわけじゃないみたいなんだけど、基本的にはやる気がないし、言われたことをちゃんとしない。扉の閉ざされたエレベーターが上に上がっていくのを視界の隅で見送りながら、仕方なしにボールペンに手を伸ばして、「凪誠士郎」に、へろへろの筆圧でチェックをつける。
 凪誠士郎。白宝高校の一年生で、出身は神奈川の暇中。高校入学と同時に入寮。目立ったトラブルはないものの、生活面が心配な子――とは、伯母の弁だ。
 寮生同士でも決してつるまず、部屋の行き来やものの貸し借りをすることもなく、食事すらもまともに摂らず部屋にこもってゲームばかりしている。寝ることとゲームをすることがいっとう好きで、その他に関しては、優先順位が極端に低い。他は良いとして、食欲すらも低位置につけられるのだけはどうにかならないだろうか。彼が寮内の食堂を訪れているのを、私はこれまで一度として見たことがなかった。
 勿論食堂に顔を出さないからと言って、全くご飯を食べていないってわけではない。各部屋には冷蔵庫もコンパクトキッチンも備え付けてあるし、お湯くらいだったら沸かすことはできるから。でも、やっぱり栄養は偏るよね。絶対野菜とか食べてないもん。お肉すらちゃんと食べているか怪しい。コンビニで買ってくる菓子パンやゼリー飲料が彼の専らの主食であると知っている以上、私にとって凪くんはどうしたって気にかかる存在だった。伯母にとっての彼もまた、恐らくそうであったように。
 気になるのは寮での生活面だけじゃない。彼と同じクラスだっていう浅井くんにちらっと聞いたことがあるけれど、凪くんは教室でもずっと寝ていて、授業も真面目には聞いていないらしいのだ。移動教室があっても平気で眠っている上、起こしてくれるような仲のいい友人もいないものだから、そのまま授業に来なかったりもするんだって。教室に戻っても眠りこけている彼を見て驚いたって聞いた時は、流石にちょっと笑えなかった。
 だけど恐ろしいことに、成績は異様に良いらしいのだ。持って生まれた才っていうのは非情だ。私なんて、真面目に授業を聞いていたにもかかわらず、化学で赤点ばっかりとってたもん。きっと私とは頭の出来が違うのだ、最初から。
 食生活は最悪。生活面も要改善。無気力。自頭の良さで成績は今のところ優秀だけど、友人はいない。――友人関係に関して言うなら、本人が一切気にしていないよう見受けられる以上、こっちが口を出すことではないのかもしれない。問題行動を起こすわけでもなく、門限を破るどころか寮内にいる総時間で言えば圧倒的に一位をぶっちぎっている彼だけど、寮の管理人なんてものをやっている身としては、どうしたって親目線になってしまう。ご飯くらいちゃんと食べてほしい、もうちょっと時間に余裕を持って行動してほしい、って。だから二か月前、「凪くんっていう子のことは、特に気にしてもらいたいの」って、手術を控えた伯母が口にしたのも、今となっては理解できるのだ。確かに凪くんは、目が離せない。
 考え込んでしまったせいで、頭が痛くなってきた。書類の整理をしていたけれど、お茶でも飲んで一息入れようかと立ち上がりかけたとき、今し方上に行ったばかりの一機しかないエレベーターが、再び私の視界の隅っこで扉を開ける。ん? ってそちらに顔を向けると、そこにはさっき上に行ったばかりの凪くんの姿があった。
 リュックサックを背負ったままである様子を見るに、部屋に戻る前に引き返してきたらしい。珍しく、スマホはポケットに突っ込まれていた。珍しい、すっごくすっごく珍しい。眠たげな目が私にきちんと向けられるのも、普段ゲームばかりしている彼の両手が空いているのも。
 何か忘れ物でもしたのかと「どうしたの?」って聞きかけたときだった。管理人室の、ガラス窓の向こうにやって来た彼が「ねえ」って、どこかのんびりした声色で口にしたのは。



「若い方のさん」



 凪くんは、いつも私をそう呼んだ。若い方の、って呼び方、間違ってるわけじゃないとは言え本当はちょっとやめてほしいんだけど。言っても「でも間違ってなくない?」って言われてしまうから、どうしようもない。
 ガラス窓を一枚挟んだ向こう側で、凪くんは私のことを見下ろしている。やっぱり、背が高いなあ、って、頭の端で思う。運動部の里崎くんより、三年生の竜胆くんより、彼はずっと体格が良い。帰宅部でゲームにしか興味がないのが、勿体ないくらいに。



「……なんでしょうか……」



 そんな彼に対して敬語になってしまったのは、どうしてだろう。
 いつも堂々と。弱いところは決して見せず、だけどちゃんと子供達に寄り添って。そう伯母に言われていた私は、こんな風に寮生の男の子に飲まれては、絶対にいけなかったのに。例え私からしてみたら、決して彼らを「子供達」だなんて言葉に置き換えられなかったとしても。
 凪くんはそっと目を細める。それがどこか、捕食する獣のそれに見えた。ガラス窓一枚では、その目からは逃れられない気がした。ぞわ、とする。そんな必要ないのに、後ずさってしまいたくなる。心臓がばくばくと音を立てていた。静かなエントランスでは凪くんに聞こえてしまうんじゃないかってくらい、激しく脈打っていた。
 凪くんがこちらに向かって手の平を差し出す。びっくりするくらい大きな手は、もう大人の男の人みたいで、一瞬、混乱してしまう。
 だけど凪くんは、なんてことないように言ったのだ。



「のど飴ちょーだい」

「…………あめっ!?」



 朝はエントランスの方に出していた飴の入った籠は、今はガラス張りの管理人室側に置かれていた。
 無意識に胸の前で両手を握りしめていた私は、慌てて飴の入った籠をガラス窓の向こう側に押し出す。「どどど、どうぞどうぞ」めちゃくちゃどもってしまったのが恥ずかしい。だけど凪くんは全然、気にも留めていないとでも言わんばかりに、その長い指先で飴をがしっと掴んで、そのままポケットに突っ込んだ。遠慮なんか全然なかった。皆にそう言っているみたいに、いっぱい持っていって良いよって口にする前から、めちゃくちゃ持っていかれてしまった。それで、ようやく我に返ったのだ、私は。



「やったー夕飯ゲット」

「ゆっ……!? だめだよ、飴なんか夕ご飯にしないで!」

「えー。咀嚼しなくていーから楽なのに……」

「発想が若者のそれじゃないよ、ご飯にするならあげないよ……!」

「ケチ」

「ケチじゃないよ! 前から言ってるけど、凪くん、ご飯はちゃんと食べないと……」

「そろそろいこーっと。飴、ゴチソーサマでしたー」

「あっ……まだ話は……!」



 足も長い凪くんは、一歩がものすごく大きい。エレベーターの方に向かわれてしまうと、わざわざ管理人室を出てから追いかけるのでは決して間に合わなくて、私は結局凪くんにきちんとした注意もできないまま、彼を行かせてしまうことになる。



「………………!」



 声にならない声は、呻き声になって私の口から漏れるだけだった。
 伯母の代わりに管理人になってから、二ヶ月。案外やっていけるかも、なんて思っていたけど、管理人のお仕事は、やっぱりどうしても一筋縄ではいかないらしい。


PREV BACK NEXT