学生寮の管理人は、朝から忙しい。いや、朝がとにかく忙しい。
 生徒たちが気持ちよく登校できるようエントランスの掃除をしておかなければならないし、指定の場所に出されたごみを外に持っていくのも私の仕事だ。学校へと向かう彼らを見送るのに寝ぼけ眼ではいられないから、身支度だって完璧に整えておかなくてはならないし、そういうことに時間を割いているとゆっくり朝ごはんを食べる暇もない。
 夜型になりかけていた身には随分厳しかったけれど、管理人は、いわゆる寮母。文字通り、親元を離れ生活する彼らの母親代わり(できれば姉とさせてもらいたいけれど)のようなものなのだ。挨拶は元気よく、笑顔を忘れずに、ひとりひとりに心を配って。伯母に渡されたメモに一際大きく書かれたそれを、私は律儀に守っている。実践できているかは、ちょっとわからないけど。
 でもこの二か月で、彼らの生活に上手く溶け込めたんじゃないかなっていう自負は、ちょっとはあるのだ。



さん、いってきまーす」

「谷くんいってらっしゃい!」

「おはようございますさん。行ってきます」

「おはよう、渡井くんもいってらっしゃい!」

「あ、さん、俺のど飴もらってっていいすか」

「おはよう浅井くん。どうぞどうぞ、味いっぱいあるよ」

「じゃあマスカットもらいます」

「好きなだけ持っていっていいからね~!」

「や、一個でいいっす。いってきます」

「いってらっしゃい! 丸山くんも気を付けて!」

「…………っす」



 伯母の仕事を引き継いで、もうすぐ二か月。
 季節は移りかわって、馬鹿みたいに降り注いでいた日差しももう随分和らいだ。先月までそこかしこに残っていた夏の残り香もすっかり薄らいで、今は秋の気配が濃い。寮の前に植えられたトウカエデも、私が来た頃よりも葉の色が明るくなっていて、時間の流れっていうものを顕著に感じてしまう。



「…………はぁ~」



 寮を出て行った学生たちの背中を見送って、つい細く長い息を吐いた。空気が乾燥し始めてから管理人室の前に置くようになったのど飴の入ったラタンの籠を、定位置に戻す。数日前よりも明らかに減っているから、みんな、私の見ていないところで持っていってくれているんだろう。そういうのは、地味に嬉しい。あとで足しておこう、と、疲労を覚え始めている脳の隅っこで考える。
 今の今までにこにこしていたおかげで、頬が少し強張っていた。声も普段の三割増しを意識しているから、ちょっと喉が変だ。無理をしているわけではないけれど、一人になるとどうしても、彼らの前にいるときの「さん」を保っていられない。
 頬を指の先でゆるく揉む。二か月。目まぐるしい日々だった。慣れるとか慣れないとか、そういうのを考える暇もないくらいの。
 八月の終わり、地元から戻ってきた寮生たちが「管理人交代のお知らせ」を目にし、さほど年の変わらない私にどこか怪訝な顔でいたのは、ほんの数日程度のことだった。
 もしかしたら戸惑わせてしまうかもしれないと思っていたけれど、そういう変化に子供たちは強かった。伯母にしていたのと同じように私を「さん」と呼んで気軽に話しかけてくれるし、安いスーパーや品揃えの良い本屋さんなんかも教えてくれた。皆のおかげで、どれだけ緊張が解けたか!  そりゃあ勿論個性豊かっていうか、色んな子がいるけれど、皆総じて余裕があるっていうか。すれてもいなければ、ピリピリもイライラもしていないっていうか。伯母が病気だって知って、お見舞いに、って足の生えた鶴を折ってきてくれた子もいる。奇妙な鶴は私が伯母に届けた。きっと、今も伯母の病室にぶらさがっているはずだ。
 普通の高校生とはちょっと違うように思えるのは、やっぱり彼らがあの「白宝高校」の生徒さんたちだからなのかな。見た目は数年前同じ教室にいた男の子たちよりも子供っぽく見えるけれど、あの頃そばにいた彼らよりも、ずっとずっと接しやすかった。――同じ目線じゃないから、って言われたら、それまでなんだけど。



「……えっと、谷くんと渡井くん……」



 陰になるところに立てかけておいたボードを手に取って、生徒たちの名前が記されたお手製の表にチェックをつけていく。誰が寮にいて、誰が外にいるのか。そういうのが一目でわかるようになっているそれは、帰宅時はそれぞれ自分たちで印をつけてもらうようにはしているけれど、朝は彼らの登校を見守りながら、私がチェックをすることにしていた。これも全部、伯母のやり方とおんなじだ。
 谷くん。渡井くん。浅井くん。それから彼らに紛れるように背中を丸めて、大きなヘッドフォンをつけて寮を出て行った丸山くん。彼らは比較的、寮を出るのが遅い組だ。朝練のある部活に入っている里崎くんたちや、図書室で勉強をしているらしい受験生の竜胆くんたちは、今より一時間以上前にエントランスを出ている。
 だから、今この寮に残っているのは一人だけだ。



「………………またギリギリかあ」



 表に唯一残された空白に目線を落としながらため息が零れてしまうのは、もう仕方がないことだろう。
 エントランスから見えるエレベーターに目を送る。まだ一階に留まっているあれが動き出すのは、今から五分後か、十分後か、もしかしたらもっと後かも。そしたら部屋まで行って、声をかけなくちゃいけない。「起きてる~!?」って。いや、起きてはいるのだ。かろうじて。ただベッドでだらだらとスマホのゲームをしているだけ。もくもくと「デイリー」をこなしているだけ。……起きてるなら、さっさと準備済ませちゃえばいいのに。
 朝ごはんだって、どうせ食堂を使わず、ゼリー飲料とかで済ませているに違いない。せっかくご両親にその分のお金を払ってもらっているんだから、ちゃんと食堂で食べたほうがいいのに。でも、そういう私の小言も、彼は全部聞き流すのだ。「食堂行くのめんどくさい。誰かがおんぶしてくれたら考えるー」って。だけど一体誰が彼みたいな背の高い男の子をおんぶできるっていうんだろう。いっそ荷台に乗せちゃう方が現実的だ。



「…………あと三分」



 管理人室の時計をちらっと見て、小さく口にする。あと三分待ってだめだったら、お部屋のインターホンを鳴らす。「時間~!」って、叫びに行く。大抵すぐ出てきてはくれないけれど、凪くんはそのうち「起きてるけど」って、表情も変えずに扉を開けるのだ。この二か月の間で何度かあったやりとりを思い出して、思わずこめかみを押さえる。
 そうしていると、同時に、私はあの日のしんとした寮を思い出すのだ。
 夏の終わりというには、酷く暑かった日。夏休み中の寮は、今と比べればびっくりするくらいに静かだった。あの日私にとって、ここはまだ自分とは関係のない別の世界に見えていた。誰かの手によって切り取られた箱に押し込められて息をひそめていた私の前に、彼は何の躊躇いもなく現れた。
 蝉の鳴き声。むっとする夏のにおいを背負っていた。その腕にぶらさがった半透明のビニール袋も、色素の薄いぼさぼさの髪も、全部鮮烈にこの目に焼き付いて、痛いくらいだった。離れなかった。ひな鳥が初めて外を見た時のように。
 だって私がこれから見守らなければならない男の子たちの一人だったから。彼は。
 エレベーターが動く音がして、我に返る。四階で止まったそれは、少しの間隔をもって、再びここに戻ってくる。扉が開いたとき、そこに彼はいる。
 白宝高校の一年生、凪誠士郎くん。
 今日も今日とてぼさぼさの髪をした彼は、ライトグレーの白宝の制服の下にパーカーを着込んで、覚束ない足取りで管理室の前を通過していこうとしていた。
 その手には相変わらず、横にしたスマホがある。



「おはよう凪くん」

「…………ん」



 「おはざいまー」って、挨拶なんだかなんなんだかわからない言葉をぼそっと口にする凪くんがこちらを見ることは、滅多にない。でも、この時間だったら遅刻は免れそうだし、今日は「遅刻するよ」とか「いそぎなー」とか、声をかけなくてもいいかな。「ゲームしながら歩くの、危ないよ」とは言うけれど。



「慣れてるから、ヘーキ」



 振り返ることもせず、凪くんは自動ドアの向こうへ行ってしまう。絶対危ないよ、転ぶよ、なんかにぶつかったり、踏んづけたりするよ。そうは思うけど、彼が何かしらのアクシデントに見舞われることは、どうしてか全然想像ができなかった。寮生の中でもトップクラスに手がかかるのに。



「いってらっしゃい!」



 自動ドアの閉じる瞬間に口にした、全員に同じように伝えているその言葉は、多分聞こえてないんだろう。それでも口にせずにいられないのは、私がもう、ちゃんと「管理人」でいるからだろうか。伯母の代わりに。
 最後まで空白だった「凪誠士郎」にチェックをつける。そうすると、まだ朝なのに、もう今日一日の仕事が終わったみたいに感じられてしまうから、ほんとに私って体力がない。小さく息を吐く。凪誠士郎。きれいな名前だなって、ぼんやり思う。


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