伯母が倒れたのは、容赦ない昼の日光を吸い込んだアスファルトの熱が夕方の時分にもしつこく残り続けるような、夏の盛りのことだった。
買い物中突然倒れて、救急車で運ばれたらしい。病院から連絡を受けた母は、二時間前に家を出たきり帰っていなかった。
都内は猛暑日が途切れることなく続いていて、熱中症患者も後を絶たない。真っ赤な(あるいはさらに危険を意味する紫)の太陽は、テレビの中で何か大きな花でも咲いているみたいに浮かんでいた。今日の最高気温は埼玉のどこどこで、何人が救急搬送されて――そんなニュースを毎日のように見聞きしていたから、だから、私は伯母もそういう、熱中症か何かの類で倒れたのだと思ったのだ。とりあえず、意識はあるみたいだ。父からそう聞いて、胸を撫で下ろしながらも。
きっと夏バテで、疲れが溜まってしまったのだ。大勢の若い子の面倒を見るっていう仕事は想像以上に気苦労も多いはずだし。それも四六時中なんだもの。大抵の人では、きっと務まらない。
伯母は、学生寮で働いていた。住み込みで高校生のお世話をし始めて何年が経つのか、正確には私は知らない。だけど天職なんだって。こんなにやりがいのある仕事はないって、伯母は私に教えてくれた。
「そりゃあ、大変なことも多いけどねえ」
就職の決まったことを報告しに行った春、伯母が連れて行ってくれた喫茶店で、伯母は「お仕事って、大変?」って尋ねた私の背後にあるものを見ようとでもするように微かに老いの滲んだ目元を細めていた。これまでの人生を懐かしむような、そんな目だった。
「大変なこと?」
「そう、夜中に勝手に寮を出ちゃう子がいたり、逆に帰ってこない子がいたり」
「ええ~、大変じゃん」
幾本の白髪の混じった髪が、窓からの光を吸って、きらきら輝いていた。のけておいたクリームソーダのさくらんぼを私が口に入れた瞬間、その目じりが柔らかく下がったのを、今でも覚えている。
「うん、だけど楽しいのよ、すごく。だからきっとちゃんも、お仕事楽しめるよ。楽しいことと大変なこと、半分ずつって思ったらいいよ」
家族のない伯母は、心から自分の仕事を、子供たちを愛していた。まるで本物の母のように。おおらかでよく笑い、よく食べ、よく働く伯母は私にとって無敵の人だった。少し休んだらきっとよくなると思ったのだ。
自分の今後の人生に、今日のことが大きく関係してくるなんてちっとも思っていなかったから。
東京とは名ばかりの長閑な風景の広がる小さな街の空はいつも突き抜けるくらいに青くて、ここにいる間、私は何者からも守られているような錯覚を覚えていた。二十歳。もう子供だなんて言っていられない年齢になっていたにもかかわらず。
つけっぱなしのテレビから、コマーシャルの、とぼけた音楽が聞こえた。この辺りでは珍しいパトカーのサイレンが、家の裏を抜けていった。窓から見える、猫の額みたいな庭。ささやかな生垣の奥に広がる、鄙びた景色。縁側に座って、ぼんやりと伯母のことを考える。
「――だけど楽しいのよ、すごく」
伯母の柔らかな声が閃くように蘇る。溶けたアイスクリームの白が混じったクリームソーダを、あの日の私は眺めていた。芯のある、くっきりとした声だった。
まさか病気を患っていたなんて、想像もしていなかった。
「ごめんね、ちゃん」
伯母は今後、手術と、それに伴う治療を続けなくてはならなくなった。退院の目途も立たない以上、仕事なんかできるはずがない。
伯母の仕事を引き継ぐ人間として二か月前から無職でいる私に白羽の矢が立ったのは、必然だったのかもしれない。
「ちゃんにしかお願いできる人がいないの」そう告げる伯母の顔色は、酷く青白かった。大きな病院の、七階。窓際の四人部屋。病院特有のどこか甘いにおいも、窓の奥に広がる都会の街並みも、伯母の白い手も、そのとき私を取り巻く全てのものが、まるで現実味がなかった。
「お、伯母さん……そんな……」
すぐには飲み込めなかった。伯母がそんなに悪いなんて、想像もしていなかったから。窓際に飾られた、私の選んだオレンジのガーベラだけが、場違いに明るく、鮮やかだった。
「困ったことがあったら伯母さんに聞けばいいんだから、大丈夫だよな」「だってそろそろ何かしたほうがいいんだし、丁度良いじゃない。いつまでもうちにいるわけにいかないんだから」だけど当分休んでたらいい、って言ってくれていた両親の「当分」は、一体いつの間に終わってしまったんだろう。二人に背中から撃たれてびっくりしたけど、でも、そうだよな、とも思うのだ。そうだよ、伯母さんが、だって困ってるじゃん、って。
「すぐ元気になるから、それまで、どうかお願い」
伯母にとって、あの仕事はすべてだった。婚約者を不慮の事故で亡くした伯母が、一人で生きていくために選んだ場所。それが突然その手から離れていったら、伯母はきっと、かなしい。
果たして伯母の仕事が私に務まるのか、っていう疑念は、簡単には拭えない。自信もそんなにないし。でも私しかやれないんだったら、やるしかないのだ。
「わ、わかった……!」
口の中はカラカラに乾いていた。伯母の目を真っ直ぐ見つめることしかできなかった。
「やってみる。伯母さんには、迷惑かけちゃうかもしれないけど」
がんばってみる、私、って口にしたときの伯母の目に差した光を、私はなんと形容したら良かったのだろう。
私の手を、伯母はぎゅうと握った。その目から涙が零れたのを見たとき、私は、胸が締め付けられたのだ。
「ありがとう、ちゃん、お願いね」
こんなに人に感謝されることなんて、後にも先にもきっとない。
伯母の皮膚から伝わった熱が、震えが、じわじわと脳にしみこんで、本当は私もちょっと泣きそうだった。その時は、だから、できるんじゃないかって思ったのだ。ちゃんと仕事を続けられなかった私でも。伯母さんが病気を治して、戻ってくるまでの間なら。
男子寮だってこの時ちゃんと知ってたら、でも、もうちょっと躊躇ったかもしれない。あとで「えぇっ」って叫んだ私を、お父さんは「前から男子寮だって話してただろ」って、呆れた目で見ていた。
身内に引き継ぐとは言え契約のこともあるからと、夏休みが明ける前、寮を管理している学校側とは一度形だけの面接をした。伯母はよほど信頼されていたらしく、職員の方々は「今回は突然のことで、大変でしたね。早く回復なされると良いんですが……。引き継ぎもお身内の方ということで、こちらとしても助かります」って私にまで気を遣ってくれたものだから、吐きそうなほどの緊張は面接の途中で霧散したんだけど。
ある程度伯母から話は聞いていたけれど、寮の案内までしてくれたのは有難く、まだ人気の少ない寮を、説明を受けながら歩いていた。八月の終わりだった。ほとんどマンションと相違ない寮の中は、それでもどこかひんやりとしていた。
半月前まではこんなことになるなんて思ってもなかった。窓からの景色に感慨深くなってしまって、こっそり息を吐く。短大に通っているときですら、こんな便の良い場所には住んでなかったって思うと、やっぱりちょっとドキドキする。
郵便受けの備え付けられたエントランスのある一階には学生食堂と管理人室(ここが伯母の使っていた――これからは私が暮らすことになる部屋だ。エントランスに面していて、ガラス張りの小部屋の奥に、1Kの居住スペースがある。家具や伯母の私物がそのまま置いてあるから生活に不便はしないだろうって聞いてるけど、結構物が多いらしい)、五階建てで、現在は二十人程度の男子生徒が寮で生活していると言う。仕事内容は主に生徒の健康管理、不審者の警戒、荷物の受け取りに共有スペースの掃除などなど。
一つ一つはそう難しいことのようには思えなかったけれど、不安を覚えないとは言わない。年もさほど変わらない男の子たちを、伯母のように純粋に愛せるわけもない。だけど、ここまで来て引き返すことはできなかった。来週手術を控えた伯母を安心させるためにも、私はここで頑張らなくちゃいけなかったから。
「なんとかやれそう」って、伯母に伝えたかったのだ。
大丈夫、なんとかなる。だから伯母さんも頑張って、って。
「折角ですし、管理人室や奥のお部屋も見て行かれます? 私は中までは入りませんので」
「あ、是非……! ありがとうございます!」
私が「彼」と出会ったのは、ある程度の見学を終えて戻ってきた、エントランスだった。
職員の方と話をしていた私たちの真横を、入り口の自動ドアからやってきた彼はコンビニ袋を引っ提げて、スマホを見ながら通り過ぎて行った。
目を引いたのは、その人があまりにも大きかったからだ。私が今まで出会ってきた人の中で、間違いなく一番大きい人だった。高校生なのだろうか、これで、本当に学生?――迷わず寮に入ってきたんだから、そうでなければ困るんだけど。
色素の薄い、寝ぐせのついた髪をしていた。Tシャツにゆるっとしたパンツ姿の、ラフな格好だった。彼は私たちのことなんか視界にも入っていない様子で、エレベーターへとふらふら歩いていく。
「こんにちは」って、ここまで案内をしてくれた職員さんが挨拶をしなかったら、私はそのまま声をかけられず、彼を見送っていたかもしれなかった。
エレベーターの手前で、彼は振り向く。その眠たげな眼が私を捉えたとき、私はちょっとだけ、慄いた。まだ夏休みも何日か残っているから、そもそも私は、今寮に学生はいないものだと思っていたのだ。実際一通り見学していたときだって誰にも会わなかったし、人の気配もなかった。でも、いたんだ。私がこれから、伯母の代わりに暮らさなければならない寮に住む、学生さん。ドキドキするなって方が、無理な話だった。
「こ、こんにちは……!」
どうしよう、もっとちゃんと挨拶すべきなのかな。管理人の代理です、夏休み明けからお願いします、って? 伯母さんのこと、知らないわけはないだろうし。でも、伯母さんはお知らせを作ればいいって話していたから、別に今言わなくてもいいのかな? いずれみんな知ることになるわけだし。
ぐるぐる考えている私に、だけどその人は、そうっと目を細めた。注意深く観察するっていうよりは、もう、はなから興味なんかないみたいな、そういう目だった。
「…………………………どーも」
低く覇気のない声は、静かなエントランスに響くこともない。
一階にあったエレベーターは、彼がボタンを押すとすぐに、受け入れるみたいに扉を開ける。スマホに意識を戻しながら乗り込んだ彼は、それからもう、顔を上げることもしなかった。扉は微かな音を立てて閉じられて、彼を上の階へと運んでいくだけだ。
「………………」
別に、笑顔で挨拶を返されるはずだなんて思っていたわけじゃない。向こうの方から私が誰かを尋ねてくれるんじゃないかとか思っていたわけでもない。
でも、あそこまで無の顔をされると、ちょっと胸が痛い。
白宝高校、男子学生寮の管理人。
ほんとに私に務まるのか、前途多難かもしれないって、この時は思っていた。