三年前、私たちがまだ中学二年生だったあの夏。
 花に水をあげに行かなくちゃって思いついたは良いけれど、当番を決めることすら忘れられていた時点で水やりに関する具体的な指示なんか勿論なかったから、いつ水をあげるのが適当なのか、ちっとも分からなかった。朝夕の二回にしたのは、小学生のとき、一年だけやった園芸委員会で朝と夕方の二回水やりをしていたことを、薄ら覚えていたからだ。
 家を出て一分もすれば、背中にびっしょり汗をかいてしまう程度には暑い日が続いていた。日焼け止めを塗っていても、太陽の光は容赦なく、ハンドルを握る私の腕を焼いていた。日陰から通りに出る瞬間は、いつも世界が白く焼き尽くされたように思えた。日に日に厚みを増す蝉の声に意識が遠くなったのは、片手じゃ足りない。頭のてっぺんにじりじりした熱を覚えながら、こんな炎天下で部活をしている人たちは、何もかもが私と違うんだと思った。身体のつくりから、根性から、何から何まで。
 白と黒の、絵にするのすら難しいボールが空にきれいな弧を描くのは、だから、奇跡のひとたちが使う魔法みたいだった。ホースを握りしめながら、私はそれを見ていた。ぼん、ぼん、って、規則的に響いていたボールを蹴る音は、胸の奥の骨に響いていた。空はいつも、突き抜けるくらい青かった。あの瞬間だけ、世界がこのグラウンド以外にないような気がしていた。








 あの夏、グラウンドの真ん中にいた彼と、端っこでホースを握っていた私が今こうして向かい合って立っているのは、何かの間違いみたいだ。そう思うのは、やっぱり今も潔くんと私の住む世界が違うってことを、私自身が正しく理解しているからだろう。
 その時私たちの間には微かな、けれど確かな沈黙が落ちていた。「潔くんって優しいね」と私が言った直後のことだ。気遣ってくれたこと、手伝ってくれたことへのお礼を言いたかったのに、上手く言葉が続けられずにいた私を前に、それこそ、手助けするみたいに潔くんが「俺さ」って言葉を差し込んでくれたのは、その沈黙が不自然なものになる一歩手前くらいだった。そっと目線をあげる。



「――俺、ずっと覚えてることがあって」



 睫毛が、潔くんの頬に微かに影を落としていた。覚えていること、って、心の中で繰り返す。どうして潔くんが今ここで思い出話をしようとしているのか、それが全然分からなかった。
 だけど潔くんは、続ける。「あのさ」って、穏やかな声で、何か手触りを確かめるみたいに。



「中学の夏、水やり、してたよね、さん。ひとりで」



 だからそれに、頭を殴られたように思ったのだ。
 「え」って、間の抜けた、空気のほとんど入ってない風船みたいな声が漏れる。びっくりした。どうして、って思った。潔くんの方も私を認識していたなんて、今こうして指摘されるまで、想像もしていなかったのだ。自分の方は、あんなに目で追いかけていたくせに。
 けれど潔くんは、笑っていた。ちょっとだけ眉尻を下げて、私のことを真っ直ぐ見ていた。窓から差し込んだ光が、潔くんの顔に柔らかな陰影を作っていた。



「見てたから、知ってる」



 目を丸くしたままの私に、「キモいよね、ごめん」って、潔くんは申し訳なさそうに笑って口にする。だけど、それには首を振った。潔くんが「そう」なら、私だって同じだ。首を振って、私も、って言いかけた声は、潔くんの言葉によって喉に引っかけられる。



「……でも、なんか気になってて、ずっと」



 いつも見ていた。生ぬるすぎる水を吐くホースを引きずりながら、あるいは、乾いた土に水を撒きながら。先生が来るまで、リフティングをしているところ。最後まで一度も途切れることなくボールを空に蹴り上げていた、サッカー部の男の子の、あの背。私の目に映っていたその背のうちの一つは、間違いなく潔くんだった。
 心臓が音を立てていた。それは、私が今あの日のことを鮮明に思い出していたからだ。
 それは、だけど思い出すというよりは、取り出す作業に近かった。私の脳の端には、いつもあの日の光景があった。たった一人、グラウンド脇の花壇に立っていた潔くんの横顔が。
 







 あれは、夏休みも佳境に差し掛かっていたある日のことだった。
 その日、サッカー部は練習試合が組まれていた。夏の集大成としての試合だったんだと思う。いつもグラウンドの片隅にいる陸上部の姿はどこにもなく、サッカー部の男子たちは皆、体操着ではなく膝の出るユニフォームを着ていた。普段とはどことなく違う張り詰めた空気に、私まで一緒に緊張感に飲み込まれてしまいそうになったのを、良く覚えている。学校にバスが着いたのはその直後のことだ。ぞろぞろと降りてくる他校の、どこか大人びてすら見える生徒たちを横目に、急いで花に水をあげてグラウンドを後にした。試合の邪魔になるわけにはいかなかったから。
 私がその日夕方の水やりの時間を遅らせたのは、そういう――サッカー部の練習試合が完全に終わるのを待ちたかったっていう事情があったためだ。ただでさえ重たいホースをずるずる引きずって、水を出すのに蛇口を捻りに戻って、それからダッシュで花壇に戻るっていう煩雑な(かつ結構かっこわるい)手順があるから、できたら人の目を気にすることなく水やりをこなしたかった。
 朝も雑にしてしまったから、しっかり水をあげなくちゃ、って考える。この夏の間、一ヶ月も一人で花壇に向き合っていたせいか、花壇に対する責任感だけは一人前にあった。皆で植えた苗だったのに、私が育てました、って顔をしたくなっちゃうくらい。だってうちのクラスにいるはずの野球部の男子も、陸上部の子たちも、頻繁に学校に来て花壇の前を通りかかっているはずなのに、全然水をあげてくれる気配がないんだもん。そんな顔をしたって、罰は当たらないんじゃないかと思う。――実際はしないし、もし夏休み明け、先生が元気な花壇を前に不思議に思って、誰がやったのかって尋ねたとしても、私がやりました! なんてこと、主張したりもしないけど。
 夕暮れ時、思った通り、朝方は駐車場にあったバスは、もうなくなっていた。陽はいつもより傾いていて、日中照らされていたアスファルトが放つ熱も、普段と比べれば随分穏やかなものだ。なのに日差しだけは和らぐ気配がないのが不思議だった。蝉がじりじり、じゃわじゃわ、鳴いていた。雨の中にいるみたいなのに、私はどこに蝉がいるのか、全然見つけられない。自転車置き場に自転車を置いて、すぐ戻ると思いながらも、いつもの癖で鍵をかけた。制服のポケットに入れて、校舎の脇を通り抜ける。グラウンドは、正門から校舎の裏手に回ったところにある。もう人気のない校舎脇を歩くのは、何だか不思議な感覚だった。いつもは誰かしら、人がいたから。
 練習試合はきっとずっと前に終わったのだろう。他校の生徒はもういなくて、サッカー部の気配もどこにもなかった。職員室のあたりを見上げるに、先生もいないのかもしれない。
 気を抜いて、鼻歌を歌い出す寸前だったから、いつもの水道から伸びた緑色のホースが伸びているのを見た時、息が止まるかと思った。
 二年五組の花壇の前、そこにあった人の影。








「――毎日、さんだけが水やりにきてたの、不思議だった」



 あの日、夕陽を背負ってホースを握りしめていた人は、数々の偶然と幸運が重なった結果、今私の目の前にいる。



「まさかあんな面倒臭いこと、一人に押し付けるわけないし。さんのクラス、当番、決め忘れちゃったんだろうな、って思って」

「…………」

「偉いな、って思ってた。普通そんなこと、しないしさ。実際、誰もしなかったからさんが夏休みの間中、一人で水やりしてたんだし」



 返事も、相槌の一つも打てずにいる私を、潔くんは真っ直ぐ見つめる。



「――だから、優しいって言うのは俺じゃなくて、さんみたいな子のことを言うんだと思うよ」



 少なくとも、俺にとってはそう。って、潔くんは笑った。「優しい」っていう会話にようやく帰着した回りくどさに、自分自身で苦笑しているみたいな笑い方だった。でも、つられて笑ったりできなかった。潔くんの、少し重たい前髪の下の目を見る。その黒い瞳の真ん中に、私一人が立っている。
 練習試合のあったあの日、夕暮れの中の、まだ和らぐ気配のない日差しと蝉時雨の中に、潔くんはいた。
 潔くんの手にした緑色のホースからは止めどなく水が溢れていた。満遍なく、一カ所に水圧がかかることのないように、潔くんは器用にホースの先を指で潰して、水をばらまいていた。二年五組。私のクラスの、皆から忘れられた花壇に。
 あの子、当番の花壇を間違えちゃってるのかなって思った。それが最初に思ったことだった。それなら、ちがうよって教えてあげた方がいいのかも、って。
 だけど、私はそれ以上、動けなかったのだ。
 ユニフォームのハーフパンツから出たふくらはぎ、汚れたスパイクと、湿った土の芳香。汗を拭う手だけが、人間みたいだった。
 疲労のせいか、感情の読み取りにくい目が、濡れた土を見ていた。私の記憶に、どうにかかろうじてひっかかって横たわっていたその人が、普段は決してしないような双眸だった。
 あのとき彼は、怒っていた、多分。
 衝撃って、ああいう瞬間のことを言うんだと思う。
 誰もいないグラウンドの片隅で、私のクラスの花壇に水をやる潔くん、彼が滲ませていた怒りの理由は、探そうと思えば、私でも見つけることはできた。想像の域を出る物では、きっとないけれど。
 この人は、違うんだ、って思った。外に出ただけで暑さにうんざりして、貧血を起こしかけてしまう私とは勿論、そんな中でもボールを追いかけることのできるチームメイトとも、潔くんはきっと、違う。彼はどこまでも真摯で、真面目で、だからこうして一人でいる。怒りを抱えたまま、立っている。瞬間、すぐそこにいる潔くんが、遠い国にいる人みたいに思えた。私とは、全然違う人。内省する目が好きだった。自分から遠すぎる潔くんへの気持ちは、憧憬に似た恋だった。



「わたしも、みてたよ」



 今ここにいる潔くんは、あの頃よりも大人びた。
 背も伸びたし、輪郭も少年らしさを失った。私の前で、あの怒りを湛えた目をすることだって、一度もない。だけど、ずっと恋をしていた。潔くんのことを一つ知る度に、爪先が沈んでいくみたいな、緩やかな恋だった。
 ゆっくりと瞬きをする潔くんに、勇気を出して視線を合わせる。どれだけ力を入れても、でも、目の奥が痛くてたまらなかった。視界が少しずつ滲んで、溶けるみたいに、ありとあらゆるものが消えていった。潔くんの背にある壁も、二人で塗った絵も、潔くんそのものも。「練習試合があった日、潔くんが、うちのクラスの花壇に水をあげてくれてたの、みてた」どうにか口にした言葉に、目の前の潔くんが微かに目を瞠る。「え」って、短い音のような声がその唇から漏れる。



「見てたの」



 あの日から今に至るまで、私は潔くんが内包していた感情の切れ端にだけ目を向けていたけれど。
 でも、今ようやく気がついた。潔くんがあの夏に私の存在を認識していたっていうなら、潔くんは花壇を間違えていたんじゃない。いつも水をやりにくるはずの私が来ていないことに気がついて、それで、代わりに水をあげてくれていたんだ、って。
 でも、だって、そんなの、ない。誰かに褒められるためにやったことじゃないのに、それを潔くんが見てくれていて、それで、あの日だけ花壇の土が乾いていることに気がついて、クラスも違うのに、水やりをしてくれたなんて。お腹の奥から熱が込み上げて、泣きたくなる。私は、知らなかったけれど、あの夏、寂しかった。私以外の誰にも気付かれなかった花壇が、あの頃の私自身が、潔くんの手で、救ってもらえた気がした。
 そうしたらもう、堪えられなかった。「私」って、半分裏返った、震える声で口にする。



「……潔くんの、色んなところを見てくれてるのがすき。皆に優しいところがすき。……一生懸命で、自分に怒れるところが、好き」



 私の身体の内側に折りたたんでいた感情が水分を得て、急速に膨れ上がっていくようだった。それの閉じ込め方を、私は知らないのだ。



「あのときから、私、潔くんが」



 だけど瞬間、手首を掴まれる。それが潔くんの手以外の、一体何だっていうんだろう。言葉に詰まる私に、「まって」って、潔くんが言う。私の手を掴んでいない方の手の甲が、私の目元を拭っていく。クリアになった視界の先に、色んな感情でぎゅうぎゅうになったみたいな、潔くんがいる。
 潔くんの顔は、赤かった。
 その目が私以上に揺れているのを見た瞬間。そして、私の手首を掴んでいた指先に、そっと力が込められた瞬間、いろんなものが腑に落ちた気がした。潔くんが、口元を反対の手で隠して、そっと俯いた。「ごめん」って、潔くんが言う。逼迫した感情がそこにある。



「それ、俺に言わせて」



 掠れた声だった。長い前髪の下の目が細められるのを、言葉もなく見ていた。潔くんの口が、静かに動く。遠くで、文化祭の片付けを終えて帰るんだろう誰かの笑い声がする。力の抜けた私の腕から、九枚分の絵がすり抜けて、廊下に散らばっていく。視界の端で、私たちの一ヶ月が、光を受けて煌めいている。
 四階の窓の外には、陽の光を遮るものが一つもなかった。ぬるい日差しは、あの夏の、容赦のない光とは似ても似つかなかった。



「俺、さんの、自分じゃないことのために動けるところが、好き。笑顔も、考えてることが全部顔に出るところも、すげー好き」



 頭の芯が、柔らかく痺れる。ひ、って、喉の奥が引き攣る。



「俺もさんが好きだよ、ずっと」



 あのときの衝撃より、もっと大きなものを、今の私は覚えている。



「良かったら、俺の彼女になってくれませんか」



 潔くんの手は、掴んでいた手首から滑り落ちるみたいに私の指先に触れた。胸の内側から込み上げる感情に堪えられなくて、「私でいいんですか」って泣いたら、潔くんはその手を、ぎゅって、痛くないくらいの強さで握った。それがびっくりするくらい優しくて、温かくて、全然違うのに、私はあの夏の、死にそうなくらいの熱を思い出した。
 どしゃぶりの雨の中にいるみたいだった蝉時雨。突き抜けるくらい高い青空と、サルビアの赤。私の抱えた、重たいホース。いつまでもボールを蹴り続けていた、神さまみたいな人。
 潔くんが、困ったみたいな顔で笑う。「さんじゃなきゃ、嫌なんだけど」って。言葉にならなくて、代わりに握り返した潔くんの手は、私のものよりずっと大きくて、ぬくかった。


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