原形を留めている紙類は資源ゴミとして一度職員室で回収するらしい。



「俺、これ置いてくるよ」



 ポスターを改めてひとまとめにして口にした俺に、さんは「えっ」って短い声をあげた。さんは一緒に行くつもりでいてくれていたみたいだけど、身一つで学校に来た俺と違って彼女は教室に荷物を置いている。だったらそれを取りに戻ってくれたほうが効率的だし――そうじゃなくても、俺としては都合が良かった。そんなこと、口にはできないけど。



「これは俺一人で持っていくからさ、さんは荷物持って来てもらって、それで改めて昇降口で待ち合わせない? そっちの方が早いでしょ」



 そんで、一緒に帰ろ、って続ける俺に、さんは「!」って息を飲んで、俺の顔を見上げる。



「一緒に帰って良いの?」

「え、帰ろうよ。あ、でももしかして用事あった?」

「ないっ! 帰りたい!」



 「じゃあ、そういうことなら、ポスターをお願いします」って、さんは俺に小さく頭を下げる。不安そうになったり、喜んだり、そうやってころころ表情が変わるの、やっぱいいなって思ってしまって、そうしたらまた腹の底から湧き上がるものを感じてしまって、困った。咳払いをして誤魔化す。さんから受け取ったポスターは、どれもこれも、ちょっとずつ傷んでいた。
 階段を下りて、教室と職員室とで行き先の違う俺達はすぐに別れることになる。



「またあとでね、潔くん」

「うん、また」



 薄ら泣いた名残のある目と朱の残る頬で照れくさそうに微笑むさんの背が角に消えて行くのを見送ってから踵を返した。さんの軽い足音が遠ざかっていく。職員室は二階だから、俺はもう一階分、階段を下りる必要がある。あるんだけど――。



「っ……」



 口元を押さえたっていうのに、「う」とも「ぐ」ともつかない、短い嗚咽のようなものが漏れてしまった。でも、聞かれてないならそれで良い。
 俺は今、感情を持て余している。叫びたいのか、蹲りたいのか分からない。ここがグラウンドだったら、ボールがあれば、仲間がいれば、俺はいくらだって拳を振り上げたし、声をあげることができたのに。サッカー以外のことでこんな風に心がかき乱されている自分が、信じられなかった。
 ただこれが、喜び以外の何物でもないってのは、疑いようもない事実だったのだ。
 踊り場の窓から差し込む光が照らす範囲は限定的で、俺の足元はひんやりと湿っている。内側の熱が、それで排出されてくれるなら良かったけれど、そんな気配はどうにも薄くて、階段を三段ほど下りたところで頭を壁に預けてしまう。叫び出したいのをぐっと堪えている今の俺を誰かが見たら、まあまあ不審人物と認定されるに違いない。でも、取り繕う余裕がなかった。
 さんが俺を好きで、そんで、俺の彼女。
 気を抜くと、また嗚咽に似た音が口から漏れそうになる。体温はめちゃくちゃ上がってるし、有り余ったエネルギーが勝手に外に出て行こうとしている。やばい、俺今、すげー嬉しい。すげー嬉しくて、顔に出る。仕方ないから、息を吐いた。死ぬほど吐いた。そうしてやっと、気持ちが落ち着いたように思えた。



「…………やば」



 だってさんが俺の彼女になってくれるなんて、そんな都合の良いことが起きるって、思ってなかったんだよ、俺は。
 さんが俺にくれた言葉とか、目とか、手の平の温度とか、柔らかさを噛みしめるみたいに反芻させる。皮膚や肉、骨の内側に収まった心臓が、たったそれだけで大きく音を立てるから、さんと俺とで作ったポスターに、つい力を込めてしまった。俺の描いた折り鶴が歪む。
 本当は職員室にも、教室にも一緒に行きたかったけど、嬉しくて、ドキドキしすぎて、それをどうにかするために一旦一人にならなきゃいけないって思ったんだ、なんて言ったら、さんは引くかもな。
 かっこ悪いところ全部曝け出すのは、まだ先で良い。
 人の気配がないことを確認して、ポケットからスマホを取り出す。ポスターを持つ腕を伸ばして、全体が画面に収まるように調整して、シャッターボタンをタップした。思い出がゴミになるのは、やっぱり嫌だった。スマホの画面に収まったポスターは、本物よりも少し褪せて見えたけど。







「わ、待たせちゃった!?」



 教室から走って来たのか、下駄箱の前で俺をみとめて「ごめんなさい!」と謝るさんの髪は、ちょこっとだけ乱れていた。そんなに待っていたわけじゃないけど、行き違っていたらどうしようかなとは考えていたところだったから、「全然待ってないよ」って答えながら、こっそり安心する。さっきあれだけ心を落ち着かせてきたはずなのに、さんを見ると、どうしても、うわー、って思ってしまう。色んな感情の詰まったうわーだから、それ以上は何もない。
 さんは乱れた髪を鏡も見ずに手櫛で整えると、「ミヤコちゃんたちに色々聞かれちゃって」って、気恥ずかしそうに笑った。ミヤコちゃん、っていうのは、さんの友達だ。ついさっき、片付けの最中に教室に現われた俺を見て、開口一番「はポスター回収しに行ってるから、潔も手伝ってあげてよ」って言ってくれた、クラスメイト。



「遅かったから、何かあったでしょって聞かれちゃって、それで、付き合うことになった、って話したら、わーってなっちゃって。……だから、教室、二人で行かなくて正解だったかも。潔くんのこと待たせてるから、後で連絡するね、そのときちゃんと話すからって逃げてきちゃった……」



 顔の位置にあるスチール製の下駄箱の扉を開けて、取り出したスニーカーを地面近くで手放すさんのことを、丁寧だなって見てたから、その顔色がぱっと変わるのも分かった。低い位置から、さんは俺を見上げる。「言わない方がよかった!?」って、あんまりにも真剣な声で聞くから、最初その言わんとしているところが分からなかった。



「う、嬉しくってつい付き合うこと話しちゃった、潔くんに迷惑だったかも」

「え? なんで? 迷惑じゃないよ」

「ほんとに……?」

「ほんとほんと。てか、隠したい付き合いなんかしないでしょ。俺も、さんは俺の彼女なんだって皆に言いふらしたいくらいだし……」

「えっ!」



 靴を取り出しながら、あまり考えずに口にした言葉に、さんが息を飲んだのが分かった。あ、って思って彼女を見る。中腰だったはずのさんはいつの間にかその場にしゃがみこんでしまっていて、両手で顔を押さえている。
 その手の隙間から見えた頬が、びっくりするくらい赤かったから、どうしようかと思った。



「……不意打ちはずるいよ、潔くん」



 蚊の鳴くような声音で、さんが呟く。一体何に対して「不意打ち」と取られたのかは判然としなかったけれど、今のこの状態にどぎまぎして、変になっちゃってるのはお互い様ってことみたいだ。
 なんか、俺達って似たもの同士なのかもしれない。そのとき、心の端に引っかけるみたいに、そんなことを思った。








 さんはいつも、電車で学校にやってくる。俺の住んでいる場所と違って、彼女の通っていた小学校の校区と最寄り駅は、随分近いのだ。電車通学と言っても、電車に揺られる時間は、ほんの数分。一難高校と俺達の住む街は、目と鼻の先である。
 自転車置き場の俺の自転車を見て、「私も次に定期が切れたら自転車にしようかなあ」ってぼやいていたけど、でも、さんが雨の中自転車を漕ぐのを想像したらちょっと心配で、「さんは電車でいいじゃん」って口にした。



「でも自転車だったら、潔くんと登下校できる日もあるかもだし」

「電車の方が俺としては安心だし」



 ほとんど同時に口にして、思わず顔を見合わせる。笑うのはさんの方が早くて、おかげで何だか、つられて笑ったみたいになってしまった。「好き」って気持ちが根底にあって、それで俺達の思考が働いている。そう思うと、妙におかしい気分になる。



「今日はでも、送りたいから、電車はやめて、一緒に歩いていかない?」



 ちょこっとだけ勇気を出してそう言えば、さんは一度俺の顔をじっと見て、ゆっくりと瞬きをした。文化祭を一日楽しんで、後片付けもして、疲れているだろう。電車でさっさと家に帰してあげるべきだ。だって近いって言っても、歩いたら、まあまあ時間がかかる距離なんだから。分かってるんだけど、こういうの、エゴなんだろうけど、でも俺は今日くらい、さんと一緒に帰りたかった。少しでも長く一緒にいたかった。
 折角彼氏と彼女になったんだから。



「――いいの?」



 ぱっと笑ったさんに、胸を打たれたように思ってしまう。「いや、俺がお願いしてるんだけど」って、何とか口にしたのに、さんは、「やった、嬉しい!」って、相好を崩している。そんな風に喜ばれて、嬉しくない男なんかいないよ。
 さんのリュックサックを、(遠慮はされたけれど)自転車の前籠に入れた。車道側になるように自転車を引けば、さんはどうしてか、わざわざ自分が自転車を挟んで俺の向こう側、要するに車道に近い方を歩こうとするから「ちょっとちょっと」って苦笑いしてしまった。「こっち」って歩いてほしい方を指させば、さんは暫し考えて、それからはっとしたように目を瞠って、ぐるりと自転車と俺の身体を迂回するように回り込む。俺の右隣に収まるさんは、最初からそこにいるものみたいに、俺の横に馴染んでいるように見えた。
 へへ、と面映ゆげに笑うさんの輪郭は、柔らかい夕陽にじんわり滲んで溶けている。



「なんか、すごい、つきあってるみたい」



 つきあってるんだよ。
 三年前の俺達は、そんなこと絶対に信じないだろうけど。
 秋の夕暮れは早くて、マンションの建ち並ぶ界隈を、オレンジ色の光が染め上げている。いつもは同じ制服を着た生徒たちで溢れかえる歩道には、疎らにしか人影はない。自転車のタイヤが、くるくる、いつもとは全然違う速度で回っていた。小さい反射板が太陽の光を照り返して、アスファルトに光の粒を落としていた。俺達二人分と、それから自転車一台分の影が、ぼやけた黒さで伸びていた。
 多分、俺達がこういう風に歩ける回数って、そう多くないんだろう。それは諦念というよりかは、ただの事実だった。彼女は俺みたいに放課後に部活がぎっちり入ってるわけじゃないし、休みの日もボールを追いかけることはない。付き合っているって言っても、デートなんかほとんど行けないって、もう想像がつく。それが申し訳なくて、先に謝っておこう、って思ったのに、さんは「あのね」って口を開くのだ。



「私、今度潔くんのサッカーの試合、応援に行きたいの」



 出かけるどころか、一緒に帰ることすら稀にしかできなくて、連絡だってすぐに返せる保証なんかない。「迷惑だったら、いいんだけど」って、ちょっとだけ眉に力を入れたさんは、だけどそんなの、もう分かりきっているんだろう。
 頭で考えるよりも先に、俺の横にあったさんの手に触れる。驚いたのか、さんがちょこっとだけ跳ねたように見えた。その指先を軽く握れば、さんが明らかに狼狽するから、笑ってしまう。そういうさんを作る一つ一つを、好きだなって思う。



「うん、来て」



 硬直したように固まったさんの指は、全然力が抜ける気配がない。「そんでさ、俺も一個いい?」って聞きながら、左手だけで支えた自転車が、ちょっとだけ変に傾いたのを、こっそり立て直した。さんが俺の顔を、そっと見上げていた。光の粒子を集めたみたいな、きれいな目だった。



さんのこと、名前で呼びたい」



 さんが目を見開く。その口から、さっきの階段で俺が漏らしたものよりかは細い音が漏れる。「は、え」って。



、って呼んじゃだめ?」



 念を押すように尋ねた俺に、さんの頬は、あっという間に赤くなって、双眸は一瞬で潤んだ。大きく首を振った後、ややあってから「不意打ち、ずるいってば」って、細い声がその口から零れたとき、俺の胸に、奇妙な充足感が残ったけど、全部、笑ってごまかした。
 やっぱ、可愛いなって思う。大事にしたい。サッカーをする俺を見ていてほしい。隣にいてほしい。グラウンドと花壇の距離なんかじゃなくて、傍で見守っていてほしい。
 もうこれ以上はないって思ってたのに、まだ熱が込み上げてきて、仕方ないから繋いだ手にちょっとだけ力を込める。あの夏、重たいホースを引きずっていた彼女の手は、俺が思っていたよりもずっと、やわらかくて、熱い。


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