一度無理かなって伝えた手前、試合の後に学校に戻るのは、正直言うとちょっと気が引けた。
 勝利の余韻に浸る多田ちゃんたちは、「文化祭行きたかったよな〜」って口にするだけで、実際に今から行こうっていう考えはなさそうだったし、監督だって文化祭の「ぶ」の字も出すことなく、「各自気を付けて帰宅するように! 今日は本当によくやった! 解散!」っていつもの調子で言うだけだった。時計の針を気にして、落ち着かない気持ちでいるのは俺だけだ。



「つっかれた〜」

「どっか寄ってく? 腹減った」



 そう話すチームメイトに「ごめん、俺今日は急ぐわ!」って断って、自転車置き場まで走る。「え、潔!」って名前を呼ばれたけれど、それには大きく手を振るだけにした。学校に行くなんて馬鹿正直に言ったら、理由を聞かれてしまうのは間違いなかったから。今は、一分でも惜しかった。
 ここから学校まで、どんくらいだ? 自転車の鍵を回しながら考える。学校は家を挟んでスタジアムと反対にあった。今日ここに来るときに家からかかった時間と、普段通学にかかる時間を頭の中で計算する。いくら試合があったとは言え学校行事の日にジャージで行ったらまずいから、一旦家に寄って制服に着替えた方が良いだろうし、そうなるとちょっとタイムロスだよな。やっぱさんに言った通り、すっげー頑張んないと無理かも。間に合っても閉会式直前か、せいぜい後片付けに顔を出せるかどうかだ。
 それでも、じゃあやめとこう、とは思わなかった。
 さんに無理かな、って言っちゃったから、そりゃあ気恥ずかしいけど。こいつ、めちゃくちゃ頑張ったんだなんて思われるの、やっぱちょっと気まずいしさ。でも、それでも、無理してでも行きたかった。なんで? って言われたら、困る。折角頑張ってポスターを作ったし、うちのクラスの巨大鶴の評判も、お化け屋敷や、ジェットコースターの出来も、どんな感じだったか知りたかった。言い訳じみた答えはいくらでも浮かぶけど、でも、違うのだ。だってどう頑張ったって、俺が学校に着く頃には文化祭は終わっている。
 俺はさんに会いたかっただけだ。
 こんなこと、本人に言うわけにはいかないけど。
 さんに会って、今日一日がどうだったかを聞きたかった。一緒に貼って回ったポスターをまた二人で集めて、お疲れって言いたかった。そうして一緒に文化祭を終わりにしたかった。
 そんで、試合、勝ったよ、って、自分の口から伝えたかったのだ、俺は。
 そしたらさんが、顔をくしゃくしゃにして喜んでくれるような気がして。
 湧き上がる衝動めいたものが、今の俺にはあった。試合中は置き去りにしていた感情が今身体に戻って、俺を突き動かすみたいだった。
 自転車を漕ぐ足に力を入れる。並木道が作る影と陽が、俺の視界を高速で点滅させる。前籠に突っ込んだスポーツバッグの肩紐が、風に揺れている。周囲の景色は俺の背に飲み込まれるように流れていく。その風景の端に、ちかちか星が瞬くみたいに浮かぶ、小さな背がある。息と一緒に、ああ、って音が漏れる。
 いつもにこにこして話を聞いてくれて、びっくりすると飛んじゃって、靴下の左右を間違えていても昼まで気付かなくて、ペンを拾うのに俺の手まで握っちゃうようなさんは、いつの間にか俺の頭に棲みついていた。部活、頑張ってね、って、俺なんかを応援してくれて、たまに泣きそうな顔で笑うさん。遠くからその小さい背中を見ているだけで良かったはずなのに、同じクラスになったもんだから、俺、欲張りになったんだ、多分。
 茹だるような夏、文句も主張もなく、誰かに気付かれることも褒められることもなく、それでも毎日花に水を与えていたさんを、俺は三年前から好きだった。








「潔くん、ほんとに、ほんとに来ちゃったの?」



 言いながら、来ちゃった、って言い方は良くないなって気がついて、「あっ、来てほしくなかったんじゃなくて、大丈夫だったのかなって……!」って慌てて顔の前で手を振る。



「う、嬉しいんだよ、すごく……!」



 でもこれは、一言余計だったかもしれない。好意っていう自分の感情が漏れてしまった言葉に、思わず口を押さえる。
 潔くんはだけど、全然気にしていないみたいに微かに首を傾けて、「結構無理したかも。学校、さっき着いたんだけどさ、めっちゃ自転車漕いだから足パンパン」って、何でも無いみたいに笑うだけだった。思わず視線を落とす。潔くんの足はいつも、制服の上からでも引き締まっている。



「でも良かったあ。間に合って」



 何に、とは、潔くんは言わなかった。だから、私は言葉を喉の奥に引っかけてしまう。だって、さっき着いたばかりだって言うなら、全然間に合ってない。文化祭は終わったのだ。潔くんはダンスのステージも見られてなければ、お化け屋敷だって入れてないし、ジェットコースターにも乗れてない。



「ま、まにあってないよ、全然」



 呟いた声が掠れる。でも潔くんはちょっとだけ笑って、「間に合ったよ」って、確かめるみたいな声で返すから、虚を突かれてしまった。そのまま「ポスター、あとこれだけ?」って続ける潔くんに、どうにか頷く。
 いつもの潔くんと今の潔くんは、何かが違う気がした。でも、何が違うのかが分からない。
 潔くんが何を思っているのか知りたくて、そっと彼の顔を見た。制服を着た潔くんは、無理をした、って言う割に、平然としていた。表情も所作も、まるでいつもの潔くんだった。午前中サッカーの試合があったなんて、全然感じさせない。そう思って、あ、そうだ、試合、って顔をあげかけるけれど、でも、潔くんが口を開く方が早い。



「ここに来る前に教室に顔出したんだけど、すごいね、あれ。まさに人海戦術って感じ。もうほとんど片付いてたよ」

「えっ! ほんとに? 鶴も?」

「うん。そんで谷センが、やることなくなった人から帰って良いって。皆ぼちぼち解散してる」

「え! うそ!」

「で、さんがポスターの回収してるって言うから、探しにきたの」



 薄く笑って言われたその言葉には、その前みたいに、え、って、言えなかった。
 潔くんからしたら、何てこと無い言葉だろう。でも、探しに来た、っていう一言がじわじわ身体の全体に熱と一緒に広がって、どうしたらいいかわからなくなった。目や鼻の奥まで熱くなって、慌てて目を逸らす。



「お、遅くてごめんね……」

「え、なんでさんが謝るの」

「だって私がぱぱっと終わらせてたら、潔くん、ここまで来なくてよかったし……」

「いやいや、それだったら俺が学校に来た意味なくなっちゃうじゃん。せめて少しくらい手伝わせてよ」

「あ、そっか……! じゃあ、ええと、ありがと……」

「いえいえ、どーいたしまして。……って、これくらいで手伝ったみたいな顔されても困るよね」



 言うや否や、潔くんは会議室の前に貼られたポスターを、丁寧な手つきで剥がす。そんなことないよ、って言いたかったのに、言えなかった。日焼けした、大きな手。骨張っていて、ごつごつして、でも血管が青く浮き上がっていて、爪の形も私と全然違う。
 私たちの背側にある窓から、遮るものの何もないまま、陽がぬるく差し込んでいた。そっと視線を落とすと、視界に、制服に包まれた潔くんの足と、スカートの下で膝の露わになった私の足がある。二人分の影が廊下の壁に伸びている。私たちは、二人だった。文化祭の終わりを、二人でいた。



「し、試合」



 何か喋らないと、色んな感情に飲み込まれて、全然関係ない、余計なことを言ってしまいそうだった。
 一個か二個下の階を、誰かが歩く音がする。その足音は少しずつ遠ざかっていって、益々私たちだけが取り残されたみたいな感覚になる。



「試合、どう、でしたか」



 変に気負って話すから、声が裏返った。でも、潔くんは全然、そういうところでは笑わない。ポスターを剥がすその手を止めて、横に立つ私にちゃんと目線をくれて、それから、「ん」って言う。「勝ったよ」って続けてくれるまでの一秒くらいが、私には、とても長く感じた。短い言葉だったけれど、素っ気なさとはかけ離れた、感情の滲んだ声に、無意識に目を見開く。ドキドキしていた胸が、別の種類のドキドキに覆われて、そのおかげで、変な緊張が飛んでいったみたいだった。



「よかった……! すごいね、おめでとう……!」

「や、まだ初戦だからさ、全然これからなんだけど。――でも、ありがと。さんにそう言ってもらえると、なんか嬉しい」

「!」



 そんな風に言ってもらえると思わなくて、言葉に詰まる。
 潔くんがそのとき、ポスターの方に目線を戻してくれて助かった。そうじゃなかったら、取り繕えないくらいに変な顔をしていたと思うから。顔が熱くなって、こっそり頬に手を添える。制服の内側で、胸がばくばくと音を立てていた。
 潔くんの手つきは、優しかった。私の十倍は丁寧だった。マスキングテープの下に、何か重たいものをぶつけてしまったときにできたらしい黒い傷があって、潔くんの指先は、その傷すら労るみたいにやわらかかった。
 話したいことはいっぱいあって、(例えば三年十組のジェットコースターが、教室をぎりぎりまで使ってレールを敷き、二人乗りのトロッコを手動で動かすものだったんだけど、案外乗ってみると勾配が急で、お腹がスーってなったこととか。お化け屋敷はコンプできなかったけど、そのほとんどでびっくりして、やっぱり飛んじゃったこととか)でも、全然声が出なかった。「ポスター、一人で剥いで回るの大変だったでしょ」って潔くんが言うのに、首を振って「ううん」って言うので、精一杯だった。胸がいっぱいで、色んな事を上手く伝えるのが、難しく思えた。
 だけど言いたかったのだ、これまでの感謝も込めて。



「――潔くんって、優しいね」



 口の中に、水分が全然なくて、そこから先が言葉にならない。
 気遣ってくれて、手伝いに来てくれてありがとうって、そう言いたいのに。
 そっと目線を上げたら、潔くんが、ちょっとだけ目を丸くして私を見ていた。その頬が微かに赤みがかって見えたのは、多分、廊下に反射した光のせいだ。そう思わなければ、私はもう、変なことを口走ってしまったって、おかしくなかった。「すき」って、間違えて、言ってしまいそうだった。
 壁のポスターが、三つ分のマスキングテープを剥がされたまま、宙に吊られるみたいに斜めになって、所在なさげに揺れている。ちょっと力を入れたらもう、それは呆気なく剥がれ落ちるのに、私も潔くんも、何もできずにいる。
 潔くんが口を開くまでの時間は、私にとって、永遠みたいだった。


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