もしも今回の試合が全国大会のうちの一試合だったり、そうじゃなくても地区大会の決勝とか、せめて準決勝だったら、周囲はもう少し、サッカー部の勝敗について敏感になっていたかもしれない。あるいは今日が年に一度の文化祭じゃなかったら、誰かが休み時間とかにこっそり結果を調べて、それが私にも伝わっていたかも。でも、今回はそのどちらでもなかった。私一人が試合をずっと気に懸けて、上の空でいるのだった。
 関係者でもなんでもないのにこんな風に落ち着かずにいるのは、校内をどれだけ探し回っても私くらいしかいないだろう。しかも、何をしていても心の端っこに潔くんが引っかかっているのを自覚しながら、恐らくもう調べれば出ているであろう結果を確かめることもなくいるなんて。我ながら馬鹿みたいだ。
 願掛けみたいなものだったんだと思う。
 文化祭が終わって、片付けも済んで、家に帰って、一人になって、勝ってますように、ってお祈りしてから結果を見たい、って。
 潔くんが真剣に向き合っているものだから、私もそうやって、同じくらい真剣になりたかった。それで結果が変わるわけじゃないっていうのは分かっていたけれど、私の感情の上下にこれ以上周りの友達を付き合わせられなかったし、受験の合格発表みたいに、そのときは一人っきりでいたかったのだ。
 潔くんが試合をする度にこんな風になっていたんじゃ、心臓が持たないね。
 友達とジェットコースターの長蛇の列に並びながら、三年生の教室棟に貼られた、昨日潔くんと貼ったポスターを見る。誰かが変にぶつかったのか、私の描いた巨大鶴の絵の端は、少しだけよれている。








 いつまでも絶え間なく押し寄せていた波が引いていくさなかみたいだ。閉会式を終えた今、数時間前までの賑わいが嘘みたいに、廊下はがらんとしている。
 外部からのお客さんが帰っただけで、厳密には、人っ子一人いなくなったわけじゃない。今頃うちの教室では巨大鶴の解体が進んでいるし、他のクラスも教室を元通りにすべく動いている。窓の奥に見える庭のオブジェは横に倒され、ステージ発表のときの衣装を纏ったまま文化祭を楽しんでいた女の子たちも制服に着替えてごみを集めている。非日常から日常に帰る光景を、私は一人、視界の端で見送っている。
 空き教室から借りてきた椅子を元の場所に戻しに行く道中らしい男子生徒の存在を背に感じながら、丁寧に壁のポスターを剥がした。太めのマスキングテープで貼ったから、剥がすのは簡単だ。でも、簡単すぎたせいかな。中には一部分、既に壁から離れてしまっているものもあった。壁を傷つけることはないって分かっていても、爪の先で、丁寧に剥がす。文化祭の痕跡を拭いさるみたいに、一つ一つが元通りになろうとしている。
 貼ったポスターの回収は、昨日それらを貼って回った私の仕事だった。十枚あるから、十カ所。友達が「手伝おうか?」って声をかけてくれたけれど、それらをどこに貼ったかを知らない友達と手分けして作業することはできなかったし、そうして手分けすることのできない以上、複数人でする作業ではなかった。巨大鶴を解体したり、木枠から鶴を剥がしたり、天井から吊下げた飾りをごみ袋にまとめたり(文化祭の間、教室に入り浸っていた子によると、巨大鶴は老若男女問わずに人気があったらしい。でも、作った物は全てごみになるのだ、寂しいことに)、机と椅子を元に戻したり――教室に残ってやらなければならない仕事の方が、たくさんある。「大丈夫、さっさと剥がしてきて、私もそっち手伝うよ」と丁寧に断って、私は一人、賑やかさの残滓が残る校舎を、ポスターを剥がして歩いている。
 各学年の廊下、美術室の前、第一体育館と第二体育館、昇降口、職員室の前。
 剥がすのは、貼ったときの順番じゃない。効率を重視して、近いところから順々に、だ。



「これも結構傷んでるなあ」



 何枚目かのポスターを前に、独りごちる。
 それだけたくさんの人がここを通りかかった、ってことなんだろう。ごみごみしていたら、どうしても壁に身体がぶつかることってあるし。端っこが千切れたりよれたりしているのは、私が文化祭中に見かけた、三年生の教室前の廊下に貼ったものだけではなかった。教室に戻ったら、これもゴミ袋に入れられる。でも、適当には剥がせなかった。そこに私と潔くんの一ヶ月がある気がした。それを無碍に扱うことなんて、私にはどうしてもできなかった。
 ポスターを剥ぐときは、それまでに剥いで集めたポスターを、まとめて廊下の隅に置く。両手を自由にして丁寧に剥がさないと、マスキングテープがポスターを傷つけてしまいかねなかった。ホールの前に貼られていたのは、潔くんに文字の色を決めてもらったポスターだ。その黄色を見て、潔くんの手の感触を思い出す。それも全部、透明な瓶に入れてしまいたい。
 呼吸を止めながら、四カ所に貼られたマスキングテープをそろそろと剥いだ。窓から差し込んだ日差しが廊下に反射して、私が少し頭を動かす度、ちかちかと視界が点滅するようだった。これを剥いだら、あとは、四階の、会議室前の廊下だけだ。そうしたら、少なくとも、私たちを繋いでいた文化祭は終わる。
 ポスターを集めれば集めるだけ、心にぼこぼこ穴が空く。
 人気のない、ひんやりとした階段を、今日は一人で上った。抱えた九枚分のポスターが、腕の中で擦れて、かさかさ音を立てている。一枚くらい、思い出として持って帰っても良いかなあ。でもちょっと、っていうか、だいぶ気持ち悪いか。潔くんは絵がとても上手でセンスもあるから、ぱっと見だとデザイナーさんが作ったみたいなポスターに見えるけれど、だからって知らないところで勝手に自分の作ったものを持ち帰られたら、嫌だよね。
 階段を上りきって、すぐ右手にある会議室の前まで向かう。会議室は一応休憩所として解放されていたらしいけれど、奥まっているし、人が来ることはほとんどなかっただろう。実際、最後のポスターは、他の九枚と比べるとちっとも傷んでなかった。千切れることも、剥がれることも、他のクラスのポスターに囲まれてぎゅうぎゅうになることもなく、たった一枚、私たちが昨日貼ったときのまま、健気に息を潜めているようだった。私はそれを前に、じっと佇む。
 潔くんが一緒に色を塗ってくれたポスターだ。
 こうして見ると、やっぱり潔くんが塗った部分はムラがなくて綺麗だ。そこだけデジタルで描かれているみたい。本当に、潔くんて器用だな、って思う。それに、それだけじゃなくて、すごく優しい。このポスターだって、本来潔くんが手伝う義理なんかなかった。だって潔くんは、自分のノルマが終わっていたんだから。私が色を塗るのが遅くても、部活に行けば良かった。大事な大会の前だったなら、尚更。



「……なんであんなに優しいのかな……」



 ぽつりと呟いた声は、どこにも吸い込まれずに、私の顔の真ん前にいつまでも浮かんでいる。
 私に対してだけじゃない。潔くんは、皆に優しい。重い物を日直の女の子の代わりに持ってあげているのを見たことがあるし、運動会で怪我をした子に肩を貸してあげていたこともあった。でも、やっぱり思い出すのは、私に向けてくれた笑顔だ。それだけで私は、わ、って顔を押さえたくなる。
 今更こんなことを言っても仕方ないのかもしれないけれど、やっぱり、潔くんと一緒に文化祭を楽しみたかったな、って考える。一緒に回りたかったとか、そういうんじゃなくて、こうして準備をした分、思い出を作った分、今日も同じ光景を見ていたかった。そうしたら、いつか大人になって振り返ったとき、もっとこの日がきらきらして見えたはずだから。
 その傍らで、これも他の九枚みたいに剥がさなくちゃいけない、って、冷静な自分もいる。剥いで、教室に戻って、皆の手伝いをしなくちゃ。ただでさえ、他のクラスよりも後片付けが大変なんだから。でも、私の両足は、床にぴったりくっついたままだった。動けなかった。ずっとこのままここに立っていたかった。これを剥いだら、本当に文化祭が終わってしまう気がした。



「でも、閉会式も、終わったじゃん……」



 言い聞かせるように口にした声は、ぬるま湯に浸ろうとする私を殴る。
 いつまでもここにいたって、仕方ない。分かっているのだ。私はだから、これを剥いで、終わりにしなくちゃ。最後の一枚。私と潔くんが作った最後のポスター。これを回収して、それで、おしまいだ。
 細い息を吐く。持っていたポスターを一度床に置くために、視線を落とす。
 潔くんの塗った文字を穴が空くくらいじっと見ていた私の耳が、自分のものではない誰かの足音を拾ったのは、その時だった。
 私みたいにポスターの回収に回っている誰かだろうか。まだ残っているポスターがそこかしこにあったから、該当のクラスの生徒が剥いでいるのかもしれない。そう考えたけれど、足音は、この会議室脇の階段を上ってこちらに近づいている。私のそれとは違う、恐らく一段飛ばしの、軽やかな足音だった。それが三階を通り越してこの四階に向かっていると気がついたとき、私はやっと、あれ、って思った。
 だってこの四階の会議室付近で文化祭の欠片を残しているのなんて、このポスター以外に見当たらなかったから。
 たん、たん、たん、って、それは近づく。誰かが階段を上りきったそのとき、一際大きな音がする。視界に何かが映り込む。
 最初に目に入ったのは、内履きの爪先か、その黒い髪、あるいは制服に包まれた腕。
 え、って、短い声が漏れた。だって、それは、知っている人だったのだ。知っているどころか、今日一日、私が飽くことなく思い描いていた人。その瞳は、すぐに私を捉える。安堵したように微かに細められた目は、いつもの彼とちっとも変わらない。昨日の言葉が蘇る。「試合自体は一試合目で、朝一だからさ。すっげー頑張ったら、ギリギリ顔出せるかなくらいなんだけど……でも、無理かな」彼は確かに、そう言っていたのに。
 階段を駆け上がって来たっていうのに息一つ乱していない潔くんは「さん」って私を呼んだ。目を丸くする私に、困ったように笑って。



「…………すっげー頑張っちゃった」



 なんで、って私の言葉に重なったその声は、ちょっとだけ照れくさそうだった。


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