文化祭当日のその日は、すっきりとした秋晴れだった。
夏の日差しとは違って、首を持ち上げて空を仰いでも、眩しさに目を開けていられなくなるほどではない。風はあまりなくて、日陰じゃなければ寒さも感じなくて、でも空気はちょっと乾燥している。冬の国立、その地方大会の試合を行うには、恵まれた天候だろう。学校へ続く道を歩きながら、ぼんやりと空を眺める。その先に繋がっているものを、懸命に探すみたいに。
今頃潔くん、会場に着いたりしてるのかなあ。
朝一って言ってたけど、開始時間、何時からなんだろう。そもそも、どこの会場? 調べれば分かることなのに、スマホに手を伸ばす気が起きない。本人に聞けなかったことを陰でこそこそ調べるのってなんだか良くないことのように思えたし、それで今日一日上の空になってしまうのも、一緒に文化祭を回る約束をしている友達に悪い気がしたのだ。
潔くんに「頑張ってね」って言えなかったことは、胸の内側にしこりになって残っている。だから、せめて次に潔くんに会ったときは、「お疲れ様」って言おうと思った。もしもっと勇気が出たら、今度応援に行ってもいいかな、って。でも、そんなの迷惑かな。それはしゃしゃりすぎかな。潔くんに困った顔で「え」って言われたら、ショックで寝込んでしまうかもしれない。でも、すげー頑張る、って笑ってくれた潔くんが、いつまでもぬるい温度を持って私の中に残っていて、あのときの衝撃とか、胸の高鳴りに、私は今も殴られ続けているのだ。欲張りだけど、もう一度、あの笑顔を見たいって思ってしまうのだ。
潔くんの「特別」にしてほしいなんて贅沢は言わないから、友達にするみたいに笑ってほしいって。
ただ、それ以外に何か許されるなら、高校二年生の今を、潔くんのクラスメイトとして接することのできるこの日々を、つるつるに磨いた瓶に入れて、大事に抱えていられたらいいなって思った。そんなことを考えながらそっと目を伏せたら、視界の隅を、赤い車が通り過ぎていった。
「潔、残念だったねー」
隣を歩く友達にそう声をかけられたのは、体育館で形だけの開会式を終えた後、教室に戻るその道中だった。これから最後の準備や確認をして、九時半には外部のお客さんがやって来る。私たちのクラスは教室展示のみで時間に縛られることがないから、教室で諸連絡を受けた後は、閉会式のある十四時まで自由に過ごすだけだった。
全校朝会の行き帰りのときとは違う緩い空気に、後ろを歩いていた子も私の右隣にやって来て「ほんと、よりによって大会なんてねえ」って口にする。私は二人に挟まれながら、「ね」って、愛想笑いみたいな表情を浮かべてしまう。
「でも、なんか試合、朝からだって聞いたけど。終わったら学校に戻って来れたりしないのかな?」
「会場によるんじゃない? でもさあ、自分だったら、試合の後汗だくの状態で文化祭来る? 間に合うかギリギリなのに」
「行かないよー。しかも一回制服に着替えなきゃだし、無理だ」
「ね。しかもサッカーって試合の間、何十分も走んなきゃでしょ? 体力キツいし、流石にムリだよ。勝ったなら兎も角、負けたらもうそれだけで気持ち落ちちゃうだろうしさあ」
「か、かつよっ!」
ずっと黙って二人の話を聞いていたけれど、負けたら、って言葉に思わず力強く叫んでしまった。いっとう響いた声は、ざわめきの中でも目立ってしまう。
二人の丸い目が、私を見つめる。前を歩いていた男子も、ちらりとこちらを振り向く。何なら一瞬、私たちの周りだけがちょっと静かになってしまったくらいで、それに気がついて、顔が熱くなってしまった。でも、もしも負けたらなんて聞かされて、それを聞き流せることができるほど、私は大人じゃなかったのだ。
無意識に作っていたらしい握りこぶしが、身体の横で、僅かに緩む。
「……負けないよ……」
自分に言い聞かせるみたいな、揺れた声だった。
潔くんが負けるところなんて、だって、想像がつかないのだ。あれだけ一生懸命にボールを追いかけている人なのに。だから、びっくりした。そんな未来を考える友達に。あるいは、そんなこと考えもしていなかった自分自身に。
だけど、先にその目を細めて、「だねえ」って言ってくれたのは、負けたら、って言い出した子の方だった。
「――うちのサッカー部、めっちゃ強いもんね。こんなところじゃ負けないか」
「そうそう、応援組も行ってない地方大会の序盤で負けるわけないって」
もう一人の子が腕を絡めてくる。そうすると、強張っていた自分の膜みたいなものが、ゆるゆると柔らかくなっていくように思えた。友達の身体の奥に、私と潔くんが貼ったものではない、別の学級のポスターが見えて、どうしてかどき、とした。
「負けたらなんて言ってごめんね」
悪気があって言ったわけじゃないのに、そうして謝ってくれる彼女に、私は首を振るしかない。
二年二組の教室が近づいて、周囲の会話が減る。皆の歩くスピードがちょっとだけ遅くなる。教室に入るのに、ちょっともたつくせいだ。ぞろぞろと吸い込まれるみたいに歩く皆を見ていると、何かそこに、見えない力が働いているみたいに思える。
巨大鶴が中央に鎮座する、いつもと違う教室の、いつもと同じ場所にかかった時計を見ると、もう九時二十分になっていた。「朝一から」って言ってたくらいだもん。試合は多分、始まっているだろう。調べなくても、それくらいは分かる。
サッカーは、そんなに詳しくはない。テレビで試合をしているとき、前だったらすぐにチャンネルを切り替えていたのを、三年前からはじっと見たりすることが増えたとは言え。でも、一年の間に色んな大会に出場するサッカー部にとって一番大事な大会が、今日行われている試合の先にある、っていうことだけは、薄ら理解していた。潔くんが、どれだけこの大会に気を注いでいるのかも、分かっているつもりだった。
潔くんは負けないって、私は本気で信じていた。
だって潔くんは、時々一人だけ別の世界にいるみたいな顔をする。あの夏みたいな。
そういうとき潔くんは、自分とそれ以外の何もかもを切り離して、サッカーのことだけを考えているように見えた。
ダンス部のステージも、演劇部の発表も、隣のクラスのダンス(というよりミュージカルだった)も、OBの先輩のバイオリン演奏も、見所と思われるものは全部見た。お化け屋敷は半分くらいしか回れなかったけど、どの教室も物凄く凝っていて、悲鳴をあげすぎて、最後は声が掠れてしまったくらいだった。お化けに驚かされた際、何回か友達の足を踏んでしまって、やっぱり私、飛んじゃうんだな、って思った。潔くんのことを思い出したけど、畳みかけるように暗闇からカツラを被った男の人が飛び出してきて、叫んで逃げた。
廊下を歩いていたら友達のご両親とばったり会って、ご挨拶をした。生徒に人気のある先生と写真を撮った。美術部の作品も、写真部の写真も見て回った。普段は学校に来ない移動パン屋さんでお昼を調達して、人で溢れかえる中庭の、花壇の傍に座って、皆でパンをかじった。朝はなかった筋雲が空に浮かんでいて、それはたまに太陽を遮って、ちょっとだけ肌寒かった。十月。少しずつ時間は進んでいって、いつの間にか、あと半年で二年生も終わってしまうらしい。
「これ食べたらさあ、三年生のジェットコースター見に行こうよ」って言う友達に、「行きたい!」って頷く。友達の背の後ろで、赤いサルビアが、そよそよ風に揺れていた。そうしたら、やっぱり潔くんのことを思い出してしまった。試合、もう、終わったかな。って、ぼんやり考える。連絡先くらい、聞いていたら良かった。そうしたら、こんな風にざわざわして、パンの味も分からなくなることも、なかったかもしれなかった。