文化祭の前日は、午後からその準備にあてられることになっていた。
 体育館で劇やダンスを発表するクラスは最後の練習に余念が無くて、うちみたいに教室を使うクラスはその下準備で忙しい。これまで教室の隅にあった鶴の模型が堂々たる様相で真ん中に鎮座しているのを見ると、私の折った鶴なんて皆の数十分の一にも満たないだろうに、何だか誇らしい気分になってしまった。私からしたら途轍もなく複雑な計算をして模型を作ってくれた三崎くん(めちゃくちゃ頭が良い男の子だ)と、美しく、かつ大きく見えるように折り鶴の色を厳選しながら配置した久慈山さん(とってもセンスが良くて、爪の先までオシャレな子!)のおかげ、って言いたくなるけど、折った鶴の総数を聞くと、これはもうクラス皆の力だね、って、まだ準備が終わってすらいないのにクラス中を回って労いたくなる。
 教室にどんと巨大鶴を設置するだけじゃ寂しいから、って、余った折り紙で作った飾りを天井から吊しているのを感心しながら見上げていたら、背後から「さん」って声をかけられて、冗談抜きで息が止まった。「はいッ!?」って返事をして振り返ると、そこには潔くんが、ちょっと困ったような表情で立っている。



「……ごめん、びっくりさせたかも」

「や……っ! 大丈夫、びっくりしてない」

「でもさん、ちょっと飛んでたけど」

「びっくりしたら飛んじゃわない……?」

「俺は飛んじゃわない、かな」



 「てか、それだとやっぱ、さんがびっくりしてることにならない?」って笑う潔くんに、思わずはっとしたら、潔くんは周囲の、皆の声に埋没するくらいの細やかな声量で笑った。
 潔くんの笑い方は、なんか、やわこくて、好きだ。目がきゅって細められて、たまに鼻の頭に皺が寄って、昔飼っていた猫の千代丸みたいになる。嬉しくなってしまってつられて「へへ」って笑ったら、今度は潔くんの方が戸惑ったみたいな顔になって、なんだか変な感じになった。私たちって、打ち解けたようで、まだお互いに気を遣い合っているところがある。何となく話せるようにはなったけど、クラスの仲の良い男女のグループみたいに、背中を叩いたり軽口を言い合ったりお菓子を食べあったりとかは、全然できる気がしない。
 それでも中学生のときからしたら、ものすごい進歩なんだけど。
 ふと目線を落としたら、潔くんがポスターを持っていることに気がついた。私たちが机を並べて描いた、鶴のポスターだ。それ、って言いかけたとき、思い出したように潔くんが「あ、そうそう」って、ポスターを持ち上げる。



「これ、二人で貼ってきてくれって、実行委員に頼まれたんだ」



 今時間あるなら、行かない? って。
 潔くんがそう微かに首を傾げて尋ねた瞬間、つい後ずさってしまったのは、頭の中で、「潔くんと二人で!?」って思ってしまったせいだろう、多分。








 校内ならばどこに貼っても良いけれど、剥がすときに壁を傷つけないようにすること、っていう指示だけを受けて、私と潔くんは昇降口に向かった。とりあえず、人の目に入るところに貼っておきたいよね、って二人で話し合って、外部のお客さんがやって来るところから辿りやすいルートを考えていくことにしたのだ。
 秋の陽光が窓から差し込んで、リノリウムの床に光の跡を落としている。空気中の塵が点滅するみたいに光っていた。教室にある分だけじゃ展示に使うのに足りなかったのか、空き教室にあった椅子を抱えてきゃあきゃあ笑っている一年生の女の子たちとすれ違う。開け放たれた窓の奥、少し乾燥した風がどこかの教室で起きた大きな笑い声を運んでくる。色んな音や声が混じり合って、明るい喧噪を生んでいる。
 文化祭の前日っていう非日常感に、学校全体が浮き足立っていた。それが足の裏から伝わって、私ごと膜で覆っているみたいだ。胸の内側で高揚感がふくふくと膨らんで、膨張していく。潔くんが隣にいるから、何倍も、何十倍も楽しい。――これはただの、前日準備なのに。



さん、めちゃくちゃ楽しそう」

「えっ」

「そんなに文化祭楽しみなんだ?」



 薄く微笑まれて、慌てて頷いた。嘘じゃないけど、今私の顔が緩んでいるんだとしたら、それは間違いなく、隣に潔くんがいるからだ。でも、そんなこと言えるわけがないから、「うん、楽しみ、すごく」って、念を押すみたいに口にした。私の言葉は、いつもの自分のものより、ちょっと潰れて響いている。「そっか」って、潔くんが自分のことみたいに嬉しそうに笑う。



「でも、それわかるな」



 職員室脇を通り抜けて、昇降口へと続く階段を下りるときには、もう他に人の気配はほとんどなくて、潔くんの声が微かに反響した。



「今年の文化祭、なんかめちゃくちゃ楽しそうだよね。パンフレットの表紙とか妙に力入ったしさ」

「あ! お花の絵でしょ? あれねえ、九組の子が描いたんだって」

「え、やば。あの絵、絶対プロだと思った……」

「ね、上手だったよね」



 先日配られた一難祭のパンフレットは、もうもらったその日に熱心に眺めた。表紙に描かれた絵に感心した後は、校内図と睨めっこしながら、ここに行きたい、あれが見たい、ダンス部の発表は絶対だよね、ってお友達と話し合った。そのとき、「は潔と回らないの?」って冗談交じりに聞かれて、めちゃくちゃびっくりしてしまったけれど。
 思い出して、慌てて首を振る。回るわけないじゃん、って、今の自分に言い聞かせる。天地がひっくり返っても、私たちが一緒に文化祭を見て回ることはない。万が一誘われるようなことがあったら、そりゃあ、そりゃあ勿論断らないけれど、それだって、絶対、絶対ないから。



「うちのクラスも皆頑張ったけど、他のクラスもすごいよね。お化け屋敷の数なんか、ここ数年で一番だって」

さん、お化け屋敷好きなの?」

「好き……かは分からないけど……。実はお化け屋敷、入ったことなくて」

「じゃあさん、びっくりする度に逐一飛んでそう」

「とっ…………とばないよ」

「ほんとに?」

「……多分」



 考え込むように首を傾げながら言う私に、潔くんが笑った。階段の踊り場には、もう既に宣伝用のポスターが貼られている。仕事が速いなあって思いながら、何の気なしに目線をやった。三年十組、手作りジェットコースター。「あっ、これ」って思わず立ち止まって指を指す。笑われて気恥ずかしかったから、それで話が変わればいいっていう思いも、そこには確かにあった。



「お化け屋敷もいきたいけど、一番はこれに乗りたい!」



 私の言葉に潔くんも足を止める。そうして彼を見上げると、思っていたよりも潔くんの顔が近くにあったから、ちょっと飛んでしまいそうになった。だから、潔くんのさっきの言葉は、強ち間違ってもいないのだ。私はびっくりすると、やっぱりどうしても、身体がびくって動いてしまう。「ジェットコースター?」って口にする潔くんは、そんな私に全然気付かないみたいで、「え、めっちゃ楽しそうじゃん」って、その目をぱっと見開いている。
 教室でジェットコースターって、もう全然想像がつかない。手動なのかな? 流石にそうだよね。力学で動かすんだよね。でも、実際はどうなんだろう。ポスターにはトロッコの絵が描いてあるだけで、想像の一助くらいにしかならなかった。もうこんなの、自分の目で確かめるしかない。パンフレットで「ジェットコースター」の文字を見つけた時のわくわくが蘇って、高揚のままに「潔くんも乗りに行く?」って聞こうとしたときだ。



「あー、これ、めっちゃ行きたかったなあ」



 眉尻を下げた潔くんが、そう言ったのは。
 まるで明日、文化祭に参加できないみたいな言い方だ。瞬きをしながら、「え?」って聞き返す。潔くんの顔は相変わらず近くにあったけれど、その近さには一回驚いていたから、もう飛ばなくて済んだ。ただ、潔くんの黒い目が息を飲むほどきれいだった。冬の夜みたいな、静かな目をしていた。
 十枚のポスターを折り曲げないように大事に抱えた潔くんは、「明日、俺、大会なんだ。部活の」って、ちょっとだけ困ったみたいに笑う。



「だから、公欠なの」



 たいかい。
 口の中で呟いたら、全然別の言葉みたいに聞こえたのが、不思議だった。



「試合自体は一試合目で、朝一だからさ。すっげー頑張ったら、ギリギリ顔出せるかなくらいなんだけど……でも、無理かな」



 まあ、俺が頑張ったのなんてポスターくらいだけどさ。それでも今年は文化祭、普通に楽しみたかったな。って。



「試合は試合で大事だし、こんなこと言っても仕方ないんだけどね」



 文化祭。一緒に回ろうと誘うつもりは一切なかったし、誘われるわけがないっていうのも分かっていた。でも、校舎のどこかですれ違えたら良いなとか、ばったり会ったら声をかけるくらいはしてもいいのかなとか。こうしてお話ができるようになった今なら、ちょっとくらい潔くんと関わろうとしてもいいんじゃないかなって、そういうのを一切考えていなかったかっていうと、そんなことはないのだ。
 でも、明日、潔くんは学校のどこを探しても、どこにもいない。



「そっかぁ…………」



 それは、とても残念だねえ、って。空気の抜けた風船みたいな、すかすかの声が漏れる。
 この前みたく、せめて、頑張ってね、って、応援してるね、って言えたらよかったのに、言うタイミングを逃してしまった。潔くんの伏せた睫毛が、微かに揺れていた。「だから、今日だけでも文化祭っぽい雰囲気、味わいたいんだよね」って、その言葉が、浸透するみたいに染みこんでいく。そんなことを言われてしまったら、がっかりした顔なんて見せられなかった。
 なるべく笑顔と会話を絶やさないようにしながら、潔くんと作ったポスターを一枚ずつ校内の壁に貼っていく。昇降口。職員室の前、各学年の廊下。第一体育館と第二体育館。ホールと美術室の前。最後に残った、二人で塗ったあの一枚は、四階の、あまり人が通りかからなそうな会議室の前に貼った。もう他のクラスもポスターを貼って回っていて、そこくらいしか空いているところがなかったのだ。



「――これでおしまいか」



 その横顔を見上げたとき、私は、あの日潔くんが見せた横顔と、全然違うな、って思った。三年前の夏の夕暮れ、彼の目が静かな怒りを湛えていた日。



「お疲れ様、さん」



 そう呟いた潔くんの声は、どこか物寂しげに聞こえた気がした。


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