蝉が鳴いていた。
 七日しか生きていられないなんて言うけれど、空気を微かに震わせるようなその鳴き声は、一ヶ月近くが経ってもちっとも変化があるようには思えない。アブラゼミだったらアブラゼミで、人間みたいには、そこに個体差なんかないのかな。それとも、私の耳が細やかな差異を捉えられるような繊細な造りになっていないせいなのだろうか。私が分からないだけで、本当は人間のそれみたいに、少しずつ違うのかも。そんな詮無いことばかりを考える。自転車に乗っているときって、大抵そう。
 じりじり、じゃりじゃり、しゃわしゃわ、重なったそれらは、どしゃぶりの雨の中に放り込まれたような感覚に陥らせる。本当に雨でも降ったら良いのに。だけど雨が降っていたら、そもそも私は一人自転車を漕いでなんかいないのだ。額から落ちる汗が鬱陶しくて、手首で拭う。さして膨らみのない胸の間を伝う汗も、それでなくなったらいいのに。そんなことはないから、制服の下の汗は我慢するしかない。



「あっつー……い……」



 まだ朝だっていうのに、茹だるくらい暑い日だった。
 ニュースでは毎日のように「真夏日」や「熱帯夜」という単語が飛び交って、熊谷は今日も日本で一番暑かったって報じられる。噴水で遊ぶ水着姿の小さな子供達、控えめなお値段のラーメンが二杯は食べられる値段の、白玉の乗ったかき氷、あとペンギン。南極の氷。蝉の鳴き声について思考を終えた後は、そういう、ありとあらゆる「涼しげな雰囲気のするもの」を思い浮かべた。どうにか涼しくなって、って、念じるようにこぎ続けるうち、自転車は、校門を潜り抜ける。錆のついた門は、夏休みでも変わらず開いている。
 部活があったわけじゃない。先生に呼び出されていたわけでもない。ただ、花壇に水をあげようと思ったのだ。うっかり屋さんの担任の先生が、花壇の水やり当番を決めないまま、そして誰もそれを指摘しないまま、夏休みに入ってしまったから。
 私がそれを思い出したのは、夏休みが始まって三日が経った朝だった。ベッドの中でもにゃもにゃと寝返りを打って、カーテンの隙間から漏れる日差しから逃げたとき、ほとんど天啓みたいに「先生、水やり当番決めるって言ってたのに決めてない!」って気がついたのだ。「そのうち決めなくちゃなー」って言ってたのに。若い男の先生だったし(それで判断するのも偏見みたいで良くないのかもしれない。だから、若い先生だから、っていうよりは、私の目から見た先生の印象として、という話になるんだけど)、もし忘れていることに気付いたって毎日水をあげにくるタイプであるようには思えなかった。
 花壇、多分、誰も水をあげてないんだろうな。
 それに気がついてしまったら、知らんぷりを決め込むわけにもいかなかった。それだけだった。
 うちの学校の花壇は、校庭脇にあった。学級数が多い分、おかげで土色のグラウンドも華やかだ。だけどその中で二年五組の花壇を目にしたとき、うわあ、と思った。他のクラスの花壇と違って、見るからにしおしおしていたから。葉っぱも花びらも生気がなくて、朝の、まだ比較的緩い日差しにすら負けてしまっている。
 やっぱりこの三日、誰も水をあげてないんだ。
 慌ててホースを引っ張ってきて、一旦花壇の近くにそれを置く。それから走って蛇口を捻り、また走ってホースの先まで戻る。思ったよりもちょろちょろだったから、もう一往復。それでやっと丁度良い水量になった。
 ホースを持ち上げたとき、軽く水がはねた。指先から、ホースのゴムを隔てて、水の流れる感覚がある。花びらに直接かからないように、茎から下の部分を目掛けて、雨みたいに水を撒く。土を湿らせると不思議なもので、花がさっきまでよりもずっと生き生きして見える。さっきまでじりじりと暑かったのが、私まで少し生き返ったよう。ああ、よかったねえ、これから毎日、私が水をあげにくるからね、って、心の中だけでそう呟いたときだった。



「何分やってんだ、あれ」

「相変わらずすげー」



 そんな声に、ぱっと顔をあげる。
 朝の九時にもなってなかったけれど、グラウンドにはサッカー部と陸上部、それから野球部の子たちがいた。
 校庭の片隅に作られた野球用のマウンドに集まった野球部と、走り幅跳び用の砂地があるあたりで準備運動を始めていた陸上部と比べれば、サッカー部の声は比較的真っ直ぐに耳に入ってくる。その真ん中で、男の子が器用にリフティングをしているのを、同じくサッカー部の子たちが眺めていた。私がどんなに頑張っても二回しかできないやつだ、って、ぼんやり眺める。
 背も高いわけじゃない、体つきもどちらかと言えばほっそりとした男の子だった。彼の蹴るボールは、けれど目が離せないくらいに美しい軌跡を描いていた。純度の高い青い空を、土で汚れたサッカーボールがくりぬくみたいだった。私にはサッカーのことは良くわからないけれど、それでも彼のリフティングは、きれいだな、って思った。
 それが誰だったかを、私は今も知らないままだ。








「あれで大丈夫だって。提出してきたよ」

「本当? 良かった〜……!」



 潔くんの言葉に胸を撫で下ろしたとき、自分の手の甲に赤いマッキーがついていることに気がついて、慌てて隠す。
 毎週水曜日に二人で描いたポスターは、文化祭の前の週になる頃には合わせて十枚に及んだ。何枚必要だとかは言われていなかったけれど、校舎のあちこちに貼るんだったらこれくらいあったほうがいいよね、って、潔くんと話し合って決めた枚数だった。ちょっとギリギリになってしまったけれど、無事に最終チェックもクリアーして提出できたんだったら安心だ。肩の荷が下りて、頬の力が抜ける。
 教室には、既に鶴の模型が完成していた。皆がこれまで折りに折っていた鶴がそれを覆うように貼り付けられているところだったけれど、やっぱり鶴は足りてないみたいだった。教室の隅では、ラストスパートとばかりに鶴を折っている子たちがいる。「もう折りすぎて目瞑ってても折れるわ」という誰かの言葉に、同意と笑いが漏れている。
 時刻はもうすぐ午後四時半。とっくに六時間目の授業は終わっている時間帯で、ここにいるのはいわば文化祭の準備のために自主的に残っている子たちだった。そんな時間に大会を控えた潔くんがいるのは、どう言い繕っても、私のせいだ。



「ごめんね潔くん。最後、手伝ってもらっちゃって……」

「いーよいーよ。てか、あんなんで手伝いになってたかどうかもわかんないし」

「なってたよ! 速いしムラないしすごかった!」

「えっ……いや、そんな褒めないで。照れる」



 潔くんはそう謙遜するけれど、誇張なんか一つもしてない。私が最後に描いていたポスターは、妙にマッキーを使う面積が多かった。先に作業の終わっていた潔くんが一緒に塗ってくれなかったら、どれだけ時間がかかったか。



「潔くんが一緒に塗ってくれなかったら、絶対大変だったから……」



 思い出して顔が熱くなるような感覚になるのは、その時の潔くんの顔が、めちゃくちゃ、もう、ほんとにめちゃくちゃ近くにあったせいだった。二人で一枚の絵の色を塗っていたんだから、近いのは当たり前なんだけど。
 さらさらの黒髪、良く見ると長い睫毛、それから喉仏、見ちゃダメだって刻み付けるように思いながら色を塗ったから、もう記憶があまりない。マッキー独特のにおいには慣れた気がしていたけれど、この時ばかりはちょっとぐるぐるした。



「部活行かなくちゃいけないのに、ほんとにごめんね……! ありがとうございました……!」

「いや、マジで気にしないで。文化祭の前ってなると、ちょっと遅刻して来る奴とか結構いるし」



 そもそも俺達二人の仕事だったんだし、って、潔くんは続ける。
 潔くんが細めた目を向ける先に自分がいるのが、信じられなかった。
 好きだな、って思ってしまった。こんな風に、どこまでも人を気遣う潔くんのことが。
 潔くんはエナメル製のスポーツバッグを肩にかけて、「何にせよ、出来上がって良かったぁ」って、解放されたみたいな声で言う。あ、潔くん、行っちゃう。って、その時思ってしまったのは、何でだろう。大会を控えていて、練習をたくさんしなくちゃいけない潔くんを自分の作業の遅さが原因で教室に留めてしまったってことくらい分かっているのに。それを申し訳ないって思う自分も確かにいるのに。なのに、引き止めたくなってしまう。もう少し一緒にいられないか、どこかに何かがないか、探したくなる。
 私の背後で、誰かが何か、面白いことを言ったらしい。弾けるような笑いが起きて、身が竦んだ。潔くんの双眸が、一瞬だけそちらを向く。名残惜しそうに見えたのは、気のせいだ、絶対。
 そんな勘違いをしてしまうのは、もう隣に並んで絵を描くことはないって、わかっているせいだろうか。



「――じゃ、俺、部活行くね。また明日、さん」

「あ、あのっ」



 踵を返して教室を出て行こうとする潔くんを呼び止めたのは、だから、頭で考えた末とかでは、なかった。
 振り向いた潔くんの背の奥で、夕陽が落ちようとしている。秋の夕暮れって、一年で一番透き通って見える。光の残滓が、潔くんの髪を透き通らせる。輪郭が滲んで、淡く発光する。
 吸った息が喉に張り付いて、変に咽せそうになった。それを堪えたせいなのか、緊張のせいなのか、潔くんが好きだ、ってこんなときに思ってしまったせいなのか、分からない。ただ、眼球が酷く熱を持っていた。あの夏みたいに。



「サッカー部の大会、もうすぐなんだよね」



 ちょっとだけ、声が裏返る。
 潔くんが瞬いたとき、胸が苦しくなって、思わず胸元に手を当てた。スポーツバッグに添えられた潔くんの手は、私みたいに汚れてはいないのが不思議だった。変な沈黙がこれ以上続くのが嫌で、ぐっと息を飲む。ずっと自分の中で転がし続けて、つるつるになった言葉を、ようやく吐き出す。



「が、がんばってね……!」



 そう言った瞬間、潔くんが、ちょっとだけ目を見開いた気がした。
 潔くんが「ん」って微かに頷くまでにどれくらいの間があったかは、頭がぐるぐるしていた私には、正確には分からない。
 だけど、「ありがと、さん。すげー頑張る」ってくすぐったそうに笑った潔くんに、頭を殴られたみたいに思った。潔くんは教室を出て行く。その後ろ姿が扉の奥に消えたとき、本当は、そのまま蹲って、わあって叫びたくなった。
 もしも感情が目に見えるものだったら、私が今抱えている「好き」って気持ちは、この教室でいっぱいになって、壁やら天井やらを破壊してしまうんだろう。でも、それでももう、いいや、って思った。抑えられなかった。私はやっぱり、潔くんが好きだった。
 三年前の、あの夏からずっと好き。
 でもそう言ったら、潔くんは、なんで? って笑うんだろうな。


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