遠目からでも見えるようにもっとでかい紙に印刷するとか、数カ所に貼り出すとか、いっそのこと全員分印刷して配布してしまうとか色々方法はあっただろうに、一難高校のクラス発表はまあまあ原始的だった。年度終わりの、春の匂いが濃くなる三月下旬。学年の掲示物が貼られる五組前の廊下、その一カ所だけに、さあ群がれと言わんばかりに全学級のクラス名簿を貼り出すのだ。
 一カ所に掲示されたそれを見るために生徒たちは押し合いへし合い、スマホで撮るのすらも人混みに揉まれて難しい。悲鳴とか、喜びとか落胆、熱と色んな感情の混ざり合ったそこは混沌としていて、近づくのも億劫になる。



「うわぁ……やば……」



 漏れた自分の声すらも、まともに耳に入らない。ちょっと待ってみたけれど、人混みは一向に解消されなかった。このままでは部活に遅れてしまう。スポーツバッグを肩にかけたまま、もみくちゃにされながらも後ろの方から覗き見ようとする。そんなに背が高い方じゃないせいで、見にくいことこの上ないが、見えないことはない。目が良くて良かった。
 中学のとき以上にクラスも多いし、時間がかかるかな、と思ったけれど、十何年も付き合ってりゃ、自分の名前なんかすぐに目につくものだった。大体上から三番目以内にはあるのも、こういうときは有り難い。
 二組だ。
 だけど、そのままざっと他の生徒の名前を確認しようとしたときだ。同じ中学出身の女の子の名前をそこに見つけたのと、前方にいた女子の集団の中から「あ、私二組だ」って、何となく聞いたことのあるような声を耳が受け止めたのは。
 あ、って思う。
 さんだ、って。



と私、隣だねー、教科書忘れたら借りにいこ〜っと」

「いいよ〜。私もいっちゃお〜っと」



 クラスが別れてしまったにしてはさほど悲壮感の感じさせない声で友達と笑い合うその人を、俺は知っているようで、あまり知らない。
 さんの方こそ、そうだと思うけど。








 さんは俺と同じ中学に通っていた女の子だ。
 と言っても小学校の校区は違ったし、中学でだって一回も同じクラスになったことはない。
 成績は多分俺と同じくらい。体育祭での様子を見るに、運動神経は良くはない。何かにすすんで立候補するような目立つタイプとは言い難くて、列に並べばあっという間にそこに馴染んでしまうような、毒気のない子だった。だから、俺は知らなかったのだ。さんが同じ学年にいるってこと。
 あの夏までは。



「ここ、マッキーで塗りたいんだけど、潔くんは何色が良いと思う?」



 さっきから手が止まっているなとは思っていたけれど、立体的に見えるように縁取りのされた文字の色をどうしようかとずっと考えていたらしい。
 何本ものマッキーを握れるだけ握ったさんは、俺にその全部を見せるように両手をこちらに向けた。青、緑、黄色、ピンクと赤。それから紫。色とりどりのそれは、目に痛くなるくらいに鮮やかだ。
 水曜日の五時間目だった。すぐそこに控えた文化祭を前に、俺達は同じポスター係に任命されて、それで最近のホームルームの時間はこうして隣に並んで絵を描いている。今日はその二回目だった。最初に立候補したのは俺だったし、さんの方はその後で友達に推されただけだったから、本当になんか、偶然でしかないんだけど、正直ラッキーだとは思っていた。特技なんかサッカーの他にはほとんどないけれど、絵がそれなりに描ける人間で良かった。割とマジで。



「え、あー。色か……」



 さんの机に広げられた絵に目を落とす。鶴が空を飛ぶ、ちょっと面白い絵だ。さんは俺の絵を上手いって褒めてくれるけど、さんだってよっぽど上手いよ、ほんとに。
 文字を黒のマッキーで縁取りしてあるし、これだったら何でも良い気がするけど、でも折角聞いてくれてるってのに「何でも良いんじゃない?」って、ちょっと無責任だよな。
 そっと目線を上げれば、さんは真っ直ぐ俺のことを見つめている。その期待に満ちた目! 思わず心臓が跳ねてしまって、一瞬で顔が熱くなった。誤魔化すように小さく咳払いをしながら、「俺だったら……」って、さんが持っていた中から、黄色のマッキーの先端に触れる。



「縁取りしてあるし、黄色だと明るい感じになって好き、かも」

「!!」



 さんの手からマッキーがぼろぼろと音を立てて落ちたのは、俺が変に力を入れて、黄色を引き抜こうとしたせいなんだと思う。



「わ、ご、ごめ」



 机の上を転がって、そのまま床に落ちた何本かを拾おうと咄嗟に手を伸ばす。でも、それはさんの方も一緒だった。さんの伸ばした手が、マッキーを掴んだ俺の手に触れる。そのまま、ぎゅ、っていうよりは、きゅ、くらいの力で手を握られて、マジで息が止まるかと思った。



「わー!! ごめんなさい!!」



 ば、と勢いよく俺から手を放して椅子から立ち上がったさんの声はびっくりするくらいでかくて、「こら―、うるさいぞー。一応授業中な」って谷センに注意されてしまった。鶴を折っていた他のクラスメイトからの視線を一身に浴びながら、「す、すみません……」と小声で謝るさんの隣で、だけど俺は、マッキーを握っているふりをしながら一人胸を押さえている。
 やば。今、手、さんに握られた。
 感触は、良く覚えてない、逆ならまだしも、だって俺、握られた側だし。でも、ぬくかった。柔らかい温度を放った手だった。女の子の手だった。
 さんが椅子に座る。机の上でかろうじて踏みとどまっていた黄色いマッキーを取ろうとして、何度か上手く掴めずに落として、それでようやくキャップを外しながら、「ご、ごめんなさい……」と、さんは再度俺に謝った。いや、なんで謝んの、言いたいのに声が出ない。さんの顔を見る。真っ赤に染まった頬が、さんの動揺を教えてくれる。そうしたら、俺の方まで余計にどぎまぎしてしまった。



「いや、俺こそごめん、急にマッキー引き抜こうとしちゃったから」



 俺の言葉に、さんはちょっと考えるように目線を斜め下に落とす。下がった眉尻が、春、靴下の左右が違うことを教えたときの表情と、かぶって見える。



「や、それは、全然……だけど……」



 なんでもない、とごにょごにょ呟いた後にそう言ったさんは、ポスターに描かれた「二年二組」の文字を端っこから塗り始めた。煩わしそうに、マッキーを持っていない側の手で、落ちた髪を耳にひっかける。その丸い耳朶は、頬と同じくらいに熱を持って、赤い。
 なんかもう、全然良くわかんないけど、一生文化祭の準備期間で良いかもしれない。
 試合はしたいから、放課後の時間だけは普通に進んでいてほしいけどさ。我儘だな、俺。








 あの夏のことを思い出そうとすると、突き抜けるくらいの青と、凶悪って言ってもいい太陽の熱、それから、容赦の無い蝉時雨が蘇る。
 朝から夕方、みっちり練習のあったサッカー部での、サッカー以外の夏の思い出なんかそんなもんだ。死ぬほど暑い夏だった。水を頭から被ってもすぐに乾いたし、スポーツドリンクはあっという間に空になった。まあ、おかげで体力はめちゃくちゃついたけどさ。サッカーボールと、ゴール、見慣れたグラウンドに周囲の風景、体操着、汚れたビブス、選挙カーの声、吹奏楽部の吹く、金管楽器の音。ただその中で、ホースを持ったさんの後ろ姿が、異物みたいにこびりついているのだ。
 俺達の集合時間よりも早く、或いは俺達が片付けを始める頃、さんはいつもグラウンドの隅にある学級花壇に、水をやりに現われた。日ごとに顔触れの変わる他の学級と違って、右端から三番目のあの花壇だけは、決まってさんが水をあげていた。



「あのクラスさあ、夏休みの水やり当番決めなかったのかな。なんか毎日同じ子が水やってね?」



 ある日何気なくチームメイトにそう言ったら、「え、そんなん良く見てんな。気にしたことねえし、流石にわからんわ」と、半笑いで言われてしまったのも覚えている。正直、マジか、と思った。あの子のこと目で追っかけてたの、俺だけか、って。
 半袖のセーラー服の袖から伸びる腕を見ていた。
 生白いそれは、いつもどこか重たそうにホースを引っ張っていた。
 たまにサボるやつのいる他のクラスの花壇と違って、あの子が水をやっていた花壇は、こんなにクソ暑い夏の盛りでも、平気な顔で生きてたな。


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