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 日向くんと左右田くんの手によって、サイコダイブ用のアルターエゴが完成する。
 マザーコンピュータへのインストールが始まる。彼らを起こすための準備は、終わろうとしている。








 海に足首を浸らせながら、水平線が滲むのを見つめている。ボクは今、この島で一人だ。
 毒を注いだあの夜に、ボクは自分が死んだ後のことを考えた。キミは泣くだろう。ボクを恨むだろう。その目を見て謝ることが出来ないことだけが未練と言えばそうだった。
 だから、もしもこの体が自由に動くなら、ボクはキミの手を掴んで「ごめん」と言うだろう。たくさん泣かせてしまった。希望ヶ峰学園でも、あの島でも。許してもらえるかどうかなんてわからないけれど、ボクはやっぱり、どうしてもキミの傍にいたい。それがこんなに遠回りをしてようやく下せたボクの結論だ。だから。なんて、我儘だ、ごめん。








 もしも凪斗くんが目を覚ますことがあるなら、私はすぐに凪斗くんの左手に触って「ごめん」と告げる。凪斗くんの望む私を演じ続けたことを許してもらえるかどうかは分からないけれど。
 でもそれだけじゃなくて、たくさん、お話もしたいのだ。この前ね、ソニアさんとクッキーを焼いたの。終里さんがほとんど食べちゃったけど。でも、駄目になった左手でもね、意外と混ぜるくらいはできるんだよ。ソニアさんと協力してだけど。そう言ったらあなたは、どんな顔をするのかな。簡単な伴奏すらも覚束ない私の左手は、確実に悪化している。








 キミの手はボクの知っている頃よりだめになっているのかもしれない。もうピアノなんて、右手でしか弾けなくなっているかもね。キミのことだから、きっと謝るんだろうな。ひょっとしたら誤魔化すかも。でも、良いんだよ、もう、そんなのどうだって。ボクはピアノなんかなくてもいい。聞けなくたって。キミが隣にいるだけでいい。ピアノなんていらないって笑う、そのままのキミが好きだ。意外と我が強いキミが好きだ。だからたまには、ボクにも我儘を言ってみせてよ。








 一度目のプログラムの起動では、他の皆も、凪斗くんも少しも目を覚ます気配はなかった。カプセルの中を覗き込むことも億劫だった。痩せ細った体を認めたくなかった。だから代わりに、話ばかりをした。最近のことだったり昔のことだったり、話題は尽きることが無かった。それでも何度か言葉に詰まって、私は膝に目を乗せた。じわりと皮膚に熱が染み込む。凪斗くんに見られていなければいい。二度目のプログラムの起動も、何も成果が得られないままに終わる。








 さんは良く泣く。誰も反応しないことに気を抜いているのか、一日に何度か、ボクの隣で嗚咽を漏らす。昔からそうやって感情を表に出してくれれば良かった。嫌われたくないって笑顔を貼りつけて、ボクの気に入るを演じるキミは健気で可愛かったけれど、正直とても滑稽だったから。ボクは、島にいたときとか、今のキミの方が好きだ。人間らしくて、キミらしくて。
 しかし、好きな子の温度すらも知ることが出来ないなんて、なかなか酷い罰だね。








 脳への負荷を考慮すると、間隔をあけずに何度もアルターエゴを起動するわけにはいかない。このプログラムはきちんと彼らの深層心理に働きかけることができているのだろうか。日向くんは大丈夫だと言う。けれど、三度目の起動を終えても尚彼らが目を覚ますことはなかった。 
 空っぽの手の平が重たくてスーツに擦りつけた。靴擦れの少ないスニーカーは可愛くもなんともなくて、私は伸びた髪を片手で潰して蹲る。「凪斗くん」吐き出した声が潰れるから、私は足元に置いた書きかけの楽譜を抱きしめた。こみ上がる感情の行き場が無くて、私はとうとう、この時になって初めて、初めて凪斗くんの眠るカプセルに手をついた。泣き出しそうになるのを堪えながら、カプセルをテーブル代わりに一心不乱にペンを走らせる。視界の端に、凪斗くんの髪の先が映る。骨と皮だけになった腕がちらつく。
 だめになって良かったのだ、あなたと二人でいられるなら。腕が震える。頭の隅の方で、得体の知れない音がする。








 一緒にいても幸せになれないのかもしれない。ボクはキミを不幸にしてしまうかもしれない。絶望の縁に居たあの頃のボクが出した希望を詰め込んだ推論は、今となっては真実かどうかも怪しい。だけどボクはずるいから、いくらキミが傷つくことになっても、ボクが絶望することになってもやっぱり、どうにかして一緒にいたいと思うのだ。だって他に何も手に入れられなかった、ボクの周りはいつだって温度がなかった。だから、キミだけは、さんだけは欲しいのだ、ごめん。ごめん。ごめん、こんなボクで、ごめん。








 動かない指ではこの曲は完成したところできっと弾けないだろう。願掛けにもならない。私はカプセルに突っ伏したまま、完成した楽譜にすがるように額をこすり付ける。「きれいな曲だね」って言ってもらいたい。「やっぱりキミの作る曲は好きだな」って、「奇跡みたいだ」って、言って、言って、言ってよ、ねえ。百年待つ、そう決めた。でも違う。弾かれたように顔をあげる。待ち続けたからこうなった。私はそれを思い知っている。凪斗くん。動けないなら、あなたの腕をもう一度、引き上げてもいいだろうか。私が。私がこのだめになった左手で。
 待つなんて柄じゃなかったのだ。ずっと、ずっとそうだ。あの研究室に居た時から。私はあの後ろ姿を見送らず、隣を歩けば良かった。
 アルターエゴが動き出す。楽譜ごとカプセルに押し付けた瞳を、一度強く閉じる。








 訪れる幸運の前に必ず対価として不幸が訪れるボクの傍にいても、この才能に飲み込まれることなく立っていてくれたのがキミだ。
 ボクが世界で一番尊いと思う人。ボクは、キミがボクのそばにいて死ななかったその理由に、今更気が付いた。それはほとんど天啓のようだった。妹のように、友のように両親のようにすれちがった他人のようにキミがボクの才能の影響を受けなかったのは、キミだからだ。
 ボクを幸せにするためのボクの才能は、キミを選んだ。ボクのために。ボクが幸福であるには、キミの存在が不可欠だ。だからボクはあの時、キミの手が治らないと知った日、キミを置いていかなくたって良かった。ボクの才能に巻き込まれることを危惧してキミに固執することを諦めなくたって良かったのだ。キミの存在そのものがボクの希望だったのだから。







 
 この時の直感を、行動力を、研ぎ澄まされていた五感を上回るようなことはこれから先もないだろう。私はステージを思い出していた。もう五年も前、希望ヶ峰学園に入学する前、私が全能だった頃。今の私はあの頃と違って、草臥れたスーツを着て、紐の解けかけたスニーカーを履いていた。髪だってのびっぱなしだ。あの時の私とはまるで別人のようなのに、私はそこに鍵盤を見る。私は裾の長いドレスを着ている。それが肌蹴るほどの勢いで、私は足元にあったカプセルのロックを解除した。ほとんど全身の体重をかけて、ペダルを踏むように。けたたましい警報音が響く。こんな時でもその音階が何かを脳裏に浮かべてしまう。鐘よりもオクターブが三つ高いラ。管制室と繋がるイヤホンから狼狽した日向くんが、私の名前を呼ぶ。



、お前一体何を」



 私は耳からそれを抜いて、楽譜ごと床に投げ捨てた。
 凪斗くんに会いたい。ずっとずっと、会いたかった。綺麗ごとなんて、捨てる。破滅して良かったのだ、私の未来なんて。好きだ。だから起きて。目を開けて。どうか、どうか掴んで。この私のだめになった左手を、それでも好きだと言ってくれ。
 どうか。





 伸びてきた腕に引き摺り上げられた。声も出なかった。穴の中に蹲るボクの耳に悲鳴が届いた。あれはキミの声だった。さんの声だった。
 目を開けたら記憶の中よりもずっと大人びたキミが泣いていて、だけど意思に反して指の一本も動かせないから、思い描いていた再会にはならなくて、ボクは掠れる声で「ごめん」と呟く。頭も体も重たかった。さんは首を振った。ぼとぼとと生温い涙が落ちてきて、ああそうだ、この温さがほしかったのだとボクは思い出す。
 一度はボクと一緒に死んだはずの楽譜が一枚だけ、ボクの腹の上に落ちていた。彼女が恐らくもう弾くことのできない音符は、ボクたちの周りを埋めるように泳ぐ黒い魚だ。ボクは息を吸う。ボクを愛してくれた人。そういうふうにできていた、ボクの、大それた願いをかなえてくれた人。



さん」



 ボクの惨めに掠れた声に、ひ、と、さんが嗚咽を漏らす。



「ボクはキミが好きだよ」



 諦めの悪いキミが好きだ。無茶をしてしまうキミが好きだ。真っ直ぐなくせに、少しずるいところも好きだ。困ったように笑う顔が好きだ、ピアノを弾く横顔が好きだ、本当は一人でも生きていけるところが大好きだ。
 いくつもの慌ただしい足音が廊下の方から聞こえてくる。日向クンたちがそろそろ飛び込んでくるかもしれない。見たこともないくらいに顔を歪めて泣くさんは、ボクにぶら下がった、絶望に染まった動くことのない左手にその手を添える。
 もしもまわりに不幸をまき散らしながら生き続けるこんなボクの願いが叶うなら、どうか、どうかひとつだけ。
 ボクは愛されてみたい。誰か、たった一人でいい。愛してほしい。いなくならないで、ずっと隣で笑っていてくれる唯一の人が、ボクは欲しくてたまらない。
 さんがボクの頬を確かめるように撫でていく。際限なく落ちる涙はまるでいつかの山茶花梅雨のようで、ボクは、それを愛おしく思う。抱きしめられる。肉の少ない腕の中、ボクを捨てた人たちはもうどこにもいない。



「私もすき」



 やり直そう二人で最初から。ボクたちはそういうふうにできていたと、今度こそ笑って言えるように。さんはボクの言葉に、肩に瞳を押し付けて、何度も何度も頷いた。








 白い部屋だった。
 壁も天井も床もカーテンもベッドのフレームもシーツも点滴スタンドも、そこには一点の汚れもなかった。ベッドの中で身じろぎもできぬまま天井を眺めていると、ほとんど駆け足に近い足音が聞こえる。ボクを監視する役目を果たしていた九頭龍クンは「そんなに急がなくてもなあ」と独り言のように呟いたけれど、その言葉を彼が言いきる前に扉は開かれた。



「お、。説教は終わったか?」

「おわ、ったぁ」

「お疲れさん。まあオレも無茶しすぎだとは思うぜ。何ともなかったから良いけどよ」

「はい……すみません……」

「ん。じゃあ俺は外に居るわ」

「えっ、でも、二人でついてるようにって、日向くんは」

「だから外にいるって言ってんだろ。何かあったら呼べよ」



 気を利かせてくれたのだろう九頭龍くんを困惑した面持ちで見送ったさんは、扉を閉められてしまってようやく、ぎこちなくであったけれどボクの方に視線を寄越した。目を覚ました直後は熱烈に抱きしめてくれたのに、冷静になってしまったらしい彼女はボクを意識しているのか、なかなか傍には来てくれない。
 カーテンを開ければ海が見えるのだと、思い出したようにさんは言う。ボクの横たわるベッドに左手をついて、身を乗り出してカーテンを引こうとした彼女に、ボクは「閉めたままでいいよ」と呟いた。さんの黒目がボクの目をじっと見つめる。今はキミだけでいいなんて言ったら、困らせてしまうかもしれないから、ボクは彼女にそっと微笑むだけに留めた。
 さんは、さっきまで日向クンに説教を食らっていた。「引き千切るなって言ったオメーが引き千切るんだもんなー」特別な意図はなかっただろうけれど、終里さんにまでそう言われてすっかり縮こまってしまっていた彼女の背中はまだ鮮明だ。今回のプログラムを製作したらしい左右田くんはボクが目覚めたことが自信になったのか、ソニアさんにしつこく自分の功績を主張していて見るに堪えなかった。記憶よりも大人びたソニアさんが、困ったように微笑んでいることにも気づかないらしい。一方ボクを担いで車椅子に乗せてくれたのは九頭龍クンだった。彼はボクの左手に見覚えがあるのか、一瞬目を細めてみせたけれど、それでも言葉にすることをしなかった。
 それまで九頭龍クンが座っていた丸椅子におずおずと腰掛けたさんは、ボクの顔を見つめたまま「あの……凪……狛枝くん」と切り出した。



「その、きちんとした検査もすぐ始めなくちゃいけないんだけど、とりあえずその前に体調とか、どうかな。具合は悪くない?」

「ああ、大丈夫だよ。力は出ないけど、これはそのうち戻るでしょ」

「うん、筋肉の衰えによる一時的なものだと思う。リハビリとかしていけば何とか。専門の人を本部から呼ぶつもりだけど、派遣されるまでどれくらいの日数がかかるかはちょっと分からないや」

「そんな大仰な真似はしなくていいよ。ボクなんてほら、劣悪で愚かでどうしようもない人間なんだからさ」

「ん……」



 ついいつもの調子で口にしたボクに、さんは明らかに気分を害した様子で眉を寄せるから、あ、と思う。「それじゃあ狛枝くんを好きな私までどうしようもないみたいだよ」学生時代の彼女だったら飲み込んだだろうその言葉を向けられて、つい目を丸くしてしまった。
 好き。そうか、好きか。脳の中で反芻させながら、ボクは彼女の顔を見つめ返す。さっきも言われたばかりだったのに、どうやら口元が緩んでしまったらしい。さんの目線でそれが分かったので、右手で口元を隠した。左腕から伸びる管の奥では、透明な液体が一滴ずつボクの身体に向かって落ちていく。あと半分くらいかな。点滴の中身を視界にいれて、ぼやくように呟いた彼女のその横顔は、ボクの知っているさんよりも大人びていた。



「……髪が伸びたね」

「え、あ、うん、伸びちゃった」

「大人っぽくなった」

「ん、いや、そうかな?」

「ていうか、大人になったんだね」

「……そんなの狛枝くんだってそうだよ」



 見つめ返されて、思わず微笑む。ボクたちは、知らないうちに年を重ねている。こんなめちゃくちゃな世界を生きて、馬鹿みたいな真似を繰り返して、ボクなんかこんな左手までぶらさげてしまった。これを早く切り落としたいな。そう思うけれど、その言葉は彼女との再会に水を差しかねないから、あと数日は黙ったままでいよう。それよりも、ボクはやっぱり気になることがあるのだ。「ねえさん」名前を呼ばれたさんが、首を傾げる。長い睫毛、桃色の頬、あの時着ていた制服を、彼女が着ることはもうないのだろう。あの時の水色のネクタイは、キミの髪に良く映えた。
 こんな時に声が掠れて、上手く言葉が出せない。さんは椅子から立ち上がって、ボクの口元に耳を寄せた。彼女の黒髪が頬をくすぐる。ボクの欲しかった春は、ここにある。



「もういい加減さ」



 低く囁いた声に、びくりとその肩が揺れた。



「名前で呼んでよ、前みたいに」



 その耳が赤くなるのを、ボクは目を細めて見つめている。
 一人目を覚ましただけでは何も解決していないと本部とやらは言うだろう。ボクが本当に絶望から抜け出せたかどうかを証明することだって、きっと一筋縄ではいかない。だけど、どうか今は少しくらい、感慨に浸らせてほしい。
 さんは実に緩慢な動作でボクを見る。一人、あの意識の海にいる間もさんの声は聞こえていたから、本当は今の彼女がボクを名前で呼んでいた事なんて知っていたけれど。でも、何を照れているのか苗字に戻ってしまった彼女に、ボクはちょっとだけ意地悪がしたかったのだ。
 さんは唇の端を噛んで、それから眉尻を下げた。瞳が潤んで、一度目線を逸らされる。覚えているかな。梅雨に入る直前の晴天、キミはあの白木のベンチの上でも、同じ表情を浮かべてみせたのだ。



「……な、凪斗、くん」



 ボクはあの日々が、懐かしくて、愛おしくてたまらない。



「うん。よくできました。さん」



 さんはボクの言葉に一気に顔を赤らめる。
 ボクたちは飽きもせずに繰り返す。きっと、そういうふうにできている。