私は平穏な生活を取り戻した。
一年前、彼と離れたばかりの頃と同じように、何食わぬ顔で授業を受け、平然と寮に戻り、何も考えずにテレビに映し出される映像を見送り食べ物を咀嚼し体を洗って毛布をかぶる。平穏だ。安息の日々だ。これが私の望んだやさしい世界だ。彼の存在がない。これが私の、欲しかった世界だ。
私に別れを告げた日向くんは、いなくなった。私の前からも、予備学科の校舎からも。何があったのかは知らないけれど、彼が忽然と姿を消したことだけは確かだった。
予備学科の内部がどうなっているかは知らないけれど、一人の生徒が居なくなったくらいでは日常は変わらない。途中退学する生徒があとを絶たないどころか、この前は事件があって人が死んだくらいだ。予備学科の人間が行方不明になったって、それは世界の損失にはならない。分かっているくせに私はまだ、あの人の影をさがす。
私は幸運だ。超高校級の幸運だ。一つ下の学年のあの特殊な幸運とは違って、あんまりにもスタンダードな幸運だ。ちいさな幸を堅実に積み重ねるだけの私は、研究対象としては特に面白味はないと研究員の人たちに言い放たれたことがある。きっと望みどおりの人生を歩んできたのだろうと問われた私は、そうですねと答えた。頭の隅には私の望み通りに生きてくれなかった彼がいた。物心ついたときから何の疑いもなく隣に立っていた彼が居た。
望みどおりの人生でした。だけど彼だけが望みどおりになってはくれなかった。私の創のままでいてくれなかった。
私は普通に生きていくには充分すぎるはずの幸運少女のはずだった。それがどうだ。私は本当に幸運だったのか。たったひとりの何の才能もない人間に振り回されて、疲弊して、逃げた先にまでやってこられた。日向創。あなたがいなければ、私はずっと幸福でいられたのだろう。苦労を知らず努力もせず、自分の周りの人間に助けられ、のうのうと生きていられたのだろう。だけど、世界で一番不幸だと泣くあなたを捨てられなかった私は、つま先に黒い染みを作ってしまった。日向創が終わったあのときに、私もまた終わっていた。
本校舎の廊下の先を、瞬きを一つして見つめて、なかったことにする。だから、あの燦然と輝いていた彼を救わなかったこの世界も、なかったことになって。どうか。
日向創が死んだのは、いつのことだったのか。何月何日だったのか。誰がとどめをさしたのか。そのとき彼が何を考えていたのか。最期に吐き出した言葉はなんだったのか。痛かったか。悲しかったか。嬉しかったか。来たるべき希望の未来に打ち震えていたのか。私には分からない。想像もつかない。私は幸運少女。彼を見捨てて生きる道を選んだ女だ。
「――あなたがで、間違いはないようですね」
だから、もう、放っておいてくれたら良かった。私はこの全身にこびり付いた彼を削ぎ落として、もとの世界に肩までつかっていたのに、彼の面影を強く強く残したその人は、私の名前を口にした。
日向創が死んだ。死にかけていた彼がとうとう死んだ。私の目の前に現れた、「彼だったもの」は笑いもしなかった。髪が、少しだけ伸びた。背は、どうだろうか。声は。もう、おぼえてなんかいないのだ。そう嘘をついたら、その能面みたいな顔を崩してくれるか。
彼が最後に私を呪った教室の、泣きながら肩を掴まれた窓際の、誰の声も届かない隅っこで、日向創だったひとが私の頬に手を伸ばす。その瞳に生気はなくて、それでも、憑き物が落ちたような表情をするものだとおもった。彼は、救われたのだろうか。彼は救われたのだろうか、彼は救われたのだろうか。
わたしは知ってしまった。腑抜けた日向創だった彼が、全てを手に入れて、全てを失ったことを。それが彼の、誰でもない、「日向くん」の望みだったことを。自分ではない何者かになれたことを。日向創がもう世界中のどこにもいやしないことを。
血の通っていないひとのような冷たさをもった指先が私の頬を撫でていく。浅い呼吸音が、耳を掠める。日向創。私の神様だったひと。世界のまんなかで仁王立ちして、大きな口を開けて笑って、私に手を伸ばしてくれていたひと。私の愛した、幼い日向創はもういない。
ゆっくりと、彼が私の耳に口を近づける。冷たい指がとうとう、今度こそ首筋に添えられる。ぞわりとした悪寒が背筋を突き刺して、それでも私は、目の前にある彼の、長い髪の毛を見つめ続けていた。何と言えばよかったのだろう。「日向くん」でも「創」でもなくなった彼を、私は何と呼んであげたらよかったのだろう。なんで声だけはあのときの彼のままだったのだろう。あの、私が彼を見捨てることに決めた瞬間の、彼だったのだろう。わからないのだ。彼を諦めた私は、正しい選択をした。あれは間違ってなんか、なかったはずだ。そうでなければ私はきっと彼に食べられていたから。今も日向くんの隣で死んだ創をさがす、不毛な恋をしていたにちがいないから、だから、これでよかった、そうおもってたのに、なのに、なんで今更になって、私はあの日に戻りたいだなんて、考えているのだろう。
「あなたがいると、『彼』が、消えてくれないんです」
はじめ。
すばらしい日々でした。世界中の光を背負った人の隣で、きらきらした形のない未来を見ていられた。すばらしい日々でした。あれはすばらしい日々でした。
だってあんなに人を愛したことなどなかったのだから。
ひ、と嗚咽のような声が耳に届いた。気がつけば泣いていた。とまらなかった。立っていられなくて、首に纏わりつく彼の指ごと、座り込んだ。離れてはくれなかった。薄暗い教室の中で、その瞳だけが光って見えたのは、私の流す涙のせいだ。目の前が暗くなる。彼が私に覆いかぶさる。冷たい指先からは想像もできないほどの温さが、そこにある。ぬるい舌が私の唇をなぞる。幻聴だったらよかった。創の声だった。創の目だった、指だった、それは創そのものだった。「すきだ」。私は今度こそ、息ができなくなる。
「――こんな愛し方しかできなかった俺を、どうか許して」
どうして今更そんなことを言うの。
だから遠くへ行ってください。『彼』があなたをどうでもいいと思えるくらいに、あなたを忘れるくらいに、心残りがなくなるように、きちんと消えてしまえるように。あなたが、これから先の絶望に染まらないために。
創ではない人がそう言った。その瞳はこの先にある何もかもを見据えているようだった。もう創はいない。彼の中のどこにもその残滓はない。私の喉から彼の指が離れる。逆光で彼の髪が透ける。落ちていく太陽の光はもう彼を照らすことはなかった。
全知全能の日向創。
私はかつての、あの日のあなたを、今でも愛している。