「空と星のはざまのもの?」



 慄くと思ったが、栗色の長い髪をした少女は「はざま?」と繰り返しながら眉根を寄せて俺を見上げていた。組んだ腕はいっそふてぶてしく、自分の立場、置かれた状況と言ったものを理解していないらしい。まあ、それもそうだろう。彼女の言葉を鵜呑みにするならば、この少女は空の民でも星の民でもない、全くの別世界からやってきたと言うのだから。
 そう言う人間は別段珍しいわけでもないらしいと言うのは、俺が二千年ぶりにあの檻から抜け出して初めて知ったことだった。だけど、ひょっとしたら昔から多々ある事象ではあったのかもしれない。二千年前の俺と言えば、無知で、愚かで、病的なまでに盲目であったから、あの男に関わりの薄いもの以外にはとんと疎かったのだ。
 少女は俺の心情など察しもせずに、寄せていた眉をすとんと落とす。直後その唇から吐き出された小さなため息には、疲労と安堵が混ざっているように思えた。



「でも、お兄さんが通りかかってくれて助かったあ。あれ? 通るっていうより、飛ぶ? そういえばなんで羽生えてるの? 鳥人間?」

「……俺は天司だと言っただろう」

「天使! なるほどそうかあ。あれ? てことはお迎え的なやつ? 私死んでる?」

「……? 生きているんじゃないのか?」



 いまいち話が噛みあわないのは、彼女が異世界の人間だからだ。けれど、わざわざこの少女が理解していない事柄を一つ一つ説明してやる義理はない。審判を下す算段をするために、空の民が住まうこの世界の隅から隅を見て回った、その道中、休息のために人気のない山中で羽を畳んだまさにそこに、この少女が居た。たったそれだけで、俺と彼女の間には何もないのだから。今尚互いの名前すらも知らないように。
 少女が着ていた服は、見るからに安物だった。短いスカートから露わになった太腿、そこから視線を下げると、その先はあろうことか裸足だ。両手に自分の履いていたらしいブーツを持っていたが、そもそも何故履いていないのか。目線だけで尋ねると、少女は何が面白いのか破顔して答える。「靴擦れしちゃってさあ、だって、こんな山の中を歩くなんて思ってなかったし」登山に行くつもりで家を出てきたんじゃないんだもん。不安など一つもないような口調でそう続けるのは、もしかしたら、すぐに元の世界に戻ることができると思っているせいかもしれない。
 死んでないならそれでいいとでも言うように、少女は意気揚々と両手に持っていたそれを地面に落とし、コートのポケットに入っていたらしい靴下を履くと口を開けて待ち構えるブーツに足を突っ込んだ。「よーし」これで準備はできたと言わんばかりの大きな声に、俺の方が辟易する。



「じゃあ早速なんだけど帰り方を教えてもらっていい?」



 知るか。








「いや、ねえ、ねえちょっと絶対落とさないでよ、ねえその羽ほんとに飛べるんだよね? ねえ落とさないでって言ってるじゃん返事してよ」

「うるさいな君は……舌を噛みたくなかったら口を閉じていろ」

「いやだってさあ、だってこういうアトラクションじゃないじゃん? 絶叫系は好きだけどさあ、これはちょっとマジで命懸けすぎて」

「だったら置いていくが」

「いやっ! 無理っ! だって日が暮れちゃうよ? 夜の山は危ないってお父さんが言ってたもん」



 この少女はどうやら相当、相当知能指数が低いらしい。
 そもそもどうして俺が元の世界への帰り道を知っていると思い込んだのか。俺が「知るわけないだろう」と一蹴した瞬間、それでも彼女は「またまたぁ」とのたまった。楽天的過ぎやしないだろうか。



「だって、普通に街を歩いてただけだよ? そしたら見たことのない階段があったから、上ってみようって思ったの。上の方に鳥居が見えたから、神社なんかあるんだ~って思って頑張ったわけ。帰宅部なのにめっちゃ上ったの。上りきったらここにいたんだよわけわかんないじゃん」

「その階段とやらは探したのか?」

「探したよ。だから靴擦れしたんじゃん。180度ぐるっとまわったけどどこにも階段ないんだもん」

「待て、180度じゃぐるっとは回れないだろう」

「ええ? そうかな?」

「……」



 そんな知能の低い会話に根気強く付き合った俺は、今彼女を抱きかかえている。いくら破壊する世界であるとはいえ、ここに置いておくのは後味が悪い。せめて人里に置いていくべきかと考えたのだ。本来ならば、この世界の住人でないこの少女を巻きこむことは本意ではないが、きっとこれも、彼女が持って生まれた運命なのだろう。仕方ないのだ。俺は、間もなくこの世界に災厄をもたらす。
 背中を支え、揃えた両足の裏にもう片方の手を差し込むと、見た目より重いから驚いた。仕舞っていた羽を出すと、しおらしく目線を彷徨わせていた彼女がぱっと目を見開いて俺の背を見たのが分かる。美しいとは到底言えない、汚れた茶色の二枚羽を、彼女の双眸は確かに映した。
 美しい瞳をしていると思った。化粧の施されたその瞼は、とうに剥げかけて見るに絶えないほど無残な状態であったと言えるのに、きらきらと輝いていた。光を見る様に、眩しそうに、彼女は俺の羽を見つめていた。



「わあ」



 その顔が、まるで無垢な子供のようで。
 俺は本当は、寒気がしていたのだ。



「お兄さんの羽、きれいだね」



 それは君が無知だからだ。
 心に浮かんだ言葉を呑み込んで、俺は笑う。それが嘲笑じみたものになっていたことを自覚しながら、彼女の身体を支える腕に力を込めて、脚で地面を蹴る。陽が落ち始めた山の稜線を、少女は俺の腕の中で見つめていた。夕陽がその栗色の毛を輝かせていた。 
 あれだけ嫌だ怖いと叫んでいた少女は、俺の首にしっかり腕を回しながら、目を大きく見開いて、口を開けて、きゃあと、甲高い声をあげた。悲鳴というよりは、歓声だった。



「すごい、高い! ほんとに知らない景色だ、線路も車もないんだね! すごい!」



 俺の返事なんていらないとばかりに、彼女は笑う。長い髪の毛が頬に当たって不愉快だった。重いせいで、いつもの半分のスピードも出せない。ああ、本当に煩わしい。耳につく笑い声に、紛れるように彼女が叫ぶ。



「私ね、って言うんだ!」



 その双眸が俺へと向けられる。邪心のない声が「お父さんがつけてくれたの。可愛いでしょ?」と続ける。舌を噛むぞ。俺はやっぱりそう思う。むしろ噛んでしまえばいいとすら思う。どうだっていいのだ名前なんて。だけど少女はその瞳を美しく、あまりにも、柔らかく、細めてしまう。



「お兄さんは何ていうの?」








 俺が彼に与えられた唯一のもの。
 俺はそれを口にするとき、いつも、脳裏に彼の声が蘇る。
 サンダルフォンと、まるで慈しむように呼んだ、忌々しいあの男の声音を、俺は二千年経った今も覚えている。鮮明に。呪いのように。皮膚に刻み付けられたように。



 後にあれほどまでの虚無を味わうのならば、この時、彼女を抱く腕を、解いてやればよかった。



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