自室のソファに座ってグランくんから受け取ったノートと睨めっこしている私は今、一人だ。もう八割のページが埋まっているノートは表紙が傷みかけていて、真ん中の折れ目のせいで持ち方によっては変にしなる。膝に立てていたそれをテーブルに置いて、そのまま肘をついた。
 お昼の片付けを終えた私は束の間の自由時間を確保しているにもかかわらず、部屋に閉じこもっている。予定がなかったのだ。コルワさんはドレスの布地を探すために街に出て行ってしまったし、カトルくんは例の如く依頼で朝から艇を降りている。今回は長期じゃないから夜には戻ってくるそうだけれど、それも実際どうなるかは蓋を開けてみなければ分からない。魔物の討伐とか護衛といった類の依頼は、早めに片付くこともあれば、予想外に日付を跨ぐこともあるから。
 無意識に伸ばした足をテーブルの下で交差させる。ペンを持ったまま、午睡に丁度良い穏やかな日差しが窓から差し込んでいることを、爪先に触れる光の温度で確かめる。少し開けた窓の隙間から、ぬるい風がそよそよと吹いていた。髪の毛を撫でるそれがくすぐったくて、顔の角度を僅かに変える。
 停泊したグランサイファーはどこに居ても人の気配が微かにする。扉の向こうからはひっきりなしに誰かの足音や喋り声が漏れ聞こえてきたし、窓の外からは聞き覚えのある笑い声だってした。天気も良いし、久しぶりの大きな街だから皆も浮かれているみたいだ。私だって多分に漏れずその一人だった。いつもだったら。
 だけど、今の私は一人で眉根をぎゅうと寄せている。とうに見慣れたグランくんの書く文字を読み返して、そこに自分が受け取ったもの以外の何かが隠されていないかと希望を持って探したのに、私が望むようなものは目を細めても距離を取ってみてもそこにない。



「……芳しくない」



 何気なく呟いた言葉は、案外自分の首をしっかりと絞めた。無意識にブラウスの首元に手を触れる。光沢のあるつるりとした手触りの小さなボタンは、コルワさんが買い付けたもの中から選ばせてもらったもので、きれいな色艶をしていた。指先で確かめるように触れながら、短く息を吐く。
 グランくんに手渡してから、今回は戻ってくるまでに結構な時間がかかった。彼が忙しいのは当然として、それでも期待していたのだ。私の疑問に彼が明確な答えを与えてくれるのではないかって。
 口の中で呟きながら、グランくんの文章をなぞる。



「……のように別の世界からやって来た人に会ったことは何度かあるけれど、彼らのほとんどが元の世界に戻っているはずだよ。中にはそうでない人もいるらしいと聞いたことはあるから、一概に全ての人が必ずそうなるとは言えないと思うけどね……」



 戻ってしまった人について、何らかの法則性でもあれば話は違ったのかもしれないけれど、もういない人に話を聞くことは土台不可能なわけだし、そういうのを探るのも難しい。
 グランくんだったら、もしかしたら答えか、それに近い何かを持っているんじゃないかと思っていた。だけど、そんなことがあるんだったら彼はとうに私に話して聞かせてくれていたはずだ。私が尋ねることをしなくても。
 分からないんだったら、これ以上彼の手を煩わせるようなことはしない方が良いのかな。体内の二酸化炭素を吐ききるように長いため息を吐いたとき、ふと次のページにも文章が続いていることに気がついた。区切りが良かったからここで終わりだと思い込んでいたけれど、まだ続きがあったんだ。何の気なしに捲ってみる。そこにあったグランくんのしたためた文字に、息が止まる。
 カトルと比べたら頼りないかもしれないけど、僕ものための協力は惜しまないから、遠慮せずに相談してね。
 窓から差し込む陽光が、ノートの表面を白く輝かせていた。淡く発光するその光が眩しくて、きらきらしていて、ちょっとだけ泣けた。 








 例えばお皿を洗っているときだったり、洗濯物を干しているときだったり、ベッドの中で寝付けずにいるとき。そういうときに不意に恐怖に襲われる頻度が以前より増しているのかというと、実はそういうわけではない。
 グランくんたちと出会ってからずっと蓋をしておいた「そもそもここにいること自体が夢なのではないか」という疑念が隙間から漏れ出したとき、カトルくんがそれを直接拭い去ってくれたからなのだろう。あの時はいくら動揺していたとは言え、酷いことを言ってしまった自覚があったから、その件に関しては後日、きちんと本人に謝った。



「怒ってませんよ。夢の中だと思いながら人と交際までするあなたを随分酔狂な人なんだなとは思いましたが」



 そう言う割にカトルくんは分かりやすく目を細めて静かに怒っていたから、申し訳なさで消えてしまいたくなったのだった。
 それでも太股から下が動かなくなったり、以前のように極端な痛みや幻聴じみた何かがあるわけでもなく、むしろここ最近はあの頃の情緒の不安定さが嘘のように、私は毎日を、ともすれば平然と生きている。
 色んな団員さんと関わったり、日々の雑務をこなしたり、海に行ったり、カトルくんにエッセルさんを紹介してもらったり。穏やかで、たまにちょっとした刺激があって、そういう日々を過ごしていると、自分がこの世界にとって異物であることすらも忘れてしまっている瞬間があるくらいだった。
 私がこの世界の人間ではないという事実は、それでも痼りのように存在しているのだろう。いつまでもこうしてはいられない。その事実は変わらないし、どれだけ私が目まぐるしく充実した日々を過ごそうと、それはいつも私と隣り合わせにある。



「ここ、座っても?」



 カトルくんに声をかけられたのは、人気のなくなった隅の辺りに腰を下ろして夕飯を食べているときだった。ほとんどの団員さんが食事を終える頃、ローアインさんはタイミングを見計らって「ちょもそろそろシーメーいっといた方がいいべ? 」と声をかけてくれるのだけど、普段はその時点で随分と閑散としているからこの食堂で誰かと食事をすること自体珍しい。
 思わず背筋を伸ばして、持っていたスプーンから口を離す。



「お、お疲れさまです、どうぞ!」

「失礼します」



 向かいの椅子を引くカトルくんは少し疲れたような顔をしていた。透き通るような白い肌をじっと見つめる私の視線に気がついたのか、伏せていた瞳はすぐにこちらに向けられる。「何かついてますか」きちんと編まれた後ろ髪には今日も後れ毛一つないけれど、それでも疲労の色は滲み出ているように思えた。



「依頼、今終わったんですか?」

「ええ。そのまま街で食事をしていく話も出たんですが」

「断ったの?」

「騒がしい場所は好きではないので」



 もう夜だし、食事に行くとするならお酒を提供するお店になるだろう。勿論メンバーにもよるけど。でもカトルくんはそれを断って一人でグランサイファーに戻って来たらしい。
 曖昧に頷く私を前に、カトルくんはサラダをつついている。あんまり美味しそうには食べない人だけど、実際彼はローアインさんの作る料理を気に入っている。今日のドレッシングは会心の出来らしいから、きっとカトルくんもちょっとは反応するんじゃないかな。
 こっそり彼の様子を窺っていたら、僅かに耳の先が動いたから、私の手柄でもなんでもないのに嬉しくなってしまう。カトルくんは表情には出ない分、耳に感情が表れたりするのだ。私の頬が緩んだのがバレたのか、カトルくんはちょっと面白くなさそうな顔をする。



「っん?」



 そのとき、突然の感触にびくりと反応してしまった。不意にテーブルの下の脛に触れられたせいだ。爪先でそのまま足首の方までなぞられて、思わず変な声が出るところだった。既に食堂には私たちの他にローアインさんたちしかいなかった。それでもそういうのは憚られて、口元を押さえたままカトルくんの顔を見る。頬の熱さも手の平で隠し切れたら良かった。
 素知らぬ顔をされるかと思ったけれど、小首を傾げて悪戯っぽく笑われたから、息が詰まる。



「それ、っべーわ!」



 その時厨房の方からトモイさんとエルセムさんの笑い声がしなければ、私はカトルくんに、惚けたような顔を見せてしまっていたと思う。
以前、一緒にこの世界に残るための方法を調べてくれると言ったカトルくんに、私はグランくんからの返答が芳しくなかったことを伝えようと思っていたのに、何だかそんな気も削がれてしまった。胸の内側がむずむずする感覚に、そのまま目を細める。カトルくんの藤色の髪は、今も手の届く場所にある。