例えば私が元の世界に戻ることがあったとして、そのとき、私は自分の置かれた現実に耐えうることができるのだろうか。
 家族を失い、元の生活に戻るには年単位の治療が必要な身体ひとつを抱え、家庭のある叔母の世話になりながら、我武者羅に生きるだけの気概がある人間であれば。どんな苦難をも乗り越えて、いつしか両親と兄の墓の前に立つだけの強さがあったなら、もしかしたらそれは可能だったのかもしれない。だけど私はその中の何か一つも持ってはいなくて、だからこそ現実から逃げた。それだけは確かなことだった。
 カトルくんが私を心の中で嫌っていたのは、そう言う弱さを見抜いてのことだったのだろうと、何となく思う。人に頼ってばかりで、自分の力では何もできない。誰かの庇護下に置かれることでしか生きていけないのは、この世界でも変わらなかったのだから。
 そんな自分が嫌になって、グランサイファーから降りた。後悔はないけれど、ほとんど突発的と言っても良かった。



「い、ま、ま、で……。……これで合ってるのかな……」



 いままでありがとうございました。そう書いたメモを、テーブルの上に残す。読むことは何とかできても、書くことはままならなかったこの世界の言語だ。きっと子どもが書いた方がずっと正確で、まともだっただろう。震える線は、だから、私の心がそうであったためではない。
 もう少し文字を書くことができていたら、私はきっとだらだらと、言い訳がましいだけの長い文章を、夜を徹してしたためただろう。それは恐らくあとに振り返ってみればみっともなくて、見苦しい類のものだったはずだから、いっそ文字を知らないままであって良かったと思う。
 三つに増えたボンボンのついたバッグを肩にかけて、私は殺風景になった部屋をぐるりと見回す。
 たのしいことばかりだった。
 ビィくんは怒りっぽくて、私の不甲斐なさを叱ることが多かったけれど、一度だけ好物の林檎を分けてくれたことがあった。ルリアちゃんはおっちょこちょいで、表情が豊かな女の子だった。採寸からたったの数時間で私のワンピースを仕立ててくれたコルワさんも、私の好みを熟知してくれたローアインさんも、かっこよくてきれいなカタリナさんも、みんな大好きだった。
 家族みたいだと思ったのだ。
 もう手に入らないと思っていたから。
 だけど、私は自らそれを捨てる。未練がましく、ここに来て手に入れた思い出をすべて抱えて、グランサイファーを降りた。あてがあったわけではない。だけど私の脚は動いたし、喉だって正常だった。たったそれだけでも、胸を張りたかった。自分の手で、自分の大切な物を守り通せるくらい強くなりたかった。例えば、ひったくり犯を走って追いかけることが出来るくらいに。この喉で「泥棒!」なんて叫んで他の人の注意をひくことが出来るくらいに。
 明け方というよりも、ほとんど真夜中だった。騎空艇に乗る誰もが寝静まっていることを祈る。しんと静まる夜の闇の中、振り向いたグランサイファーに後ろ髪を引かれなかったとは言えない。
 でも、だから、もしも自分の両足で立って生きることが出来たら、私はまたグランくんたちに会いたい。
 込みあげてくるものを呑み込んだ。朝までの時間を、営業していた飲食店で過ごした。お酒を飲んで酔っ払う男性たちの視線から身を縮めて、私はそれでも、一人になったことを後悔しないと決めた。
 夜が明けてすぐに向かったのは、グランくんの伝手で懇意にさせてもらっていたよろず屋のシェロちゃんのところだったのだけれど、これくらいはどうか許してほしい。
 シェロちゃんは仕事を探しているのだという私の話を聞いて驚いた様子だったけれど、二つ返事で、ここから二つほど島を移動した先の小さな街の料理店を紹介してくれた。



「グランさんは知らないんですよね? 本当に良いんですか~? 言伝ならいくらでも預かりますが~……」



 彼女の言葉は尤もで、だけど私は首を振る。彼に居場所を知られていたら、きっと私は無意識のうちに、彼の迎えを待つだろう。それはどうしても避けたかった。



「グランさんには内緒にしておきますけど、でも、心配してると思いますし、フォローはしておきますね~」



 そう微笑んだ彼女に、私はきっと一生頭が上がらない。
 グランサイファーより一回り小さい商用の艇に乗せてもらって、そして私はこの空域を発った。グランくんたちは私を心配してくれているだろうか。そう考えているはずなのに、脳裏に過ぎるのは、あの藤の色の髪をした少年なのだから、私も大概だ。
 汚れたガラスの向こうで、彼と出会ったあの街が、遠く離れていく。カトルくん。口の中で、彼の名を呼ぶ。



「逃げたらその時点で殺す。この騎空団の連中全員を殺す」



 彼がそう叫んだあの瞬間、それもいいかもしれないと思ったなんて、誰にも言えない。
 







 団長さんに敗北してから彼と行動を共にするようになった理由は、その強さの正体を知りたかったからだ。
 あの時はすっかり不意をつかれて短剣を落としてしまったが、例えそうでなかったとしても恐らく実力は拮抗していたか、認めたくはないが彼の方が上だっただろう。それは、彼個人の力とは言い難く、しかし言語化するにはぼくの理解が足りない。不可視の何かがそこにあって、彼の強さはそれに繋がっている。ぼくは、その正体が知りたかった。だから旅への同行を願い出たのだ。
 ということがほとんど建前であるなどと、恐らく彼は察しているだろう。
 我ながら、分かりやすく動揺したものだと思う。あの少女がこの世界のものではなく、家族を失い、健康な身体も持ち得ておらず、たった一人、団長さんの前に現れたのだと言う話を、ぼくは丸ごと鵜呑みにしてしまった。団長さんが嘘を吐いているようにも見えなかったし、彼女本人も、そんな作り話を出来るほど利口な女性に思えなかったのだ。
 自分が共に過ごした彼女の記憶をこの身体から剥いでみれば、それは確かに否定できないものであるように感じられる。今思えば、彼女があの橋の真ん中で泣いたとき、あの堤防にははしゃぐ親子連れがいた。あれに自身を重ねたのかもしれないと、今さらになって思う。彼女はきっと傷ついていた。ぼくだけが、それを知らずにいた。



とは付き合いがあったんだろう? あの頃のはなんとなくだけど、いつもより楽しそうだったよ」



 団長さんは、気を遣ってか、そんな風に彼女の話をしてみせる。という、ぼくの知らない名前を、なにか宝物でもこっそり見せてくれるような丁重さで、彼は口にする。 
 カトルくん、と彼女はぼくの名前を呼んでいた。けれど、そういえばぼく自身、あの子の名前を本人の口から聞くことは結局なかった。当たり前だ、ぼくが尋ねなかったのだから。彼女がそれに気が付いていたかどうかは、定かではないけれど。
 。その名前を、小さく呟く。
 彼女が残した手紙は、たどたどしい筆跡で、たった一言「いままでありがとうございました」と記されていた。一文字抜けていたけれど、恐らく、そう書きたかったのだろう。それを見せてもらっただけで、疑っていたわけではないけれど、彼女がこの世界の人間ではないという事実が真実味を帯びた。はどこに行ったのだろう。こんな手紙ひとつでは、元の世界に帰ったのか、それともどこかへ消えたのかが判別つかない。
 団長さん曰く、彼女が姿を消してから数日の間は、彼らも彼女のことを捜したらしい。あの街を発つ予定を遅らせて、手の空いているもの全員で街を走って、それでも手がかりはないまま。最終的に見かねたらしいよろず屋に、「彼女の居場所なら私が把握していますので~」と伝えられ、捜索は打ち切られた。けれど、よろず屋は決して彼女がどこにいるかを漏らそうとはしなかったらしい。あのハーヴィンは、口がかたい。一度決めたら、頑として情報を譲ることをしないのだ。



「信用問題にかかわりますからね~」



 間延びした声で微笑まれては、彼らもそれ以上彼女を問い詰めることはできなかったらしい。
 無事ならそれでいいのだ。と団長さんは言う。



「シェロカルテを信頼しているからね。彼女が噛んでるなら、悪いようにはなっていないと思う」

「……それでいいんですか? 捜さなくても」

「僕たちの居場所は調べようと思えばすぐ明らかになるわけだから、会いたくなったら、の方から訪ねてくると思うよ」



 それに、本当に元の世界に戻ってしまったとも言い切れないし。
 俯きがちに呟かれた団長さんのその言葉は、きっとぼくにしか届かない。
 もしかしたら、彼にとって、彼女は何か特別な存在であったのだろうか、ぼくが不意にそんなことを思った瞬間、団長さんはぱっと顔をあげる。



「でも、カトルが会いたいなら、捜しだして会いにいくのもいいんじゃないかな?」

「は?」

「もしも彼女がこの世界に留まっているっていうんなら、あの子が一番気にかけているのはきっと君のことだと思うし」



 食えないな、と思うのだ。
 ぼくより幾分か幼いはずの団長さんは、その双眸を細めて笑った。



「あの子は戦えなかったけれど、いるだけで場が明るくなったんだよ。ルリアもビィも、みんな寂しがってる。コルワなんかモデルが減ったってピリピリしてたしね。きみの責任だ、なんて責めるつもりはないけれど、気が向いたら捜してあげてくれないか」

「……責めてるじゃないですか」



 はは、と声をあげて笑う、その横顔だけは、きっと彼は年相応の少年だっただろう。



「だって、は君になりたいって言ったんだよ」



 それに、もう半年待ったんだ。と。



「冷静になるには、もう充分だろう?」



 その口ぶりは、全てを見透かしている者特有のにおいが含まれていたけれど、ぼくはそれに曖昧に笑った。ぼくが思っているよりも、この騎空団を束ねる団長さんは癖が強い。








 個人的によろず屋を訪れたとき、彼女がにんまりと微笑んだ訳を、ぼくは薄ら理解した。彼女はどういうわけか膨大なネットワークを持っている。「カトルさん、お待ちしていましたよ~」と満面の笑みを浮かべた彼女は、数週間前に「信用に関わる」と言った口と全く同じそれで、「さんの居場所ですよね~?」と言ったのだった。
 その時点で、彼女が元の世界に戻ったという可能性は完全に潰えた。だんまりのぼくに地図を広げて見せたよろず屋は、「ここからだと少し遠いんですが、この空域を抜けて、こちらですね~。二番目に大きな街ですので、お間違えの無いよう~」と予め準備しておいたらしいメモまで寄越す。サービス心が旺盛すぎやしないだろうか。受け取ったぼくもぼくだ。今さら彼女に会って何になる。そう肘をつくぼくと、今この身体を支配しているぼくはまるで別人だ。



「……ありがとうございます」



 漏らした言葉に、よろず屋は「いいえ~」と首を振るばかりだった。一体このよろず屋は、どこからどこまでを把握しているというのだろう。「今度は優しくしてあげてくださいね~」と念を押されては、返す言葉もない。
 ぼくが彼女に最後に会ったのは、今から半年前だ。正式に団長さんの旅に同行することになったのが二か月前、そう思えば、この心境の変化は劇的で、ある意味では恐ろしい。
 人ごみに流される彼女を見かけて、タイミングを見計らって声をかけた。足を踏むまで目の前のぼくに気が付かない、ねじの抜けたような女性だった。再び出会ったのがその二か月後、偶然を装って再会を演出し、お茶に誘った。苛立ちの正体に明確な名前をつけたのがこの日だ。憎悪。だけど、これはきっと、ぼくが気が付いていないだけで、それはほとんど羨望に近かった。
 その翌日に出会ったのは偶然だった。ひったくりに遭ったあの路地にわざわざ一人で出向こうとしていたから、つい声をかけてしまったのだ。そこに行けば、恐らく路傍に置かれた花に目がいくだろう。あれを殺したのはぼくだけれど、わざわざ彼女がそれをはっきりと目の当たりにする必要はないと思った。ぼくは無意識下で、彼女を逃がそうとしていたらしい。人の死や、恐怖、それに伴う哀しみと言った物事から。
 彼女には周りにそうさせるだけの力があって、知らず知らずのうちにぼくもその磁場に巻き込まれていた。今もそうなのかもしれない。分からない。それでも、あの子がどこかで必死で生きているというのなら、せめてその姿に、謝罪くらいはさせてほしい。
 あなたを誤解していたと。
 都合のいいことなのかもしれないけれど。








 グランくんたちと離れてから半年が経った。
 シェロちゃんが紹介してくれた料理店はそれなりに繁盛していて、私はそこで皿洗いを任された。というか、それしかできることがなかったのだ。
 料理の腕はなく、話すことはできても字が書けない。注文を取ることもままならないと言うのは大きなマイナス要素で、それを知った店長さんは少しだけ顔を顰めた。それでも何度も頭を下げて頼み込んだ私に負けて、というよりもきっとシェロちゃんの紹介という方が大きくて、住み込みで働くことを許してもらえたのだから、彼女に足を向けては眠れない。
 コルワさんが作ってくれたワンピースを与えられた小さな部屋の壁にかけて、私は街で買った白いシャツと、細身の黒いパンツを着た。ポケットには、返しそびれたカトルくんのハンカチを入れて、長い髪を一つに束ねて、エプロンをつけて、そうしていると表に出せないのが残念だなと店長にお世辞を言われたことに愛想笑いを浮かべながらも、私は皿を洗い、店を掃除した。
 周囲から勤勉な少女と認められたのは、働き始めてからどれほど経ってからだったか。夜は文字を学び、仲良くなったウェイトレスの女の子に、彼女の妹の絵本を借り、そうしているうちに、何とかお店のメニューを書くくらいはできるようになって、数か月が経つと私は店の表に出た。ウェイトレスの女の子が結婚して、遠くの街へ行ってしまうことになったからだ。
 彼女に手紙を書いた。今までありがとう。あなたのおかげで頑張れた。それは、半年前の私が書いたものとは全くの別物で、不意に、思い出さないようにしていたグランサイファーでの生活が脳裏を過ぎる。私が置いて行ったものたちがこの頬をひとつ残らず撫でていく。
 グランくんは元気だろうか。ビィくんは、ルリアちゃんは、今日も笑っているだろうか。私に与えられたあの部屋は、もう誰かが使っているだろうか。ボンボンの三つついたバッグは棚の上に置かれたまま、鍵付きの引き出しの中には、今までのお給料が、ほとんど手つかずの状態で入っている。半年だ。だってもう、半年が経ったのだ。
 この頃には、私は日々のことに忙殺されて、改めて自身の現状と向き合う余裕がなかった。この世界は何なのか。私の本当の身体はどこにあるのか。夢か、現実か。答えの出せないまま、財布の中に入っていた写真を、私はけれど目につくところに飾っている。両親と兄の声は、恐ろしいことに脳から薄れかけていて、私はそれに時折狂いそうなほどに泣きたくなる。そういうときは、布団に頭まで潜って、声を殺して泣く。許さない、許さない、死んでよ、と不意に口から漏れる、あの車を運転していた男への呪詛に、けれど、その殺意すらも生きる糧になり得たのだと、ようやく気が付いた。
 強くなったと、思うのだ。
 シェロちゃんの紹介ではあったけれど、知らない土地で、知らない人に囲まれて、不慣れな仕事をして。その中で自分の境遇を受け入れて、生きてきた。お金を貯めて、できる仕事が増えて、認められて存在価値を見出して、これでようやく、私はグランくんたちの中の、最後尾を歩くくらいは許されるだろうか。



 この街は、藤によく似た花が咲く。春に咲いたその花を、買い物帰りの私は見上げている。良く見ると、花弁の形は不揃いで、家の庭に咲いていたものよりも少し青みがかっているその花は、私が手に入れたかったあれとは言い難く、だけど、どうしたって目を逸らせなかった。カトルくんを思い出していた。私は彼に近づけただろうか、その思いとほとんど同じくらいの濃度で思う。彼は私を許してくれるだろうか。
 与えられるのを待つばかりで、諦めたような目で、どこかで終わりを願っていた私を。
 不意に、背後で人の気配を感じる。店長が痺れを切らして迎えに来たのかもしれない。吹いた風が、薄紫色の花弁を散らす。この花の咲く時期は、恐らく私の予想よりもずっと短い。手に入れられるものではきっとない。だけど、だからこそ愛しい。
 振り向いた先にいたその人は、散った花弁の中で、小さく首を傾げて微笑んだ。彼が今まで見せたことのない、ほんの少しだけ、泣きそうな瞳で。カトルくん。吐き出したその名前に、彼は眉尻を僅かに下げる。
 幻だろうか。買ったものを両腕に抱えたまま、ただただ目を見開いている。だけど、鮮明だった。私の記憶から少しずつ薄れかけていたカトルくんが、今間違いなくそこにいた。



「――ぼくには、なれましたか?」



 どうして彼がここに、という思いが、その言葉で一つの可能性に辿り着く。
 この腕の中に、かつて取りこぼした人並みの何かが今度こそあるだろうかと思うと、途端に泣き出したくなる。それは事実だ。結局私は今どこにいるのだろう。いつか私はこの世界で築いた全てを置いて現実に帰るのだろうか。ワンピースもバッグもルリアちゃんと買った人形も、彼から借りたハンカチも、すべてを置いて。そう考えると途方に暮れる。だけど、私はここにいたいと、強く思う。歩けども答えは出ない、恐らくここは今際の森で、私は本質的にはひとりで。だけど、カトルくんは、小さな、乾いた笑みを零す。それでいいと思う。
 あなたになりたかった。それが叶わないなら、私はいっそあなたが欲しかった。あの日手にしたかった藤の花の代わりに、この手を伸ばしてその前髪に触れれば、あなたになれたら、あなたが手に入れば、この夢が叶ったら、私は目を覚ますのだろうか。そんなあり得ない空想を描きながら、やがてその唇から教えた覚えのない私の名前が呼ばれるのを、私はただ、聞いている。眦に焼き付くような一瞬を、生きている。
 この感情に、名前はまだない。



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