こちらのつづきのお話です




 いつから目で追いかけていたかなんて、もう記憶にない。
 フラルダリウスとガラテアの間の、ファーガスの国土から見れば猫の額程度でしかない領地に暮らす女の子。年の離れた兄貴が二人いて、そのせいかお前はどうにものんびり屋で、穏やかな性分だった。お前の家は、ガラテアと似たり寄ったりの貧乏貴族だったのにな。優しくて、怖がりで泣き虫で甘えたで、フェリクスたちよりずっと幼く見えた。お前は俺の中で、正しく「女の子」だった。
 武器を折っただの折られただので言い争う殿下やフェリクスを前に、お前はいつも困った顔で俺やイングリットを見あげていた。ちょっとした喧嘩や争い事を、必要以上に怖がる子だった。



「シルヴァン、どうしよう。ねえ、おねがい、二人を止めて」



 小さな手が俺の服を引いて、か細い声が俺の名を呼ぶ度、幼い庇護欲がかき立てられたのを、今でも覚えている。今だったらさ、やめとけよ、って言うんだけどな。やめとけよ。その子を好きになったって仕方ない。って。だってなんの意味もないんだぜ。って。
 お前は俺の袖を引く度、その下にある傷や痣に触れないよう、いっとう注意を払っていた。顔を顰めて見せたら、お前はどうしただろう。イングリットのように心配し、事情を聞き出そうとしただろうか。「ねえ、シルヴァン、この怪我一体どうしたの? あなた、ひょっとして――」そう深刻な顔で尋ねてくれたイングリットが悪いわけじゃない。あいつの真っ直ぐな優しさも俺は理解しているし、ちゃんと嬉しかったのだ。だけどなあ、言えるわけがなかったよ。フェリクスの頭を乱暴に、だけど隠しきれない慈しみを持ちながら撫でるグレンの前で、年の離れた兄たちに正しく愛されたイングリットやお前の前では、どうしたって言えなかった。
 「死ねば良いって思われてるんだ」なんて。
 腹違いの兄に、生まれ落ちたその瞬間から憎まれているなんて、殴られているなんて、死を望まれているなんて、絶対に口にはできなかった。言ってしまったら最後、俺の存在がぼろぼろに崩れて空気に溶けて、全部なかったことになっちまうんじゃないかって、怖かったんだ。
 ――お前は知っていて、何も聞かずにいてくれた。








 俺の痣をみとめながら、お前だけは何も聞こうとしなかった。
 俺が兄上に酷く殴られた日、伯爵にくっついてゴーティエを訪れていたお前は、腫れた瞼をした俺の隣に座って泣いてくれたな。俺の痛みを一緒に抱いてくれるみたいに。ゴーティエまでの馬車の旅で疲れていたろうに。お前は何も言わなかった。すべてわかっていて、何も言わずにいてくれた。



「……長旅で疲れただろ? 寝てもいいんだぜ」



 泣いてくれたのが嬉しくて、だけどお礼も言えなくて、そう言った。お前は「寝ないよ」と涙まじりの声で言いながらも、最後は俺の肩にその頭を乗せた。やがて聞こえたちいさな寝息を、本当は俺だけのものにしたかった。



「――死ねば良いって思われてるんだ」



 そのとき俺は初めて、ちいさく、ちいさく言ったのだ。閉ざされたお前の瞼はぴくりともしなかった。「本当に何もかも放りだして、死ねたらいいのになぁ」暖炉の火が、俺の言葉を殺すように、ぱちぱちちいさく爆ぜていた。紋章なんか持って生まれなければ良かった。今からでも選べるんだったら、俺はきっとこれをそのへんの誰かにあげた。お前以外の誰かに。
 ゴーティエがスレンとの国境に位置するのではなく、ガラテアや、フラルダリウスあたりにでもあればよかった。そうしたら俺はお前の傍にもっといられたし、紋章は俺達の人生を飲み込まなかった。現状ほど兄上に疎ましがられることもなかっただろう。スレンの襲撃に怯えず済んだ。兄上の母もきっと殺されたりしなかった。お前がいつも目で追うフェリクスになりたかった。――お前の特別になりたかった。正しい女の子が恋する何者かでいたかった。
 暖炉の炎が作る穏やかな陰影が、お前の寝顔を閃くように揺らしていた。木漏れ日の中にいるお前を思い出していた。グレンがフェリクスにそうしていたように、その頭を撫でたけれど、お前は決して目を覚まさなかった。
 光で色を変える無邪気なお前のその目が好きだった。
 その身に紋章を宿さないお前が好きだった。








「お願いお願い、代わってください……!」



 私にできることならなんだってするから。
 幼い頃の面影を強く残したお前は今、ガルグ=マク士官学校の制服を着て俺の前で両手を合わせ、頭を下げている。
 俺に厩舎の当番を代わってほしいらしい。たったそれだけを頼むのに、女の子たちとの会話に花を咲かせていたところを呼びかけられた。緊張しただろうに。案外、人見知りするやつだから。だから嬉しかった――なんて言ったら、お前は不思議そうな顔で俺を見るんだろうな。お前はイングリットと違って俺を軽薄な男だと軽蔑する様子はなかったけれど、それでもガルグ=マクで、昔のような気安さを俺に向けてくれることはなかった。そのくせ、俺がそれを気にしていることをお前は決して察しようとはしなかったから。
 厩舎の当番を代わってくれと言っても、別に馬が苦手なわけでもないし、何か急用ができたわけでもないだろう。ただ同じ当番の、フェリクスと二人きりになるのが気まずいだけなのだ。俺達の幼馴染みの、気難しい顔をした男を頭に浮かべる。お前はフェリクスを避けていた。士官学校に入学した大樹の節から、いや、その前からずっと。分かっていて、「いいぜ、別に」と、二つ返事で頷いたのだ。なんだってするから、なんて言葉、俺以外には絶対に言うなよと念じるように思いながら。



「ほんと!?」

「可愛い幼馴染みの頼みだしなぁ」

「えー! シルヴァン、ありがとう、すごく助かる……!」



 「可愛い」ってわざと口にしたのに流されたのは、人徳がないせいか。
 お前はフェリクスを避けている。グレンが死んだあの日から、ずっとフェリクスから逃げている。
 花が綻ぶような笑顔だった。わらうとき、微かに眉が下がるところがすきだった。瑕疵の一つもない美しい少女。紋章を持たないお前はイングリットのように政略結婚の道具にすらされることがない。俺のように憎まれることも、殴られることも痣を作ることも、誰かから死を願われることもない。フェリクスを傷つけたと思い込み、距離を置くことがフェリクスのためだと信じ切って、意地を張って距離を取って――お前はいつまでも、正しい「女の子」のまま。
 俺を置いて、正しいまま。
 少しだけ傷をつけてみたいと、その時ふと思った。手に入れられないなら。ちょっとでいい。俺のことを見てほしかった。隙間のないお前の感情に、薄い紙を差し込んでみたかった。
 食堂の外壁に背を預け腕を組んで、「でもさ」とお前の名前を呼んだ瞬間、はじめてお前の目が、俺のせいで翳った気がしたのだ。



「これからもずっとそうするつもりなのか?」



 フェリクスと向き合わず、逃げ続け、お前が失敗したと思い込んでいる過去を精算せずに生きていくのか。
 ――なんて、傷つけようとしたはずの言葉で自分が傷ついてるんだから、馬鹿みたいだよな。
 お前の目はガルグ=マクの、俺達の生きた極寒のファーガスよりずっと穏やかな陽に晒されていたはずなのに、濁ったように歪んでいた。背の向こうで皿が割れる音がした。視界の端で、ファーガスでは見ない鳥が飛び立ったのを見た。美しい色の羽根を見せてやりたかったけれど、お前を傷つけたのが思ったよりも苦しくて、目を逸らした。謝る代わりに「お前もフェリクスも、意地っ張りだよな」と誤魔化すように笑ったが、お前がどんな顔をしていたかは定かではない。








 俺に向けられる愛は実のつかない花。容れ物ばかりが美しく、切り裂けばへどろの液体があふれ出すもの。あるいは悪臭のするはらわた。堆積する怨念。求められているのは、俺の紋章だけ。
 やわいだけの女の身体に触れる度、俺はあの日のを思い出す。屍の転がるマグドレド街道をフェリクスの背におぶわれて、お前はまるで光そのものだった。
 お前を手に入れるために全てを投げ打っていたら、お前はフェリクスではなく俺の手をとってくれたのだろうか?
 そんなことはない。あれは時間の問題だった。言葉足らずだっただけのフェリクスと、思考の沼に足を取られ続けていたはただすれ違っていただけで、何か一つでもきっかけがあればすぐに向き合うことができたのだ。そのきっかけの一つを取り上げたのが、あの日厩舎の当番を代わってやった俺だった。
 俺にしてくれよと、言えたら良かった。








 星辰の節の、舞踏会の夜、仏頂面のフェリクスの手を引っ張って踊るを見た。「ねえ、どう誘ったらフェリクス、私と踊ってくれるかな?」そう俺に相談をしてきたお前はもう、フェリクスへの思いを自覚していた。
 ゆるく弾ける光の中でいつかのお前を思い出す。暖炉の前で、俺のために泣いてくれたこと。俺に身体をあずけて眠ってくれた。あの日の痣などとうに消えていたけれど、お前は兄上を討つことになったあの夏も、俺がこの手で兄上を殺した夜も、俺の隣にいてくれた。あの日好きだと伝えていればよかった。弱いところを見せればよかった。本当はずっと苦しかったのだとお前に泣いていたら、お前はフェリクスに向ける心の一部でも、俺に差し出してくれただろうか。
 幼い頃兄上に突き落とされた真冬の空井戸の冷たさはいつまでも俺の記憶にこびりついていて、剥がれてくれはしない。耳も鼻も手足もあのとき千切れてくれていたらよかったけれど今も俺は五体満足で、この身体に紋章を宿したまま、無数の、見せかけの愛に囲まれて空虚に笑っている。叶うなら俺はやっぱり、お前になりたかったよ、フェリクス。でもそれは全部、ないものねだりか。
 音楽は止まない。視界の奥で踊り続ける二人は燦然と輝いていて、だから小さく、「あーあ」と漏らして、笑ってしまう。昔からそうしていたように。身を引いて、はなから俺には過ぎたものと、足元に散らばる残骸を踏みにじる。
 俺の名を呼ぶ誰かの声がする。一緒に踊ろうと袖を引かれて、作った笑みを貼り付ける。甘い匂いを放つ女たちの目の奥に、いもしないの残滓を探しながら、同時に、俺は俺の痣を何も言わずに撫でてくれた女の子に別れを告げている。
 どうか、どうか幸せに。俺のために泣いてくれた正しい女の子の幸せを、俺だけはいつまでも祈りつづけるよ。