フラルダリウスとガラテアに守られるように挟まれた小さな土地を治める貴族の三番目の子供として生まれた私は、まるで領地そのものを体現でもしているかのような人間だった。
身体の大きさだけじゃなくて、年の離れた兄が二人もいた分精神面も幼くて、怖がりで、泣き虫。幼馴染みとして近い関係を築いていた皆の中でも一際背が低く、足も遅かった。身体が弱くて勘も悪い。いつも人より一歩も二歩も遅れてしまうせいで、つい周囲の顔色を窺ってしまう。迷惑かけてないかな。みんな、怒ってないかな。知らないうちに嫌われたりしていないかな。って。
「は人よりも感受性が豊かで、優しいんだよ」とグレンは言ってくれたけれど、彼の弟のフェリクスは「こいつは肝っ玉が小さいだけだ」と、いつも私を相手にしてくれなかった。イングリットは「はそのままでいいのよ」と、転んだ私の膝を撫でながら姉のように言ってくれて、シルヴァンは「そうそう、無理すんなよ」って、青い痣の残る手を私に差し出した。「ならいくらでもおぶれるから、歩けなかったら言ってくれ」と言う殿下は、まだ、光の中だった。
なんて美しい日々だったんだろう。
もう手に入らないって知っているから、だから今も夢に見る。私たちの失った日々のこと。
私は小さくて、頭もさしてよくなくて、皆と違って武器を持つことすら覚束なかった。守られてばかりだった。手加減されてばかりの訓練。乗馬だけはなんとか追いつけた。お菓子を広げて食べた。フェリクスは、甘い物はいらないって言って自分の分を私に寄越してきたけれど。指のはらで跡をつけたような雲の切れ端を眺めていた。ずっと続くと思っていた。尊く、やわらかい光に包まれた、私たちのさやけき日々は、だけどもうどこにもない。
「、支度はできた?」
扉を叩く音と私を呼ぶ声で目を覚ますとき、私はいつも、ここがどこなのかが分からなくなる。
多分、空気の匂いや温度がファーガスとは全然違うせいだ。ファーガスの空気は、どの季節にあってももっと鋭かった。身体の中の隅々にまで届くような、清涼で、だけど少し痛いくらいの温度だったから。
十七年をファーガスの東に暮らしていた私は、まだガルグ=マクでの暮らしに慣れない。大樹の節も、もう終わろうとしているって言うのに。環境の変化には、弱いのだ。昔から。
ぼんやりとした頭で起き上がる。調度品のほとんどない簡素な部屋。空っぽの花瓶。窓からの、ファーガスよりもどこかぬるい光の線を視界の端で追いかけて、それが机の上に開きっぱなしの教書に差し込んでいるのを見て、それで私はようやく覚醒する。――そうだ、ここ、ファーガスじゃないんだ、って。
「…………え、うそ、もう朝!?」
「朝よ」
私が叫んだのと、返事がないことに痺れを切らしたらしいイングリットが部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。寝台の上で「ひゃ!」と叫ぶ私の頭から爪先を呆れたように眺めるイングリットは、「もう、ったらまた寝坊したのね。今度こそ授業に遅れちゃうわよ」と、幼馴染みの気安さが残る口調で言うから、私はつい気を抜いてしまうのだ。
「だって、昨日の授業でわかんないとこがあって、それでつい夜更かししちゃって……」
「それで寝坊してしまうくらいなら、先生に聞きにいった方が良いんじゃない?」
「た、確かに、ほんとにそう……」
「ほら、早く支度して。本当に遅刻しちゃうわ」
「は、はい……! ごめんねイングリット、ちょっと待ってて……!」
イングリットに急かされて、慌てて寝台から飛び降りる。
まだ真新しい制服に袖を通して、髪を手櫛で整えている間に、イングリットは机の上に散らかしっぱなしだった教書をまとめておいてくれたらしい。イングリットは昔から、面倒見が良い。ぼんやりした私や、問題児のシルヴァンの面倒を率先して見てくれる。シルヴァン曰く、それでも私に対しては、イングリットはまだ優しいって言うし、実際私もそう思っている。イングリットは私を見捨てない。多分、何があっても、ずっとそう。
「ありがとう、イングリット」って言ったら、イングリットは「どういたしまして」って、昔から変わらない金糸の髪を揺らして笑った。お人形さんみたいで、きれい。イングリットのことを、私は小さいときから、ずっとそう思っている。今も。
フラルダリウスとガラテアにすっぽりと挟まれていた家だったから、私はとりわけ、グレンとフェリクス、イングリットと顔を合わせる機会が多かった。殿下やシルヴァンとは祭事や舞踏会で関わることがあったけれど、その回数はやっぱりイングリットたちよりはぐっと少なかったから、私の中で「幼馴染み」と言われて一番に浮かぶのは女の子のイングリットだったし、その次がグレンとフェリクスだったのだ。
しっかり者のイングリットと、お兄さんみたいな存在のグレン、ちょっと無愛想なフェリクスと、どうしようもなく抜けた私。私以外の三人は(ここに殿下やシルヴァンが含まれていても、私以外の、って枕詞がつく)武に秀でていて、いずれ家督を継ぐ者として、或いは騎士を目指して、日々研鑽に励んでいた。私は、皆の中では落ちこぼれ。槍は重くて持てないし、かといって魔法もてんでだめだった。
怖がりだったから、昔は誰かが怪我をするだけでも泣いてしまった。痛いのも、痛そうなのも、どっちも嫌だった。小さな怪我を負う度いちいち泣くものだからフェリクスがうんざりして、「鬱陶しい、泣くな」って、自分の怪我を隠すようになった。そうしないと私が下手くそな手当てをしようとするから、「怪我、痛そう、こわい」って包帯にぼたぼた涙を流されるのが鬱陶しくてたまらないから、だって。イングリットは「素直じゃないのね。心配させたくないって言えば良いのに」って肩を竦めていたけれど、フェリクスの真意は定かじゃない。
それでもグレンは時々私に剣の稽古をつけてくれたのを、今でもよく覚えている。怖がる私に、「大丈夫だ」って言ってくれた。「剣はお前やお前の大事なものを守るためのものだから」って。グレンがいたから私、今、剣を持てるんだよ。肉刺だらけの厚い手が、細やかな上達の度に私の頭ぽんと叩いていくのが好きだった。「ちゃんと上達しているよ、」って笑ってくれるグレンが好きだった。
もういないなんて嘘だ。
「…………」
シルヴァンに声をかけるとき、私はいつも、ちょっと緊張する。
別にシルヴァン本人に対して思うところがあるわけじゃない。シルヴァンは昔から明るくて、どんなときでも気遣ってくれて優しくて――それで、ガルグ=マクでは女の子にいつも囲まれている。元々綺麗な顔立ちをしていたし、女の子にはとりわけ優しい人だったから、こんな現状もさもありなん、といったところではあるけれど、イングリットはそれを「軽薄なだけよ」と不快さを隠そうともせずに言っていた。でも私はシルヴァンの、なんていうのかな、打ち解けやすさ、っていうか、来る者拒まずにいるところが、安心できて好きなのだ。ただ、声をかけようとすると周りの女の子たちの声が一斉に静まったりするのに、どうしても慣れないだけで。
竪琴の節に入って数日が経った、その日もそうだった。シルヴァンが女の子たちと楽しそうに話しているところになかなか近づけなくて、会話の間に生まれるだろう隙をずっと窺っていたんだけど、私はここにきて初めて気がついてしまった。一度躊躇って言葉を飲み込んでしまうと、シルヴァンに話しかけることの難易度はじわじわ上がっていくらしい。
どうしよう、やっぱりシルヴァンじゃなくて別の人にお願いすることにした方が良いのかも。イングリットは今日はどうしても難しいって断られてしまっているから、他の人。殿下は、だめ。ドゥドゥーは、もっとむり。殿下を介してなら兎も角、個人的に話したこと、ないもん。でもアッシュやアネット、メルセデスに事情を説明するわけにはいかないから、それも、だめ。
声がかけられないあまり新しく用意してしまった選択肢に頭を悩ませ始めたときだった。「ん?」って、女の子たちと一緒にいたシルヴァンが私を振り向いてくれたのは。
「――あれ、どうかしたか? 」
シルヴァンの声は、気遣うような表情は、あの頃と変わらない。
周りの女の子たちがどこか白けた目で私を見ていても、シルヴァンの気安い口調に、少し泣きそうになっていたのは嘘じゃなかった。
私たちは幼馴染みだった。次代のファーガスを担う若者として、私たちは幼少の頃から深い関わりを持っていた。
グレンとイングリットが婚約関係にあったのは、貴族のしがらみとか、紋章の有無とか、そういったことが一つも関係していないなんて絶対に言えない。痩せ細った土地のガラテアに紋章を持って生まれたイングリットは、ガラテアの、そこに住まう民たちの希望だった。幼少の頃に交わされたその約束をイングリットがどう思っていたのかは、彼女が決して語らない以上想像しかできないけれど、でも私は、イングリットもグレンも、お互いのことを大切に思っていたって知っているから、だから当たり前のように祈っていたのだ。どうか二人が、大人になってからもずっとずっと幸せでありますようにって。心の底から。心の底から。
二人の幸福を願っていたのは、私だけじゃなかった。フェリクスも、殿下も、シルヴァンも、みんな、ずっと二人を見守っていた。馬上での槍の扱い方をグレンから学ぶイングリットの横顔を見ていた。馬の世話をするイングリットを黙って見つめるグレンを見ていた。私は二人が、ファーガスの未来そのものに見えたのだ。うっかり殿下にそう口を滑らせてしまったとき、殿下は、怒らずに笑ってくれた。「そうだな。本当に、俺にもそう見えるよ」って、眩しいものでも見るみたいに目を細めて、そう言った。
グレンが騎士として王家に仕えるため、フラルダリウスから離れて王都へと向かうことになった時、グレンは「手紙を書くよ」と、フェリクスとイングリットと、それから私に言った。フェリクスは顔を顰めて「いらん」と短く言い放ったけど、あれは要するに、そんな時間は他のことに使え、ってことだったんだろう。フェリクスは昔から、言葉が足りないから。
私も、いらないよ、って言うべきだった。私にはいいから、おじさまやおばさま、イングリットにたくさんお手紙を書いてあげて、って。
知っていたら言えたかな。グレンが死んでしまうって知っていたら、あの時私は私たちを置いて旅立つグレンに言えたかな。
自信がないや。
「ははあ、厩舎の当番ねえ」
「お願いお願い、代わってください……! 私にできることならなんでもするから……!」
食堂脇の人目につかないところで真剣に両手を合わせる私に、シルヴァンはけれど二つ返事で「いいぜ、別に」って言った。「ほんと!?」って顔を上げる。
「――可愛い幼馴染みの頼みだしなぁ」
ガルグ=マクの穏やかな光はシルヴァンの髪に、いくつもの粒子を落としていた。それがどうしてそのとき、あの日彼の髪にからまった雪を思い起こさせたのか。
シルヴァンは背を壁に預けて、腕を組む。私と話をしようっていう意思がそこにあって、私は自分からシルヴァンに声をかけて頼み事をしたくせに、急に、逃げ出したくなる。着崩されたシルヴァンの制服に包まれた彼の身体は、もう四年前の彼のものとは違った。そこにかつての痣は一つもなかった。
「でもさ、」
シルヴァンは優しい。優しいけど、ときどき、本質をつこうとする。そういうとき彼は決まって、どこかさめた目で、私を見る。
「これからもずっとそうするつもりなのか?」
ずっと。ずっと。
答えようとしたのに、喉の奥で言葉が張り付いて、何も出てこなかった。シルヴァンは優しい。優しいって、思っていた。イングリットがそっとしておいてくれる私たちの問題に、シルヴァンは気まぐれに――もしかしたら、気まぐれというよりは何らかのはっきりした意図をもって――爪を立てた。
何も言わずに引き受けてくれるにちがいないって期待した、私が馬鹿だった。フェリクスと一緒になってしまった当番が気まずいから代わってほしいなんて、そんな自分勝手な子供みたいなお願いをしても、シルヴァンだったら笑って引き受けてくれるんじゃないかって思った。シルヴァンは優しいから。どうして四年前のまま、何も変わらずにいてくれていると信じていたのだろう。
壁一枚隔てた食堂の中で、その時、お皿の割れる音がした。小さな悲鳴とどよめき。勿体ねえなあって、誰かが言ったのも、全部聞こえていたのに、私はその時シルヴァンが言った「お前もフェリクスも、意地っ張りだよな」だけ、聞こえないふりをした。
終わってしまったのは、四年前の、角弓の節だった。
都度厩舎の当番を代わってもらったとして、それでどうして同じ教室で過ごすフェリクスと完全に関わり合いにならずに済むことができるだろう。
剣の訓練の最中、ベレト先生に、フェリクスと組むように言われた。思わず「えっ」って言ったけれどベレト先生には聞こえなかったみたいで、彼はそのまま剣術に苦手意識のあるメルセデスの元へと向かってしまう。
「あら~、わざわざごめんなさいね、先生……」
おっとりしたメルセデスの声はこの距離からでも耳に届くのに、それに答えるベレト先生の声は私には聞こえない。
訓練用の剣を持つ手がじとりと汗ばんで、背中のあたりがざわざわした。イングリットかシルヴァンに助けを求めようとしても、イングリットはアネットにつきっきりになっていたし、シルヴァンに至っては目が合ったのに、軽く笑って、そうと分からない程度に手を振られただけだった。「ほら。『ずっと』なんて、無理だろ」。その目はそう言っていて、私はそれに、息が止まりそうになる。
ずっとなんて、無理だ。ガルグ=マクで寝食を共にし、学び、課題に取り組む私たちは、同じ学級であるなら尚更関わりを密にすることになる。私がどれだけフェリクスを避けても――フェリクスがどれだけ私を嫌っても、無理なのだ。絶対に。
実際、前節の終わりに向かったザナドでの盗賊討伐、あの時だって私はフェリクスに守られた。賊に背後を取られて、切りかかられるその寸前、こちらに踏み込んだフェリクスが横から賊の腕を切り落とした。返り血を浴びてへたり込んだ私を見下ろした彼の顔は、逆光で見えなかった。お礼を言いたかった。だけど舌打ちだけをされたのだ。いつかのように。
今日もフェリクスは、そうした。私から目を逸らして、ため息をついて。
「――おい、猪。代われ」
そして、ドゥドゥーと既に相対していた殿下に向かって言うのだ。
「俺は、こいつとはやらん」
フェリクスを避けていた自分のことを棚にあげて一丁前に傷つくなんて、最低だ。
グレンが死んだのは四年前だった。
会談のためダスカー地方へと向かった王家一行の護衛任務についていたグレンは、ダスカー人の襲撃を受け、殿下を守り通し、死んだ。私が知っているのは、後に「ダスカーの悲劇」と呼ばれることになるその事件で、ランベール国王を始めとした多くの、尊い命が奪われたということ。グレンが騎士として身命を賭して守り抜いた殿下が、ただ一人生き残ったということ。たったそれだけ。
ファーガスを混乱に陥れたその事件は、当然のように私たちにも大きな影を落とした。影というよりも、最早それは穿たれた巨大な穴だった。
グレンの死を受け入れられなかったのだろう。イングリットは部屋に籠もったまま出てこなくなってしまった。私がガラテアを訪れても、彼女の部屋の扉はかたく閉ざされていた。馬の世話も人に任せ、彼女はずっと、顔を見せてはくれなかった。
傷ついていたのは、フェリクスもだ。ロドリグおじさまが「それでこそ騎士の最期だ」と息子であるグレンの死を語ったその時、フェリクスはおじさまを殴り飛ばした。弔問のためにそこに居合わせていた私が、それにどれだけ衝撃を受けたか。頭が真っ白になった。何が起きているか、わからなかった。
「やめて、フェリクス、おじさまにひどいことしないで」
こわい、って、思わず叫んだとき、フェリクスが私を見た。酷い目をしていた。傷ついたような目だった。私はフェリクスがあんな顔をするのを、初めて見たのだ。
フェリクスの握られた拳は皮が剥けて、指の関節から血が滴っていた。フェリクスは何も言わなかったけれど、彼から流れた血が私を責めているように見えた。従者が治療のため、おじさまを別室へと誘うのを、視界の端で見ていた。もしグレンがここにいたら、彼は私たちの間に立ってくれたのに。
グレンがいない。いなかった。もうどこにも。どこにだって。涙が目の奥から滲んで、止まらなかった。どうしたらいいのか分からなかった。感情の行き場はどこにもなかった。怖くて怖くてたまらなかった。イングリットが部屋から出てこないのも、フェリクスが怒っているのも、グレンがいないのも、殿下の容態がはっきりと伝わってこないのも。全てが恐ろしかった。私たちはもうあの日々に戻れない。それが一番、こわかった。
舌打ちをされた。私たちしかいないその部屋に、その音は一際大きく響いていた。
「――鬱陶しい」
そうしてフェリクスは私を突き放したのだ。
泣きじゃくる私にフェリクスが吐き出したそれが酷く掠れていたのを、私は今でも覚えている。
「……すまない、。加減を間違えてしまった」
「い、いえ……、受け止めきれなかった私が悪いので……」
じんわりと痛む手の平を見下ろしながら、ドキドキする胸の内側を自覚する。殿下を相手にしながらぼんやりしていた私が悪いのだ。グレンから教わった剣でも、やっぱり殿下には敵わない。
手から離れて在らぬ方へ飛んでいってしまった練習用の剣を拾いに向かう。先の方で、ドゥドゥーと剣を重ねているフェリクスが視界に入ったから、慌てて目を逸らした。
「…………フェリクスと喧嘩でもしているのか?」
なのに不意に背後から尋ねられたから、「ひっ」と悲鳴が漏れてしまったのだ。
さらりとした金の髪、背丈は昔よりずっと大きく、逞しくなった。見上げれば、殿下は真っ直ぐ私を見下ろしている。昔から少し鈍感なところのある方だったけれど、流石にさっきみたいなやりとりがあれば殿下も勘づくのだろう。だって「こいつとはやらん」なんて、ちょっと、とげどげしすぎだし。思い出して胸が痛んだ。あれにはちょっと、いや、結構傷ついたのだ。
「し、してないですよ、喧嘩なんて」と返せば、嘘とも真実とも言えないことを口にしてしまった罪悪感で胸が痛む。しかし、果たして私たちのこれは喧嘩なのだろうか。
あの一件があってからこの大樹の節まで、私はフェリクスと顔を合わせていなかった。けれどダスカーの悲劇以降疎遠になってしまっていたのは彼だけではない。殿下やシルヴァンに対してもだ。それだけで言うなら、喧嘩とは、違うんじゃないだろうか。――まあ、殿下たちに対しては避ける意思もなく、ただそういう機会が減ったというだけに過ぎないのだけど。
殿下は私を見下ろしたまま、微かに眉尻を下げる。金色の髪が光に透けて、その向こうに広がる空の青さに目を奪われる。ファーガスよりも、ガルグ=マクの空は青みが強い。
「ガルグ=マクでお前達が会話をしているのを、そういえば見た記憶がないんだが」
「き、気のせいじゃないですか……!?」
「確か、以前厩舎の当番も代わってもらったそうだな。シルヴァンに」
「な、なんで殿下がそれを知ってるんですか……っ」
「…………まあ、何か困ったことがあったら言ってくれ。俺の言うことを聞くやつではないが……緩衝材くらいにはなれるさ」
「う……!」
心配とか、迷惑とか、そういうのをかけたくないから、殿下には悟られたくなかった。
でも、やっぱりどうしたって私たちのぎこちなさは伝わってしまう。どんなに取り繕おうとも、上手くはいかない。殿下に勘づかれてしまうくらいなんだもの。
そろりとフェリクスの方を振り向く。自分よりも大柄なドゥドゥーに臆せず剣を振るうフェリクスの横顔は、グレンと似ているようで、全然違った。
大樹の節、ガルグ=マクでフェリクスを見たとき、あれからもう四年が経ったのだと知った。
久しぶりに見たフェリクスは、背と、髪が伸びていた。大人びていたけれど、昔みたいにいつも険しい顔をしていた。声が低くなった。食堂で出される甘い物は、アネットかメルセデスに譲っていた。変わったところと変わっていないところがあって、だけどその隣に、当然のように私はいなかった。
四年も経っていた。そう、四年も、だ。私たちの間から抜け落ちた年月のその長さに、愕然とする。だけど冷静に考えれば、何もおかしなことじゃない。ダスカーの悲劇を経た中で唯一(表向きは、なのかもしれないけれど)変わらずにいてくれたシルヴァンがありとあらゆる浮名を流しているのを耳に入れたイングリットが、「シルヴァンを放っておけない」と、その部屋の扉を開けたこと。恢復された殿下が地方の反乱鎮圧のために軍を率いたこと。そこにフェリクスも加わったこと。四年という年月に相応しい日々がそこにあって、ただ私だけが漫然と、平凡な日々を送っていた。
剣を振り続け、政治を学び、もたらされる縁談話についてイングリットと二人苦い顔をし、グレンと過ごした過去を夢に見た。気丈なイングリットはグレンの話をするときも私の前で泣くことはなかったから、私も堪えた。イングリットは時々、フェリクスと顔を合わせる機会があるらしい。気分転換に、一緒にフラルダリウスへ行かないかと誘ってくれる彼女に首を振ったのは、フェリクスが私の出した手紙に、一度も返事をしないから。フェリクス。あの日あなたを傷つけた私を許してもらえませんか。返事がないのが、その答えだ。
フェリクスは私に失望したのだ。
だからきっともう、前みたいには話せない。
「話しかけたらいいのに」
物陰からフェリクスを見つめる私に、イングリットは呆れたように言う。
雨期に入る花冠の節、じっとりと湿った空気に覆われたガルグ=マクで、私の周囲だけはますますじとじとと倦んだように澱んでいた。最近の私は、そろそろフェリクスとの関係をどうにかしなくちゃ、って思いと、でも今更どうしたらいいのかわからない、っていう思いとで雁字搦めになって、夢ですら魘されるくらいだった(眠りが浅くなったおかげで寝坊はなくなったけれど、酷い顔をしているからどうにかしてとイングリットには言われている。私だってどうにかしたい)。
私たちが幼馴染みであることは普段の様子からアネットやメルセデス、アッシュにも伝わっていて、だけどだからこそ私とフェリクスが極端にお互いを避けているのが目につくらしい。アネットたちに「何かあったら言ってね」と気遣われてしまって、参った。ベレト先生にまで「戦場に持ち越さないなら自分は何も言わないが」と前置かれた上で、「だけどやっぱり、話はしておいたほうがいいと思う」と助言されてしまって、ますます逃げ場がない。
いや、でも私は今自分がいるこの場所を、本当に断崖絶壁だと思っているのだろうか。本当は探していたんじゃないか。フェリクスに声をかけるきっかけを。謝罪する場所を。手紙じゃなくて、直接、目を見て話す日を。
教室の外に一人でいるフェリクスをじっと見つめながら、しかし私は動けない。いけ! いけ! 今だ! って頭の中の自分が言うのに、四年分の沈黙が邪魔をする。あの日のフェリクスの、傷ついた目が私の足を縫い付ける。
怖じ気づき、「うぅ……!」と唸る私の隣で、イングリットは昔みたいに肩を竦めた。
「まあ、あなたたち二人の問題だし、私は何も言えないけど……」
その時のイングリットの仕草で、何か、遠い昔の記憶が蘇りそうになったけれど、「おい頼む二人とも匿ってくれ!」って血相を変えた、恐らくまた何か女の子関係でやらかしたらしいシルヴァンが教室に飛び込んで来たせいで、全部消えた。
だから、その日私は、今しかないって思ったのだ。
今しかなかった。この時しかなかった。ロナート卿の起こした反乱鎮圧の事後処理のために向かったマグドレド街道、深い霧の中避けられなかった交戦で、フェリクスがザナドのときと同じく敵兵から私を守ってくれたその時。
ベレト先生の指示で、彼は戦いに不慣れな私やアネットたちを守る為に殿にいたから、だから、フェリクスは私のために戦ったわけじゃない。不意をつかれたのが私じゃなくても、フェリクスはその剣を振るった。紙一重のところで突き飛ばして、代わりにその攻撃を剣で受けた。何の躊躇もなく、兵を切った。私だからじゃない。分かっていたけど、私はそのとき、やっとフェリクスに「ありがとう」って言えたのだ。
「ありがとう、フェリクス」
喉に空気が張り付きそうだった。突き飛ばされて転んだせいで、ぬかるんだ土が髪やら頬についていた。それでも、ぬぐっている間にフェリクスが私を置いていってしまいそうで、そのままでいた。
フェリクスは、何も言わない。濃い霧の中、足元に転がる死体の傍で剣についた血を切って、振り向きもしない。聞こえていなかったのかも、と思って、もう一度「ありがとう」って言ったら、フェリクスは「――聞こえている。何度も言うな」って、言った。その低い声が私に向けられたのが、信じられないくらいに嬉しかった。
霧の中でフェリクスの影が微かに動いて、あ、って思う。行ってほしくなくて、咄嗟にいつもよりずっと大きな声で「行かないで!」って言ったら、フェリクスは僅かな沈黙の後、殊更大きなため息を吐いた。
「あ、あの……」
「…………」
ち、って聞き慣れた舌打ちの後、フェリクスの影が大きく動く。こちらを振り向いて、大股で私の傍に、彼は歩み寄る。立たなきゃ、と思っているのに、足に上手く力が入らない。――どうやらフェリクスに突き飛ばされた際、捻ってしまったらしい。じんじんとした痛みを足首に感じながら、それでも私は、思いきり息を吸った。
ごめんなさい、って言いたかった。
あの日グレンを喪って悲しかったのは、悔しかったのは、私よりもフェリクスだったはずなのに。なのに私はフェリクスに寄り添えなかった。自分の痛みにばかり敏感で、おじさまを殴るフェリクスを見たくなくて、フェリクスの叫びに耳を塞いだ。
鬱陶しいって言われて、当たり前だ。手紙を無視されて、避けられて当たり前だ。許されなくたって仕方なかった。
でも、私が「ごめんなさい」と言うよりも早く、フェリクスは私の前に膝をついたのだ。
ぬかるんだ地面は、フェリクスの制服を泥で汚した。霧の中、戦いの喧噪は私たちから少しずつ遠ざかっていたけれど、血の匂いはいつまでも残っていた。返り血を浴びていたフェリクスが、その手の血に気がついたのか、腰で拭う。フェリクスはそのまま、何も言わなかった。目線を落としたまま、じっとしていた。まるで何かを待っているように。だから私は、それでようやく、「ごめん」と言えたのだ。
私の口から漏れたそれに、フェリクスがその瞳を向ける。
「ごめん、なさい。フェリクス。四年前、私、フェリクスに、ひどいこと、言った」
「…………」
「フェリクスが、一番つらかったのに。う、受け入れられなかったと、思うのに、なのに私、全然、寄り添えなくて」
ひどいことを。
そう口にしたとき、フェリクスの手が私の頬に伸びた。
泥が、ついていたんだと思う。視界に何か茶色いものが映っていたし、そういう感触もあったから。フェリクスは指の腹でそれを、ぐって、ほとんど力任せに拭う。それが、どうしてこんなに、こんなにも私の胸を揺さぶるのか。分からなかった。フェリクスの目が私を見ているのが、信じられなかった。
「……フェリ」
「…………俺は」
水分のない、かさかさの声。
そうじゃなかったのはあの日だけ。
「――俺は、お前に怖い思いをさせたくなかっただけだ」
瞬間、どうして目の奥が熱くなったんだろう。
私は昔から、人一倍怖がりだった。お化けも怪我も人の死も、すべて等しく怖かった。それを一際鬱陶しがっていたのが、フェリクスだ。訓練で怪我を負う度に泣く私に、フェリクスは眉根を寄せた。ぼたぼたと包帯に落とされる涙を、酷く嫌っていた。
私は思い出す。あの日私が、おじさまを殴り飛ばしたフェリクスに向かって言った言葉。
「やめて、フェリクス、おじさまにひどいことしないで」。それから「こわい」。
あの日私は、フェリクスに、「怖い」って言ったのだ。
フェリクスは、私が泣くのを嫌がった。鬱陶しいって、いつも言っていた。「素直じゃないのね」。記憶の中の幼いイングリットが、肩を竦める。ついこの間、私に向かってそうしていたように。記憶が混じり合って、組み合わさって、それは私たちが生んだすれ違いを正していく。
「素直じゃないのね。心配させたくないって、言えば良いのに」
昔イングリットが言った、それが全ての答えだったのだとしたら、私たちはどうしてこんな回りくどいことをしていたのだろう。
目の縁に涙が浮かんでからは、あっという間だった。涙は後から後から溢れて、私の視界をみるみる汚していった。嗚咽が漏れそうになって俯きかけた私の目元を、けれどフェリクスは「……おい」って呟いて、乱暴に拭う。大きなため息を吐いて、面倒臭そうに舌打ちをして、それから「」って、私を呼んだ。酷く懐かしい響きだった。
「……だから、泣くな。鬱陶しい」
怖がらせたくなくて、心配させたくなくて距離を置いていたなんて、わかるわけがない。
泣きじゃくりながらそう言った私の頭に、フェリクスは撫でると叩くの中間くらいの力で触れた。
「大丈夫」と、かつて私の頭を撫でたグレンを思い出していた。フェリクスの手は、グレンのものよりも乱暴で、全然似てなかったけれど、その温度が私には、痛いくらい優しいものに思えていた。
「いやー、ビックリしたよな。まさかフェリクスがをおぶってくるなんて」
「この馬鹿が足を捻ったせいだ」
「どうせフェリクスがを助けるために突き飛ばしたんじゃないの?」
「え! すごい、なんでわかるの!?」
「はは。――まあ、二人とも、大事がなくてよかった」
な、。
霧の晴れたファーガスの西の地に光が射す。その眩しさに目を細めた瞬間、幼い私たちの幻が見えた気がして、フェリクスの背におぶられたまま、こっそり泣いた。