昨日までの平和な日常が瞬きのあとには終わっていて、噛み殺していた欠伸やいつもの談笑が悲鳴と嗚咽に変わってしまっていたなんて、まるで趣味の悪い小説とか映画でもみているみたいだった。
 ごうごうと燃えさかる私達の東京団地。車はひっくり返って、電柱は真っ二つに折れ曲がって建物の壁にめり込んでいる。公園の噴水は斜めに水をまき散らして、地面の血溜まりと混じっていた。確かめなくても事切れていると分かる誰かの死体。断末魔の悲鳴。命乞いする弱々しい声。それらの全てを振り払うようにして逃げている、「優しいちゃん」。
 なんでこんなことになっているんだろう。
 ずっと走っているせいで、頭とかお腹とか耳とか、いろんなところが痛かった。なんでこんなことに。なんでこんなことに? 私達はどこまでも平和で、痛みを取り除かれた不死の人間のような毎日を送っていたはずだった。庇の作る影を歩いていればそれでいいはずだった。時間の経過で自動的に明るさを変える、頭上を埋め尽くす天井パネルの下、事務局に管理された東京団地で、そうして私達は生きていた。なのに今、どこからともなく突然現れた、ちっとも可愛くないぬいぐるみのような化物達が、私達の日常を破壊している。
 子供も大人も関係なかった。大きさも形も色もそれぞれバラバラなぬいぐるみ達は、目についた人間を片っ端から追いかけて、中身のない麻袋にでもするみたいにずたずたに引き裂いたり、千切ったり、投げたり潰したりしていた。感情のないように見える「アレ」は、私達を殺すことだけをプログラミングされた機械人形みたいに、何の躊躇もなく人間を殺していた。
 夢みたいだった。ちょっと信じられないくらいグロテスクで凄惨で、トラウマ必至の、ひどい夢。目が覚めても間違いなく、三日は引き摺る。だって私、内臓とか血とか、苦手だから。白黒の漫画ですら、ぎゅっと目を閉じて避けてしまうくらいに。だけど、どうしたってこれは現実らしい。
 あちこちで悲鳴が聞こえる。子供が泣いている。誰かが助けを求めている。本当は助けてあげたいのに、足を止めたらあの良く分からない何かに捕まってしまうって知っているから、止められない。背後で、「ぎ」って、最期の声なのか、人体から発せられたものなのか判然としない音がした。やわらかい何かを踏んで潰してしまった。怖くて怖くてたまらなかった。早く逃げなくちゃ。警報が鳴ったときいつもそうしていたみたいにシェルターに飛び込まなくちゃ。それでお父さんとお母さんを探して、妹を抱きしめて、よかった、って言うんだ。皆だけでも無事で、よかった、って。そんなのもう奇跡でも起きなければ叶いはしないって、頭の片隅では思っていたのに。
 いつもの通学路は、もう見慣れた風景でもなんでもなかった。「アレ」に捕まって千切られた人間の四肢が転がって、痛みに呻く声で溢れていた。その時崩れた歩道橋の死角から現れた巨大なぬいぐるみが、私目掛けて腕を振り下ろす。悲鳴を飲み込みながらほとんど反射で身を縮めて、そのままその脇の下目掛けて駆け抜けた。多分、もう一回やってって言われてもできない動きだった。何かに引っかかったみたいで、制服の袖についていたボタンがぶつりと音を立てて転がった。そんな中でも、さっきあの子に握らされた「それ」は、手から放せなかったのだ。どうしてだろう。こんなの、さっさと捨てたかったのに。よくよく考えたら、あの子に出会ってから東京団地がおかしくなったって言っても不思議じゃないくらいだったのに。
 この間観た映画で、こんなシーンがあった。正体不明のエイリアンに街が襲われて、人々は逃げ惑って、瓦礫にまみれて、だけど最後にはヒーローが助けてくれる。ボロボロになった街は、ヒーローと共に復興を遂げる――遂げられるわけない。誰も助けてくれないんだから。
 平々凡々な暮らしだった。普通に家族がいて、普通に学校に行って、普通に友達がいて、彼氏は普通にいなくて、普通に勉強ができなくて、欠けたものの埋め合わせでもするみたいに人よりちょっとだけ運動ができた私の、穏やかな日常。あっという間に終わってしまった。こんなことになるんだったら、昨日のお母さんのご飯、残さなきゃよかった。来週でいいやって思ってないで、漫画の新刊、読んでおけばよかった。いっそテスト勉強なんかしなきゃよかった。友達とこの前できたドーナツ屋さんに行く約束だってしていたのに。妹に優しくすればよかった。色んな後悔が積み重なって、悔しくて、泣けてくる。
 嗚咽を漏らしても、涙を拭っても、どこに向かっても「アレ」はいた。死体は積み重なり、燃えさかる炎は全てを飲み込んだ。私はまだ走れたけれど、それは体力の問題で、精神の方はとっくに折れていた。恐怖は全身に行き渡って、もうほとんど絶望していた。だって私の住む家のあたり一帯が炎に包まれてごうごうと燃えさかっているのを、この目で見てしまったから。――お母さん。声が出ない。



「その刀で心臓をブスリ、だよ」



 もう頑張れないって思ったはずだったのに、その時不意に聞こえた場違いなほど明るいその声に、私はどうして縋りたくなったんだろう。
 なんでここに、よりも、先に浮かんだのは、助けて、って思いだった。
 ずっと人の悲鳴しか聞いていなかったせいだろうか。お隣さんちの犬くらいのサイズの奇妙な生き物は、地獄みたいな世界で、淡く光っているようにすら見えた。穏やかな微笑がこの世界でたったひとつ残された、救いのように見えた。さっきここから遠く離れた場所でこの子から手渡された刀は、私の体温でぬるく、ぬめっているような感触を私に与えていたのに。



「初めてだから怖いと思うけど、さんなら大丈夫。本官が保証するよ。さっきも話したけど、さんは選ばれたんだから」



 赤いベレー帽に、ネクタイ。ふっくらとした唇は可愛らしい声で私の名前を呼んだ。こんな状況じゃなかったら、新手の詐欺とか、そういうのだと思っただろう。謎の生き物は、薄ら透けて見える脳味噌を緩く傾けて、「ちゅふふ」と笑う。



「大丈夫。その刀を心臓に突き刺して。そうしたらキミは、あの化物とだって戦える。大事な人たちを、自分の力で守れるよ」



 ――安全レベルが避難態勢に変わったっていう、いつもの警報より切羽詰まった音声が街中の拡声器から響き渡る前だった。この謎の生き物が、下校途中の私の前に現れたのは。
 一見愛らしい見た目をしているのにデフォルメされた脳と心臓が透けているのがアンバランスで、奇妙だった。「おめでとう! キミは選ばれました!」って言う言葉も、「えーと、とりあえずこの刀で心臓を一突きしてみてくれる?」って言葉も意味が分からなくて、だけど赤黒い刀身に彫られた「」っていう私の名前にびっくりして、受け取るだけ受け取って、走って逃げてしまったのだ。街中に警報が鳴り響いて人を襲うぬいぐるみが現れたのは、その直後だった。走って逃げながら、私はずっと、この白い生き物がくれた「刀」を握りしめたままでいた。今も。
 彼女の小さな身体の奥で、ぬいぐるみに捕まった男性の身体が引き裂かれる。崩れた瓦礫に飛び散った赤黒い血と共に「中身」も落ちたように見えて、堪えられなくて、目を逸らした。気絶できたら楽なのに、できないのだ、嫌になる。なんでこんなに怖いのに、気持ち悪いのに、意識ははっきりしているんだろう。いっそ死にたかった。でも、死ぬならとびきり楽に死にたい。あんな訳の分からない連中に身体を千切られるんじゃなくて。じわじわ嬲り殺されるんじゃなくて。だったらもう――。
 手汗でじとりと湿った刀に目をやった。心臓に、これを突き刺してって、あの子は言った。突き刺す? そんなことしたら、死んじゃう。死にたいって思った数秒後に「死にたくない」って思う自分が、バカみたいで、切羽詰まってるんだって思って、ちょっと泣けた。



「…………ほんとに、戦える?」



 信じてなんかいない。
 私はあの映画のヒーローになれるなんて思わない。たとえこの刀であの化物に立ち向かっても、刃は通らない。自害するための、私の名前が彫られた刀。それをこの子は私にくれたんだと思った。優しい嘘と共に。



「本官を信じて」



 でも、なんでそんな真っ直ぐな声と目で、そんなことを言ってくれたんだろう。
 煙と炎に痛む目を細めながら、私は息を止めて、唇を引き結んで、その刀を自分自身に振り上げる。十七年。まだ生きられると思っていた。恋をして、彼氏を作って、働いて、いつか結婚して子供を産んで、この東京団地で生きていくって。お父さんやお母さんたちが連綿とそんな人生を続けていたように、まっとうに。
 でも、見立てが甘かったみたいだ。美しい日常はある日、こんな風に呆気なく壊れてしまうんだ。どこにも罅なんか入っていなくても。そんなの知らないままでいたかった。いつまでも平和に、平凡に、与えてもらった、溶けるように倦んだ日々を送っていたかった。
 ベレー帽のあの子の後ろに、クマのような形をしたぬいぐるみが近づいている。躊躇がなかったとは、死んでも言えない。手汗は酷かったし、立っていられるのが信じられないくらいに身体中が震えていた。でも、あんな風に生きたまま千切られて、引き裂かれて、自分の内臓を見ながら死ぬなんて、堪えられるわけなかった。死ぬしか無かったのだ。自分の手で。わけのわからないこの子がくれた、この刀で。
 握りしめた刀を自分の心臓めがけて振り下ろす私はその姿を視界の端で見つめながら、「家族」のことを思い出している。


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