「口にするなんてきいてない」
式を終えて二人きりになった途端、は口元を両手で押さえてそう言った。潤んだ瞳は明らかに僕を訴えているが、ここで不満をぶつけられても困る。君は子供か。
グロスタールの屋敷の一室、支度のための部屋は今は僕達の他には無人だが、この後は参列者や領民も交えて広間で食事会が行われることになっていた。部屋の外を忙しなく行き交う従者や侍女の足音を聞きながら、僕はを見下ろす。
グロスタールの花嫁が身につける伝統ある衣装に身を包んだは、先程までは教会を包む厳粛な空気に著しく萎縮してしまっていたというのに、既にほとんど気を抜いてしまっていると言って良い。式のさなか、大勢の参列者に驚いたのか、所在なさげに僕の腕を掴んでいたはそれはそれでいじらしく可愛かったが、こうやって感情を露わにする彼女を見ていると、呆れてしまう。それと同じくらい、ほっとしてしまうわけだが。
しかし、口づけを頬にするとでも思ったのだろうか。結婚式で永遠の愛を誓うのに、頬とは。
玻璃硝子から漏れる光の中、顎を持ち上げて顔を寄せたときの、のはっとした顔を思い出す。その目が僕に何かを訴えようとしていたことを、僕は気がついていたのに知らないふりをした。初めて君に口づけをするのは、この教会と決めていたから。
グロスタールの嫡子として産まれた僕は、子供のときからそれを夢見ていた。僕の花嫁になる女性と、僕にとっては馴染みの深いグロスタールの教会でこうして向かい合うことを。それが、雨の中一緒に駆けだしたあの女の子だとは、想像もしていなかったけれど。
ぎゅうと目を閉じたは、口づけの寸前まで震えていた。愛おしかった。君に会えて良かった。死なずに良かった。そういうことを考えながら重ねた唇はやわく、あたたかかった。
そっと顔を離したときの、あのぼうっとした目。祝福の歓声と拍手が鳴り響く中、もう一度口づけたいのを堪えて髪を撫でた。
眉根を寄せて彼女に「何だ、嫌だったのか?」と尋ねれば、は答えに窮したかのように呻く。
「嫌、じゃないもん、でも、びっくりしたから」
そもそも誓いのための口づけをすることすらも直前まで忘れていたのだと彼女はぼそぼそと呟くから、僕は声をあげて笑ってしまった。いくら何でもそれは緊張の度が過ぎていたのではないか、と。口元を押さえて縮こまる彼女のその左手には、指輪が光っている。以前あげたものではない、結婚指輪だ。同じものが僕の指にもあって、僕はそれに今、酷く満たされた気持ちになっている。
開け放たれた窓から穏やかな風が吹いて、窓掛けが揺れる。窓の外から漏れ聞こえる人々の明るい笑い声を聞きながら、僕はの頭をそっと撫でた。の大きな瞳がじっと僕を見る。そんな顔をされてしまうとたまらなくなって、僕はついその顎に手を添えてしまう。
親指の腹でその下唇に触れたとき、が躊躇ったように目線を動かして、それから、そっと目を閉じたから、心臓が跳ねた。ああ、そうか、良いのか今度は。心の準備をしたということなのだろうか。顔をそうっと近づける。睫毛が長いのだなと、今更気がつく。ヒルダさんにしてもらったという化粧はよく似合っていて、けれどこの頬が色づいている理由は、それだけじゃないはずだ。
口づけるその寸前、の顔に僕の影が落ちたときだった、部屋の扉を叩かれたのは。
「失礼してもよろしいでしょうか?」
侍女の声にが勢いよく僕から距離を取る。そのため僕の鳩尾に肘が入って「ぐっ」と低い悲鳴が漏れた。
「はい、どうぞ!」
そのまま扉を開けに向かったは、しかし直後「わあ」と明るい声音で歓声をあげたから、僕もそちらに視線をやった。
侍女が持ってきたのは、花束だった。それも両手で抱えるのがやっとの大きさの。
「すごい、きれい〜!」
「先程届いたのですよ。この部屋に飾ってもよろしいですか?」
「ぜひ! わあ、見たことのないお花ばかり!」
丁寧に花瓶に生けていく侍女は、の言葉に「そうですね。私も見たことがありません」と柔らかく答える。あまり大ぶりな花はない。不思議な色合いをしていて、花弁は一つ一つが小さいが瑞々しく、茎が太かった。確かに名前の知らない花だ。不思議に思って尋ねる。
「……一体誰からだ?」
「それが、差出人のお名前がなくて。これだけ立派な花束を贈られるのですから、よほどの名家の方かとは思うのですが……」
「あっ、分かった、先生じゃない? ベレト先生! 来られなかったんだもんね」
思いついたとばかりに破顔して僕を見つめるに、曖昧に頷く。
確かにベレト先生ならば、僕達の式のためにこれを準備することは易いだろう。士官学校には温室もあったし、花はいくらでもある。
だが、ハンネマン先生に言伝を頼み、祝電だけでなく花束まで送るだろうか、あの人が。いまいちぴんとこないが、フレンさんあたりの助言でも受けたのかもしれない。ただ、ガルグ=マクにこんな花は咲いていなかったような気がする。無論、僕の知らない間に新たに作られた品種であるという可能性も否めないけれど。
「先生も優しいねえ、ローレンツくん。あとでお礼のお手紙を書かなくちゃね」
「先生ではなく、大司教だよ、」
「ああ、そうか、先生はもう大司教様か。なんだか不思議だね」
侍女の手によって見事に生けられていく花を、はうっとりと眺めている。僕はその姿と、馴染みのない花を交互に眺めた。
そうしながら、脳裏を掠めるある男の存在がある。
まさかな、と思う。そもそもどうやって今日が結婚式だと知るのか。あの男が。
だが、彼ならばそれを知っていても不思議ではない。本当に、最初から最後まで掴めない男だったから。小さく笑って目を伏せる。
「きれい」
そう言っていつまでも花を愛でる、妻となった女性の横顔を、僕はただただ、眺めている。
「今日は天気がいいねえ」
乾燥し、罅割れた地面に胡座をかいて座る彼は一人、鷹の飛ぶ空を見上げてそう言った。
「……フォドラも晴れているといいな」
翡翠の色をしたその瞳は、何年も前から、彼の望んだ未来だけを見つめている。