1181年 春
ガルグ=マクが帝国軍の手により陥落して、既に一節が経過していた。
レア様は混乱のさなかそのお姿を消し、未だ発見に至っていないという。残されたセイロス聖教会の人々は大司教の捜索にあたるためにフォドラ中に離散した。と言っても、彼らの捜索範囲はほとんどがフォドラの北側であるだろう。帝国は今やセイロス教の信仰を禁じていたため、彼らが自由に国境を越えることは難しくなっていた。
あの日戦場となったガルグ=マクには、今は誰も居ない。帝国の統治下に置かれてはいるがほとんど放棄されていると言っても良い状況だ。戦禍の跡は生々しく、建物の多くは崩落して廃墟同然だと聞く。
帝国にとって重要だったのは、ガルグ=マクそのものではなく、セイロス聖教会を打ち倒し、フォドラに根付いた絶大なる地位を根本から覆すことだったのだろう。
アドラステア帝国はこの一節の間に、帝都アンヴァルにおいて新体制の強化に努めた。皇帝となったエーデルガルトさんは、宮内卿としてベストラ家のヒューベルトさんをその補佐に置くと、腐敗貴族の粛正に着手する。軍務卿、内務卿をそれぞれ世襲していたベルグリーズ家とヘヴリング家は両家ともそれを免れ、一方で一度は更迭されていた外務卿ゲルズ伯は新皇帝への忠誠を誓ったことでその権力を取り戻している。
アドラークラッセの生徒は、全員が帝国へ戻ったのだろうか。亡命したという話は聞かないから、恐らくはそうなのだろう。もともとしがらみのないドロテアさんは除いておくにしろ、帝国貴族として産まれたからには、成さねばならぬことがあるのだから。
アドラステア帝国がファーガス神聖王国とレスター諸侯同盟への侵攻を正式に宣言したのは、大樹の節に入ってすぐのことだった。
帝国との国境に近接するグロスタールを始めとした諸侯に、アドラステア帝国皇帝の署名が成された降伏勧告文が届くのは、それから少し後のことである。
「降伏勧告?」
思いがけないお兄様の言葉に、上擦ったような声が出てしまった。お兄様は苦々しく頷く。
お父様がかつて座っていた執務室の椅子は、葬儀の直後はお兄様にはまだ仰々しすぎるように思えたけれど、今はもうすっかり馴染んでおられる。折角領主としての仕事に慣れてきたばかりだったのに、あっという間に世界情勢が変わってしまったのだから、その苦難は推して知るべしだ。
ガルグ=マクから退避した私たちヒルシュクラッセの面々が自分の領地へと戻ったのは、今から一節と少し前のことだ。帝国兵の目を掻い潜っての逃亡はほとんど命からがらと言っても良かっただろう。レオニーちゃんが良い抜け道を知っていてくれたから、どうにか逃げ切れたようなものだった。
セイロス聖教会が倒れたことにより、いずれ帝国の侵攻はこの同盟領にまで及ぶだろうということは誰しもが理解していたことだった。だけど、だからといってそれに抗う有効な手段がすぐに出てくるわけでもない。
「帝国の出方を窺わないことにはな」
あの日、思案気に呟いたクロードくんの言葉を、今でも覚えている。
ガルグ=マクがあんなことになってしまった今、ヒルシュクラッセの級長と言う肩書きを失った彼のことは、同盟の次期盟主と呼んでも差し支えないだろう。最近体調が優れないらしいリーガン公を、彼はこの混乱の中でもきっと支えてくれる。例えこの地に戦火が広がったとしても、これまで私たちにそうしてくれていたように、レスター諸侯同盟を守ってくれると、私は信じている。
それでもあの孤月の節、ガルグ=マクを攻囲した帝国軍の作り上げた、絶望をもたらすに余りあるあの光景は、未だに目に焼き付いていた。想像以上の軍勢だった。同盟の全戦力を集結させたところで敵わないのではないかと思えるほどの。数万の兵に、圧倒的な力を持った魔獣を携えて、彼らは呆気なくガルグ=マクを落としてしまった。
エーデルガルトさんたちが囮だったなんて私は思いつきもしていなかったから、それまでの戦いがまるで児戯だったのではないかと思えるほどの攻勢に、抱いていた勝利への希望は呆気なく打ち砕かれてしまったのだった。
あの戦いの結果、レア様とベレト先生は姿を消した。その足取りは、二節近くが経とうとしている今も明らかになっていない。そんな中での帝国からの降伏勧告は、予想しようと思えばできた事態だったのかもしれない。それでも私は動揺を隠せなかった。宣戦を受けてはいたものの、こんなに早くアレキサンドルにまで帝国の手が伸びてくるとは思っていなかったのだ。
「降伏……勧告、ですか。……それは……」
「そのままの意味だよ。帝国に屈し、フォドラ統一のため協力せよ、と」
「そ、それで、どうなさるのですか」
「どうするって」
机の上に置かれたその書簡を、お兄様はじっと見つめている。
アドラステア帝国の印が押されたそれは、正真正銘新皇帝であるエーデルガルトさんの名で届けられたものだ。神経質なその文字は、もしかしたら暗殺されたという父君に代わって宮内卿に就いたという、ヒューベルトさんのものであるかもしれないけれど。
エーデルガルトさんとは、学生時代まともに話したことはない。彼女の傍にいつもどこか静かな殺気を放ったヒューベルトさんが控えていたせいもあるけれど、そうでなくても私は彼女に話しかけるなんて恐れ多くて、とてもじゃないけれど出来なかった。何の逡巡もなく軽口を叩けるクロードくんに尊敬の念を抱きすらした。いつも凛として美しかったあの人は、まさに皇帝としての品格を兼ね備えていたから。
そんな彼女が宣戦をして、今フォドラは混迷の時期に入っている。ファーガス神聖王国、そしてレスター諸侯同盟に対してその勢力を広げ、武力による統治を目論んでいるのだ。
お兄様は目線を落とされたまま、低く呟く。
「すぐに返事はできない」
「…………そう、そうですよね。せめてリーガン家にお伺いを立てるべきです」
私の言葉に、しかしお兄様は頷くことも、首を振ることもしなかった。沈痛な面持ちは事の深刻さを如実に訴える。
リーガン家は、既に帝国からの宣戦を受けて抗戦を主張していた。曖昧な立場を貫いているのはグロスタールより南の領地だ。帝国との位置関係を考えれば、その理由は自ずと知れたものだろう。
リーガンの意見を仰いだとして、恐らくリーガン公の答えは決まっている。だけどもしリーガンに従って勧告を拒絶すれば、アレキサンドルはどうなるか。想像できなくて、縋るようにお兄様を見つめた。
「……兵糧のあるアレキサンドルを真っ先に押さえようという時点で、新皇帝は切れ者だな」
やがて吐き出されたその言葉に、私は返事ができない。
アレキサンドルは、フォドラ一の穀倉地帯を有するベルグリーズに比べれば領土自体は細やかなものだけれど、肥沃な土地が幸いしてその大部分で農作物を作っている。同盟領内の食糧事情はアレキサンドルにより左右されると言っても過言ではなかった。だからこそ私は屋敷の外で収穫を迎えようとしている作物たちを「兵糧」と表現されて、言葉を失ってしまう。戦時下にあれば、あの作物たちはそう名前を変えてしまうのだと、そんなことにすら傷ついている。
だけどお兄様は、私の表情の変化には気づかない。
「恐らくこの勧告自体は他の家にも届いていると思う。……フレゲトン、コーデリア、それからグロスタールも」
「……」
「グロスタールがどう出るかが読めないが、いずれにせよ俺としては……」
お兄様は、言いかけたその言葉を不意に飲み込む。
「いや、なんでもない」
アレキサンドルは大勢につく。かつてローレンツくんに面と向かって言われた言葉を思い出す。その通りの動きをするならば、アレキサンドルはこの後帝国へと下ることになるのかもしれない。今のフォドラの大勢は、間違いなくリーガンではなくアドラステア帝国なのだから。実際、帝国への従属を誓えば、何の犠牲もないままにいられるのは事実だろう。もしも士官学校でクロードくんやヒルダちゃんたちと出会っていなければ、私自身、それもやむなしと抵抗なく受け入れた可能性もあるけれど。
お兄様の領主としての重圧を思いながら、それでも私は帝国に頭を垂れたくないな、と考える。クロードくんたちはきっと帝国と戦うはずだ。ならば私も、傷つくことになっても彼らと共にありたい。考え込むように組んだ指の上に額を乗せたお兄様を視界の端に入れたまま、窓の外を見上げる。
暦の上ではもうすぐ春が終わるのに、今年はどうにも、暖かくならない。