フォドラの各地で冬支度が始まる赤狼の節の風は、少し冷たい。
 ゴネリルまでは馬車を使った。事情を知った先生――今はもう、大司教だ――が、わざわざ準備してくれた。その気遣いを、ボクは有り難いと思った。勿論、飛竜よりはずっと時間がかかったけれど、馬車に揺られている間、ボクは久しぶりにぐっすり眠れた。夢の一つも見なかった。
 馬車を領都の入り口で停めてもらった後、賑やかな街中を進む。噴水周りは以前よりも多くの人々で溢れていた。駆け回る子供たちの表情は明るく、多くの商人が行き交う通りは活気があった。
 教会に挨拶に行けば、あの日ボクを屋敷に連れて行ってくれた司祭が亡くなったことを聞かされた。病気だったと言う。お墓はゴネリルではなく、生まれ故郷のコーデリアにあるらしい。聖堂でお祈りだけをさせてもらって、教会を出た。ぼんやりとした光が、ボクの足元に伸びていた。手作りの花壇は、きちんと手入れされていて、前に見たときよりも生き生きとしているように見えた。少しずつ、いろんなものが変わっていた。
 ゴネリルの屋敷に続く長い道を歩いていると、ちらちらと無遠慮な視線を向けられる。だけど、それが一体なんだって言うんだろう。ボクは、最近はもうそういうのにすっかり慣れきっていた。悪い意味ではない。ボクは、自分の価値が肌の色や、言語によって決まるものではないことを、既に知っていた。ボクの本質を見極めてくれる人が、少なくともこのフォドラには何人かはいて、ボクは、それで充分だと思っていた。
 そうして歩みを進めていくと、記憶の中のものと変化のない屋敷の前で、恐らくボクを待っているのだろうとヒルダの姿を見つけた。
 二人はまだ雑踏の中にいるボクに気がついていないらしく、何か顔を見合わせ、喋っている。ヒルダの表情は穏やかなものだったけれど、対するは神妙な面持ちで、甘えるような仕草でヒルダにぴったりくっついた。ボクの目に映る二人は、雇い主と使用人という関係では、全然なかった。お互いにそうすることが自然であるとでも言うような温度と距離感で、そこにいた。
 は使用人の着る服ではなく、丸い襟のついた、腰のあたりで切り替えのある女性らしい服を着ていて、その足元には大きな荷物があった。それは恐らく、彼女がゴネリルで作った財産と言い換えて良かったと思う。そういうのに気がついたとき、ボクは今更なんだけど、ほっとした。がこの五年間をゴネリルで過ごしたのは、正しいことだったんだと思えて。
 いや、正直言うと、それだけじゃない。ボクは彼女がただそこにいてくれたっていう事実に、はっきりと安堵していたのだ。
 最後にに会ったのは、一年前。その一年の間、ボクからは一度だけ近況を報せる手紙を送った。「先生が見つかりました。今後は王国軍と行動を共にすることになります」くらいの、簡素なものだ。
 この半年、フォドラの情勢の変化が物語るように、その渦中にいたボクたちは酷くめまぐるしい日々を送っていた。帝国領に攻め入るためにグロスタールを通過してミルディン大橋へ向かい、グロンダーズ平原で三つ巴の戦を混乱の末に制した。そうかと思えば王都フェルディアへ進軍しファーガス公国を自称していた親帝国派の軍を倒し、その間に帝国軍に攻め込まれてしまった同盟軍を救出するために次はリーガン領のデアドラへ――勿論、帝国との戦いを終わらせたわけだから、ボクたちはフォドラの南にあるアンヴァルにも出向いていた。今振り返れば、休む間もなく戦っていたように思う。
 戦いが終わったのは今から二節前の、翠雨の節。
 帝都アンヴァルは陥落し、アドラステア帝国は滅亡した。フォドラはファーガス神聖王国によって統一され、セイロス聖教会はレアさまの引退に伴い、新しい大司教を生んでいる。運営組織は再編されて、戦争中手が回らなかったガルグ=マクの復興が始まり、ボクもやることが山積みだった。



「さっさと迎えに行ってやればいいものを」



 ボクに素気なく言うのはシャミアさんで、けれどボクは、に手紙の一通を送るのが精一杯だった。「迎えに行きます」って、日付と時間を記しただけの、実に飾り気のないものだ。



「急に迎えに行ったって、も迷惑じゃないですか。彼女の仕事だって、急に辞められるものでもないんだから」



 本心の上に布を一枚被せたボクの返答に、シャミアさんは「そうか。それもそうだな」と言ったきり、何も言わなかった。
 ボクは、実を言うと少しそわそわしていた。だって、ボクは彼女を一年放っておいてしまったのだ。幸いにもゴネリルが戦場になることはなかったし、パルミラ軍に首飾りが突破されたという話も聞かなかったから、彼女は元気でやっているんだろう。だけど、ボクを待っていてくれているかっていうと、どうなのかは分からない。シルヴァンが「女心は変わりやすいからなあ」って意地悪を言ってこなければ、ボクもこんなには不安にならなかっただろうに。
 から返事が来なかったっていうのも、気がかりだった。ただボクも、今自分がガルグ=マクにいることをはっきりと書かなかったから、彼女自身、返事をするにもできなかったのかもしれない。ボクは、やっぱり手紙はそんなに得意じゃないのだ。本心を書こうにも、ちっとも筆が進まないから。
 だから、約束の日に、彼女がボクを待っていてくれたっていう事実が、ボクは何よりも嬉しい。
 ボクの視線の先で、は、くすぐったそうに笑っている。








「馬車ッ!」

「馬車だよ」



 ヒルダとお別れをして、街の入り口に待たせておいた馬車へとを案内したら、は目を丸くして驚いていた。
 初めてじゃないだろう。ガルグ=マクからグロスタールへ向かうのに、彼女は馬車を利用していたし。……まあ、あの時はガルグ=マクから逃げようと色んな人が乗っていたから、「えっ……貸切……?」とボクの顔をまじまじと見る彼女の気持ちも分からないでもないんだけど。
 持ってあげていた荷物を先に馬車の中に押し込んで、に目だけで「乗って」って言う。でも、はわざわざ御者の人にきちんと頭を下げて「よろしくお願いします」と言っていた。「昔タクシーに乗るとき、お父さんがきちんと運転手さんに挨拶をしてたの」らしい。タクシーってなんだろう、って思ったけれど、そういう疑問を解消する時間は、今のボクたちには有り余るほどあった。ボクは、だから、「そうなんだ」って言った。が別の話をしたそうにしていたのを、ボクは察していた。
 馬車に乗り込むと、鞄の隣に、はそっと腰を下ろす。その向かい側に座ったボクと目が合うと、はちょっと照れくさそうに笑ってみせた。の髪は前に会ったときよりもまた少し伸びて、それが彼女の雰囲気を大人びたものにさせている。「ええと」と、小さく咳払いをしたは、姿勢を正した。
 


「これは……ガルグ=マク行きでしょうか」

「うん、そうだけど」

「なるほど。ええと、それで……わッ」



 馬車が動き出した衝撃で、の身体が揺れて、思わず支えた。丁度、石でも踏んでしまったみたいだ。外から御者の「すみませーん」という、その場にそぐわない鷹揚な声が聞こえて、は目を丸くしながら「い、いえ」と返事をしていたけれど、多分、彼には聞こえていなかったと思う。のそれは、ボクに届くか届かないかくらいの細やかな声音だったから。
 ボクが咄嗟に触れてしまったの腕は細くて、でも、柔らかかった。が背もたれ側に身体を起こしたのを受けて、反射的にそっと手を放したとき、の顔はびっくりするくらい真っ赤で、ボクは、ちょっと困ってしまう。
 街の喧騒が徐々に離れていけば、車輪の回る音と、時折響く馬の嘶きだけがボクたちの周囲に落ちていた。その沈黙に耐えかねて、「それで、なに?」って尋ねたのはボクだ。は視線をあちこちに彷徨わせて、それからボクを見る。口を開いたり閉じたり、迷うように目を伏せたりして、だけど最後には、観念したように「あの」と言った。



「ええと、その……わ、私はこれから、どうなるんでしょうか……」



 どうなる。
 彼女の顔を見たまま、小さく首を傾げる。



「あ、えっと、なんだろ、仕事はするよ。お掃除とかお洗濯とか、もうすっかり得意だし。従士に戻れっていうなら、全然。でも、そうじゃなくて、その、あの、どういう、あれなのかなって」

「あれ?」

「ええと……なんて言えば良いのかな、その……」



 指示語が多く、どうにも要領を得ないの言葉に、どんどん眉が寄っていくのを感じる。「言いたいことがあったらはっきり言って」って、思わず言ってしまった。だってこれからずっと一緒にいる、っていうのに、こんなんじゃ先行きが不安すぎて。
 でも、はボクの顔に大きく目を見開いた。その頬はみるみる赤くなって、目には薄ら涙が浮かんでいる。なんでこんな顔をされてしまうのか、ボクはこのときはまだ、全然見当も付いていなかったんだけど。「じゃ、じゃあ言わせて頂きますけど」とが背筋を伸ばして、次の言葉をぶつけられたその瞬間、ようやく理解したのだ。



「私って、ツィリルくんのなんだと思えば良いの?」



 この子には、なんにも伝わっていなかったんだ、って。
 ボクはその事実の前に、思わず目と口とを中途半端に開けてしまう。
 言われてみれば、ボクは直接に自分の気持ちを伝えていない。手紙でも、言葉でも。だけど、普通に考えて、わからないものなのだろうか? だって、あの日、「迎えに来る」と約束をしたのだ、ボクは。それに頷かれた時点で、ボクはすっかり彼女の恋人のつもりになっていた。一年の空白は、ボクに多少の不安を与えたけれど、実際こうして彼女と馬車に乗っている時点で、そんなものは解消されている。



「…………ツィリルくん?」



 俯くボクに、は少し心配そうに声をかけた。はあ、とため息が漏れてしまったのは、もう仕方ないだろう。「あのね、」とボクは呟く。がぎゅ、その手を結んだのが、視界の端で見えた。



「…………あとで話すつもりだったんだけど、実はボク、大司教に、来年から再開する士官学校の生徒にならないかって言われてるんだ」

「えっ、士官学校再開するの? えっ、えっ、ていうか、生徒? ツィリルくんが?」

「そう、改めて、きちんと学んでみないか、って」



 そっと目線をあげれば、はちょっと考えてから、恐る恐るといった風に指を何本か出して、こっちに向ける。その本数にボクは覚えがあった。なんか、一本増えてる気がするけど。でも要するに、入学金の話だろう。「大司教の推薦だから、いらないみたい」って言えば、はひゃあともわあともつかない悲鳴をあげた。多分、話が逸れていることを、彼女は分かっていない。



「すごい! ええ〜! よかったねえ!」

「うん。ボクも興味はあったし、勉強させてもらえるのは、ありがたい」

「すごーい! じゃあ、制服とかも着ちゃうんだ! いいなぁ、鷲獅子戦? とかもあったよね。あと、あと」

「舞踏会」

「あっ」



 言われての顔から表情がさっと消える。「舞踏会……」と神妙な面持ちで呟くは、徐々にその眉を八の字にした。本当に、感情が顔に出る子だと思う。手紙も嫌いではなかったけれど、やっぱり、面と向かって話す方が伝わってきて、ボクは好きだ。



「えー、じゃあ、ツィリルくん、女の子と踊るのか……」



 実現したとしても、一年後の未来の話だ。なのに口を尖らせて真剣に心配する彼女に、ボクはとうとう笑ってしまった。「笑い事じゃないよ」っては言うけれど、ボクはそういうを、可愛いと思う。素直に。そういう褒め言葉を、するりと口に出せる人間だったら、彼女もここまで不安にはならなかったんだろうな。



「踊らない」



 短く口にした言葉に、はそっと目を上げた。



「踊らないよ。好きな子としか、踊りたくないんだ」



 の目を縁取る睫毛が、ゆっくりと瞬く。陽の光の下だと、微かに茶色がかって見えるの目は、いつもボクを真っ直ぐ見つめてくれていた。
 膝の上に置かれていたの両手に触れる。指の先にそっと力を加えたら、びくりと痙攣するように震えた。「一年後の話になっちゃうけど」声が、掠れる。車輪の音に潰される。それでもは息を潜めて、じっとボクの言葉を待っている。



「ボクと一緒に踊ってくれますか」



 いつの間に森林地帯に入ったのか。の顔に、外の木々が作る木漏れ日の影が出来た。それはなんだか、高貴な人が着る、透かしの入った薄い布地の模様みたいだった。
 が目を細めたのは、光が目に入って眩しかったからなのかもしれない。それとも、ボクの言葉が、彼女が投げて寄越した質問の答えであることに、ようやく気がついたせいかもしれない。だけどは、たっぷりの時間を空けて、泣き出す寸前みたいな声で、「わたし、士官学校の入学金、払えないよ」と言った。生徒になれなんて、誰も言ってないじゃない。「あの場所でいいよ」って口にしたボクに、彼女はぐす、と鼻を啜る。あの場所がいい。あの日、行き場のなかったボクたちを受け入れてくれた壁の外。



「ステップだって、変だし」

「なんでもいい。アナタの変な踊り、ボクは好きだから」

「あれは、体育でやった創作ダンスだもん、も、もう、忘れちゃったし」

「好きに踊っていいよ。どんな動きでも、合わせられる」



 瞬間、の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。ボクの手なんか解いて、拭えば良いのに、はぼろぼろと泣いた。際限なく。それでもずっと、ボクに手を握られたままいた。まるでそれが唯一の正解であるとでも言うかのように。
 あの夜、夜風に吹かれながら、ボクたちは厚い壁の奥から響く音楽を、二人きりで聴いていた。窓から漏れる灯りはボクたちに届かず、世界から二人だけ、取りこぼされたようだった。星空の下、アナタはまるで自分の役割を忠実に果たす脇役で、だけど、ボクはそんなアナタが好きだった。アナタに恋をしたのは、あの夜があったからだ、間違いなく。



「ボクはが好きなんだ」



 そう続けたら、の喉が、ひ、と震えた。
 ボクの手の中で、の柔らかな手が丸くなる。ボクはその温度を、いつまでも自分の手の中においている。


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