夕暮れの中の、まだ和らぐ気配のない日差しと蝉時雨の中に、その人は立っていた。
彼の手にした緑色のホースからは止めどなく水が溢れていた。満遍なく、一カ所に水圧がかかることのないように、彼は器用にホースの先を指で潰して、水をばらまく。疲労のせいか、感情の読み取りにくい目が、濡れた土を見ていた。私の記憶に、どうにかかろうじてひっかかって横たわるその人が、普段は決してしないような双眸だった。
静かな怒りを湛えた目。
ユニフォームのハーフパンツから出たふくらはぎ、汚れたスパイクと、湿った土の芳香。額から流れる汗、瞬間に吹き抜けた、身体の熱を冷ますには温すぎる風。項垂れるように俯いたとき、その顎から一筋の汗が落ちた。そういうのを私は、今でも時折、鮮明に思い出す。授業中、黒板に書かれた短歌を書き写すときとか、視界の隅に、真剣に授業に聞き入る彼の首筋が入ったとき、誰かが彼の名前を呼んだとき、水やり前の花壇を前にするとき、窓から吹き抜ける風が頬に触れたとき。
あのときの彼の横顔を忘れることなどあるものか。
初めて人を好きになった。
私はそのとき、十四才だった。
「おーい潔、飯食ったら部室集合だって!」
「え、マジで? 多田ちゃん、もう行く? 今食っちゃうから、ちょっと待ってて」
「おー、待つ待つー」
あの日この手が届きそうもないくらいに遠くにいたように思えた中学二年生の潔くんは、三年が経った今、どういう因果か、同じ教室にいる。
いや、因果も何も、普通に偶々(誓って偶々)お互い一難高校に合格して、二年生で同じクラスに割り振られた、っていうだけの話だ。私たちを囲む線が「同じ中学出身」から「同じクラス」に変わっただけで、私たちの関係性に変わりはない。残念ながら。
四月。同じクラスになったばかりとは言え、名前と顔くらいは覚えてもらっていると思いたいけれど。
「そんな急がなくていいってー」
私の背後に程近い教室の後ろのドアから窓際の方にいる潔くんにそう声をかけるのは、隣のクラスのサッカー部の男の子だ。名前は、多田ちゃん……くん。潔くんの部活仲間で、クラスは違えど、潔くんとは一年生の頃から仲が良い。それ以上のことは良く知らないけど、きっと良い人だと思う。
潔くんは待たせてはいけないと思っているのか、わーってお弁当をかっこんだ。たまごやき、ブロッコリー、ウインナーとハンバーグ。大きなお弁当箱には、いつも可愛らしい、カラフルなおかずがいっぱい詰まっている。潔くんのお母さんは、中学の文化祭で見かけたことがあるけれど、おっとりして優しそうな可愛い人だったから、あの愛らしさ全開のお弁当も頷ける。
「ごちそうさまでした!」
パン、って両手を合わせた潔くんは、一緒にご飯を食べていた子らに「じゃ、俺、部室行ってくるわ」って声をかけて、立ち上がった。潔くんと良く一緒にいる男の子たちが、「おお」「がんばれー」って緩く手を振る。そういう一部始終を、私は教室の端っこで友達と机をくっつけてご飯を食べながら、視界の端で捉えている。
ちか、って視界が一瞬瞬いて見えたのは、潔くんが立ち上がったことで、窓からの光に何かが反射したせいなのかもしれない。まだ半分は残っているお弁当をちびちびと食べながら、私は、わ、と思った。潔くんが教室を出るのは、多田くんのいる後ろの扉からだろう。そうなると、私の座っている席の真横を通り抜けるのは間違いない。
間断なく動かし続けていた箸を、そっと止める。こっそり座り直して、姿勢を正す。「昨日そういえばバレー部の先輩からきいたんだけどさあ」って友達が話す方向に身体を向けて、他の皆と一緒にうん、うん、って相槌を打つ。大丈夫、変じゃない。今の私はとても自然。潔くんの視界に入っても、私はこの教室の女子グループBにいる一般生徒Dだろう。
だから、大丈夫。
「あ」
だけど、小走りには至らないくらいの速さで歩いていた潔くんが私の横を通り過ぎるかどうかの瞬間だった。
私の耳は潔くんの、言葉と呼ぶには短すぎる声を捉えていた。普段、これくらいの至近距離の場合、私は潔くんを見ないようにしていたけれど、その「あ」はあんまりにも真っ直ぐに耳に飛び込んで来た。ほとんど不意打ちだった。「あはは、なにそれウケんね」って笑う友達に釣られて、笑うところだったのだ、本当は。わざわざ友達の方に向けた身体や視線を、潔くんの方に向けるんじゃなくて。
潔くんと目が合った。
確かに、そう、一瞬っていうには少し長い時間、視線が絡んだのだ。だけど潔くんはそのままの速度でもって、教室を出て行く。「ついでに山本たちも声かけていこーぜ」って言う多田くんに「……おー、そうだな」って相槌を打ちながら。
あれ、なに。今の「あ」って、なんだった?
でも、私と一緒にご飯を食べている友達の誰も、今の潔くんの「あ」に気がついていないみたいだった。なんだろ、なんだったんだろ。脳内で今の一連の流れを反芻させる。そうすると必然的に、目が合った瞬間を思い出す。
癖のない、さらさらの黒髪。制服だとぱっと見では埼玉屈指のストライカーだなんて分からないくらい、着痩せして見える身体。低くて良く通る声。くっきりとした二重の瞳を正面から見たのは、初めてだった。
そう、初めてだったのだ。
どうしよう、目があっちゃった。
すごくかっこよかった。
力が抜けた指先から、ぽろりと箸が落ちる。床に落下した私の箸はちょっとだけ転がって、思わず「あああ」と声が漏れる。「あ〜、何やってんの」って笑う友達らに苦笑いを返して、「洗ってくる……」と席を立った。薄くピンクがかった半透明の、元々お弁当箱にセットでついていた子供が使うみたいな大きさの箸は、分かりやすくゴミがついている。
潔くんのことを初めて私が認識したのは、中学二年生の夏休みだった――っていうと、ちょっと嘘になるかもしれない。
少子化が叫ばれる昨今では珍しい(と先生が口にする)マンモス中学に、私と潔くんは通っていた。小学校から一緒だとか、同じクラスだとか、部活や委員会が被っているとか、或いはそうじゃなくても活動的で特別目立つとか、そういうのがなければ、名前も知らない、一度も話をしたことがない人がいるっていうのは全然珍しくない、と思う。特に、異性だとそれが顕著なんじゃないかな。部活も運動部じゃない、委員会でも隅に座って発言をしない、何かに立候補するような気概もない私に存在感がなかったっていうのは間違いなかったけど、でも、潔くんはそういうのとは違った。
だから「本当に彼の存在を知らなかった」とまで言い切ってしまうと、嘘になる。
私は校内で彼のことを見たことがあった。男の子たちと連れ立って歩く彼とすれ違ったことが何度かあったから。なんとなく、雰囲気の柔らかい男の子だな、って思っていた。サッカー部に、ものすごく上手な人がいるっていうのも知っていた。その時私の中でこの二人は独立した全く別の人同士の輪郭を持っていた。あの、人のよさそうな彼こそが潔世一くんだなんて、知らなかったのだ。
「サッカー部の潔くん」と彼が私の中で線として結ばれたのが、三年前。私たちがまだ中学二年生だった頃の、夏だった。
一難高校がサッカーの名門だなんて、私は全然知らなかった。
だから、別に潔くんと同じ高校に入ろうと思って受験したわけじゃない。ブレザーが可愛かったのと、家からまあまあ近かったこと、学力的にも無理せず入れるところ、っていう、なんだかもうどうしようもない理由で選んだら、そこに潔くんがいた、それだけなのだ。
同じクラスになるなんて、絶対ないと思っていたのに。
「あ、さん、ちょっと」
声をかけられたのは、埃まみれの箸を持って教室を出たその瞬間だった。
顔をあげると、そこには潔くんがいて、それで今度こそ完全に呼吸と思考が停止する。「ひゅ」と息を飲む音が殊更大きく響いて、狼狽した。「い」さぎくん。名前が最後まで呼べないのは、本当に私に話しかけているのかが分からなかったからだ。それで、ぎこちない動きで振り向いた。私の後ろに、もう一人別の「さん」がいるんじゃないかって思って。
だけど、廊下には私と潔くん以外に誰もいない。
「……は、わ、私?」
「ああ、えっと……そう。ごめん急に声かけて。びっくりするよな」
「う、ううん! 全然!」
全然平気と言いながら振りかけた手に箸があることに気がついて、泣きたくなる。なんで話しかけてもらっているってのに、こんなものを持ってるんだろう、私は。「私に、何か……!」箸を握りしめながら尋ねる。目を合わせるのがこんなに難しいなんて、私は知らなかった。
潔くんがこうして引き返して来た、ってことは、さっきの「あ」はやっぱり私に対しての「あ」だったのかもしれない。潔くんに声をかけられる何かがあるとは、全然思えないけれど。
潔くんの身体の奥、二つ先の教室で、多田くんが誰かを待っているらしい様子が窺える。多分、他のサッカー部の子にも声をかけているんだろう。お昼も集まりがあるなんて、大変なんだね、サッカー部。やっぱり、忙しいの? 中学のときも大活躍だったもんね。夏休みだって、いつも朝からずっと頑張ってたもんね、日が落ちるまで、ずっとグラウンドにいてさ。
そんなこと言えるわけないじゃん。
「余計なお世話……かもしんないんだけどさ」
「は、はい……」
「あ、もしわざとだったらすっごいごめん! でももし気付いてないんだったら良くないかもって思って」
「はい……!」
潔くんの真っ直ぐな視線に堪えられず、思わず一歩後ずさる。春の陽気に当てられて、とか、そういう言い訳もできないくらいに顔が熱かった。差し込んだ光が作る窓枠の影を踏む。潔くんの目に堪えられなくて、視線を落とす。私の目に、ちょっと草臥れた内履きが映った。爪先が緑色の、二年生を示すそれ。その時に、あれ、と思う。あ、これ、もしかして、って。
潔くんが口元に手を当てて、私の耳に顔を寄せた。ぞわ、と背筋が粟立つ。ほとんど直に囁かれたみたいなそれは、脳が痺れるくらい低く響いたのに、どうしてこんな、あんまりにも心がしんどくなる指摘だったんだろう。
「…………さん、今日の靴下、左右逆かも」
靴下のさくらんぼの刺繍が、どっちも内側を向いているなんて。
それで一度出た教室にわざわざ戻ってきてくれるなんて、優しさが極まってるよ、潔くん。
予鈴が鳴って教室に戻ってきた潔くんと目が合う。流石に何回目かとなると、動揺も最小限で済むものだ。潔くんがちょっと気にする素振りを見せたから、私は片方の足首をちょっとあげて、履き直しましたよ、ってアピールをする。それを見た潔くんは何が面白いのか、はにかんだみたいに笑った。それはどちらかというと、彼がよく見せる笑顔に近かった。
これが好きな人とした初めての直接的なやりとりだなんて、もう、ほんとにどうかしてるよ。