我牙丸くんは、漫画を読むのはあんまり早くない。
 一冊貸したら返ってくるのは早くても数日後。我牙丸くんは部活もあるし、そもそも読む速度なんか人それぞれだから別に気にしてなかったんだけど、私とみうちゃんが喋っているところにのっそり近づいてきた我牙丸くんが「、この前の漫画読み終わった」って漫画片手に声をかけてきたとき、みうちゃんはそれにはっきり眉を寄せた。相変わらずどこもかしこも騒がしい、昼休みの教室でのことだった。



「それ、が結構前に貸してたやつじゃない?」



 漫画は全然読まないっていう割に、みうちゃんは良く観察している。
 確かに我牙丸くんが今私に返してくれた本は、一週間以上前に貸したものだ。みうちゃんと二人で我牙丸くんの部活をこっそり盗み見た日のことだから、間違いない。でも、キリが良い方がいいかなって二冊まとめて貸したから、そんなもんじゃないかなあって思う。私だったらその日のうちに読んじゃうけど、我牙丸くんは私と違って忙しいから。部活も遅くまでやってるし、バスの本数も少ない、勿論電車も通らない山の方に住んでいるって言うなら、家に帰るのだって遅いだろう。どれだけ戻ってくるのが遅くなっても、私は気にしていなかった。
 少しだけ背中を丸めた我牙丸くんは、「ん? そーか?」って、相変わらず抑揚のない声で首を傾げる。私だったらそれだけで飲まれそうになるのに、みうちゃんは全然臆したりしなかった。「そうだよー、私、貸すとこ見てたもん」って、私たちより頭二個分近くは高い位置にある我牙丸くんのことを真っ直ぐ見上げている。私に意見を求めないのは、そうしたら私が「そんなことないよ、いつまでも借りてて大丈夫だよ」って言うのが分かっているからだ。三年間ずっと同じクラスのみうちゃんは、私のことを物凄く良く分かっている。



「てか我牙丸、にお礼とかしないの?」

「お礼?」

「いつも借りっぱなしなわけでしょ? たまにはお礼しなよ。お菓子とかジュースとかでいいんだから」

「おー、なるほど」

「ちょちょちょ、みうちゃん!」

もさっき喉渇いたって言ってたじゃん。自販機でなんか奢ってもらいなよー」

「や、いや、いいよ全然、そのへんの冷水機でいいんだよ私なんて! 我牙丸くんもごめん、気にしないで」



 制止するようにみうちゃんの腕にしがみつきながら、我牙丸くんに向かって大きく首を振る。その時真っ黒な目がみうちゃんから私へと移されて、息が止まりそうだった。色素の薄い我牙丸くんの髪の毛は、今日も緩く結ばれている。極端に瞬きの少ない瞳はまるで私を余すことなく観察しているみたいで、つい目を逸らそうとしたら、爪で抉られたように欠けた左耳を視界の真ん中に収めてしまいそうになって、慌てて視線を戻した。我牙丸くんの左耳は、その形を損なうほどの傷がある。それが一体何によるものか、いつできたものなのか、ただのクラスメイトの私が知ることはきっとない。
 私がこの状況にどうしたらいいか分からずぐちゃぐちゃになっていることなんて、きっと我牙丸くんは気がついていないんだろう。我牙丸くんは私を見据えたまま、学ランのポケットにおもむろに手を突っ込んだ。じゃらじゃら、がちゃがちゃ。制服のポケットからするものとは到底思えない音が耳について、ついそこを凝視してしまった。やがて目当てのものを探り当てたらしい彼が、改めて私を見つめる。







 私がどれだけ頑張っても出せない低音で、我牙丸くんは私の名前を呼ぶ。私の前に差し出された、ポケットを探るには大きすぎたその手には、百円玉が二つ握られていた。



「行くぞ、自販機」



 みうちゃんの腕を掴んでいた指先から、はっきりと力が抜けた。








 昼休みの校舎はどこもかしこも騒がしくて、本当はもっと人通りの少ない道を選んでいきたかったけれど、我牙丸くんは歯牙にもかけないみたいにずんずん歩いていった。でもうちの学校は割と自分たちのことにしか目がいかない子が多いみたいで、私と我牙丸くんみたいな奇妙な組み合わせでも全然注目されることなんかなかったから、それでよかったみたいだった。
 背が高い我牙丸くんは足も長いから、一歩がびっくりするくらい大きい。小走りになりながら追いかけているうちに、緊張か疲労かその両方か、息が切れてしまって、「が、ががまるくん」とどうにか呼びかけた。それで、我牙丸くんは私が遅れていることに気がついたみたいだ。ちょっとだけ目を丸くして、「おお、わるい、」って、少しだけ間延びした声で口にする。
 板張りの古い廊下は、あちこちが軋んでいた。何十年も前に建てられた古い校舎だから壁も扉も天井だってボロボロだし、体育倉庫にはねずみが出るって専らの噂だ。隣のクラスでは巨大な虫が出たって騒ぎもあったくらいで、そういうところはちょっと困る。
 でもたくさんの傷がついたアルミサッシの窓から、板張りの廊下に緩く陽が差し込むのを見るのは、好きだ。そこを歩いたときにできる影が斜めに伸びて、薄く色を落とすのも。立ち止まった我牙丸くんに追い付いたとき、伸びる影の大きさが全然違うことに気がついた。靴の大きさも、比べるまでもないくらいに違った。そういう自覚が脳に完璧に染みこんでしまったら、私はもう、我牙丸くんと上手くお話ができる気がしなかったから、だからほとんど考えるよりも早く口にしたのだ。「ご、ごめんね、なんか」って。
 我牙丸くんは、「ん?」って首を傾げる。その首を走る血管の太さに、眩暈がしそうになる。



「なし崩しで飲み物買って貰うことになっちゃったから……! お礼なんか全然いいんだよ、ほんとに……! うちにある漫画貸してるだけだし……」

「んー、いや。でもまあ確かに、お礼はしたほうが良いよなーって思ってたからな」

「ええっ! そんなそんな、私は我牙丸くんが漫画を読んでくれるだけで幸せだよ……!」

「幸せ?」



 なんでだ?
 そう不思議そうに聞き返されて、言葉に詰まる。ああ、言葉を間違ってしまった、って。だってこんなの、まともに理由を説明しようとしたら、告白になってしまいかねない。
 むぐむぐと言葉を探しているうち、渡り廊下にある自販機に着いた。お昼休みもそろそろ終わりそうだからか、付近には人っ子ひとりいない。開け放たれた校舎の二階の窓から、誰かが何故か家から持って来たらしいリコーダーの音と、馬鹿みたいに大きな笑い声が聞こえるくらいには、そこは静けさとは縁遠かったけれど。
 ちらりと我牙丸くんを見上げたら、我牙丸くんはもう私にした問いかけなんて忘れてしまったみたいだった。外の空気を深く吸い込む我牙丸くんは、睫毛の短いその目を少しだけ伏せていた。
 小学生のときに吹いたことのあるメロディが、時折裏返りながらあたり一帯に響いている。自販機の奥には、野球部の緑のネット。サッカー部のグラウンドはここからじゃ見えなくて、どうしてかそれにちょっとほっとする。
 教室からずっと握りしめていたのか、我牙丸くんは二枚の百円玉をまごつくことも躊躇することもなく自販機に押し込んだ。「、どれにするんだ?」って聞かれて、慌てて顔をあげる。
 我牙丸くんは背が高くて、自販機とあんまり変わらなかった。私なんかは上の方が見にくいけれど、我牙丸くんは逆で、きっと一番下の列の商品が見にくいんだろう。屋外のせいか、小さい虫が自販機の内側に入り込んでいた。リコーダーの音に紛れて、鳥の鳴き声がした。秋の乾いた風は冷たくて、誰かが食べたらしいカップ焼きそばの匂いが微かにした。私の右隣に立つ我牙丸くんの、傷を負った耳朶。黒くなり始めた根元の毛。
 そういうのを全部、全部、覚えていたかった。
 半年後にはどうせ、手放さなくちゃいけないものたちだったから。



「じゃ、じゃあ、これにする……!」



 下の列にあったミルクティーを選んでボタンを押した。がちゃんって音を立てて取り出し口に転がったそれを拾うためにしゃがみこんだら、それとぴったりおんなじタイミングでお釣りをとろうとした我牙丸くんも足を折り曲げた。ミルクティーを取り出すのに手間取ったものの、我牙丸くんの方も大きな手でお釣りを取るのは大変だったらしい。立ち上がるのも全く一緒だったし、顔を合わせるのも同時だった。
 たったそれだけのことなのにどうしてか笑えてしまって、んひ、と変な声が出た。我牙丸くんはそんな私を不思議そうに見ていたから、もしかしたらシンクロみたいな動きをしちゃったことには気がついていなかったのかもしれない。
 変なやつって思われたかな。誤魔化すように、にやつく口元を腕で隠しながら「その、ありがとう、いただきます」って言った瞬間、いつも表情が変わらない我牙丸くんの目に、柔らかな光が滲んだ気がしたけれど、そういうのも全部私の気のせいだったかもしれない。
 リコーダーはいつの間にか別の曲に変わっていた。うちのお米が炊けたときとおんなじ曲。そう言ったら我牙丸くんは、全然ぴんとこないみたいに首を傾げた。


PREV BACK NEXT