教室の後ろの窓際の席に、我牙丸くんはいつもいる。
 何度席替えをしてもそこが彼の定位置になってしまうのは、毎回くじ引きでそこになっちゃうからっていうんじゃなくて、ただただ我牙丸くんの背が大きいからだ。190を超える背丈の彼は、他の席に座ると忽ち他の生徒の視界を遮る壁になる。だから、我牙丸くんはいつも決まってそこの席。サッカーをするには恵まれた長身を窮屈そうに縮こめて、我牙丸くんは自分の席に収まっている。
 黒々とした大きな目。脱色した髪は頭頂部で結ばれていて、表情の変化には乏しい人。その横顔を見るのが好きだった。



「おっ、おはよう、我牙丸くん!」



 よ、のあたりで一瞬裏返った声を咳払いで誤魔化しながら、我牙丸くんがこちらに顔を向ける直前に紙袋を差し出すのは、今日で何度目になるだろう。毎回新鮮に緊張してしまうのを、そろそろどうにかしたい。
 朝の教室は、私の声があっという間に飲み込まれてしまうくらいに騒々しかった。丸められたプリントが宙を舞って、誰かが化粧ポーチをひっくり返して悲鳴をあげて、教卓の方では動画の撮影で盛り上がっている。山に囲まれた田舎の高校は、教室の内側で一つの世界がきちんと完成しているようなのに、我牙丸くんの半径数メートルだけは、いつも異世界みたいに空気が違う。
 我牙丸くんの、光に乏しい黒目が私を見る。しんえん。って思う。勉強の苦手な私は、紙とペンを渡されても、それを漢字で書くことはできないけれど。



「えっと、頼まれてた漫画の続き、持って来たよ」

「おー、助かる。ありがとう、

「全然! 読み終わったら教えてね。また持ってくるからね……!」



 我牙丸くんの返事を待たずに踵を返して、ぎこちなくいつも一緒に居るお友達のところに戻る。異世界から戻って来た私を、だけど誰も気に留めることはない。転がっていったマスカラを拾い上げる友達に、「さっきの、誰の悲鳴かと思ったらみうちゃんか~!」って笑いかけて、私は自分の日常に溶けていく。








 同じクラスの我牙丸くんに漫画を貸すようになったのは、三年に進級したばかりの、今年の春のことだった。
 お兄ちゃんが漫画が好きで、たくさん家にあって。周囲にはそう嘯いているけれど、本当はそんなの嘘だ。お兄ちゃんは私と違って勉強が出来て、漫画なんか昔から全然読んだことがない、真面目を絵に描いたような人だった。だから我牙丸くんに貸している漫画は全部、端から端まで私の所有物で間違いない。
 古本屋さんやネットを駆使して安く買いそろえた私のコレクションは今や私の部屋には置ききれず、大学進学で家を出たお兄ちゃんの部屋を徐々に徐々に浸食していた。現在進行形でそうなんだから、次に帰ってきたときは、ものすご~く嫌な顔をされるだろう。でもそんなの知ったこっちゃない。私の部屋が狭いのが悪いのだ。バトル物の少年漫画や心理戦がメインの青年漫画がたくさん並ぶ二部屋を、私は心から愛している。
 漫画なんか読んで何になるんだよ。もう高校生になるんだから、その時間勉強したほうが良いんじゃないの。だからあんな高校にしか受からないんだよ。そんなことを素で言うお兄ちゃんがずっと隣にいたものだから、高校に入学したその春、教室の隅っこの机で大きな背中を丸めて漫画を読んでいる我牙丸くんを見たときは、そりゃあもうびっくりしたのだ。大袈裟かもしれないけれど、救われたようにすら思った。自分の中にあった「漫画が大好きなんて恥ずかしいことなのかもしれない」っていう疑念は、この手で潰すには少し大きく育ちすぎていたから。
 我牙丸くんはたまたま同じクラスになったってだけの、名前と背が高いってこと以外は全然知らない男の子だった。サッカー部って知ったのは、後で友達から聞いたことだ。山の方に家があるっていうのを知ったのは、もっと後。我牙丸くんは休み時間の半分くらいは、漫画を読んで過ごすような人だった。クラスメイトと話していることもあったけれど、元々の性格もあってか、馬が合う子はあんまりいないみたいで、一人でいることのほうがずっと多かった。我牙丸くんは他の子とは、全然違った。
 熊みたい。入学初日ではそんな第一印象を抱いてほんのり遠巻きに見ていたくせに、我牙丸くんのごつごつした大きな手が漫画を持っているって気がついた途端、急に彼のことが気になり始めたんだから、私も大概だ。
 我牙丸くん、何読んでんだろ。あの表紙なんだろ。用事なんか全然ないのに、わざと遠回りして自分の席に戻った。それが私の部屋にもあるものだって気がついたとき、どれだけ嬉しかったか。「それ、すっごく面白いよねえ!」って、どれだけ声をかけたかったか。一年生の私には、そんな勇気、ついぞ持てないままだったけれど。
 いつか我牙丸くんとお話してみたいなあって思ってから二年が経った今、私は我牙丸くんに漫画を貸すくらいの立場には出世している。二年で一度離れたクラスがまた一緒になったっていう喜びと、最初の席替えで隣になったっていう奇跡と、相変わらず漫画を読んでいる我牙丸くんに思いきって声をかけることができたあの日の勇気、何か一つでも欠けていたら、こんなことにはきっとなっていなかった。そう思うと、すごく不思議だ。選ばなかった道の先は、今とは全然違う未来になっていう。
 「」って、初めて名前を呼ばれたとき、視界にぱちぱち、火花みたいな光がいっぱい散っていた。特別な音に聞こえた。我牙丸くんはあの日も、窓から差し込む燦々とした光を背負っていた。



「これ、すげー面白かった。続きあったら貸してくれ」



 抑揚に乏しい声が私にだけ向けられたその瞬間、私はこれが恋だと自覚した。








「本のやりとりするとき、うっかり手とか触っちゃえばいいのに」

「できないできない、無理無理無理」

「えー、我牙丸、絶対気にしないと思うよ」

「わ、私が無理、事故なら兎も角意図して触るなんてそんな」

「真面目だね~」



 下校途中、昇降口を出たあたりでみうちゃんにからかわれるみたいに言われて、口を噤む。みうちゃんは恋バナが大好きで経験も豊富な子だから、私の我牙丸くんへの気持ちなんか自覚して数日もしないうちに気付かれてしまった。みうちゃんからしたら、私みたいにうじうじしてるのは信じられないんだって。もっと積極的にいきなよってせっつかれてる。あっという間に卒業だよ、って。
 秋も深まって、もうすぐサッカー部は大会があるらしい。賑やかな放課後のサッカーグラウンドを、ちらりと横目で見る。
 我牙丸くんはサッカー部の中でも兎に角身体が大きくて髪の色も抜いているから、遠目からでも見つけることは簡単だった。グラウンドを走るその背は、教室にいるときみたく、丸まってはいない。真剣な横顔は、私がいつも見ているものよりもずっと精悍だ。



「見学していけばいいじゃん。暇だし、付き合うよ」



 ぼんやり見ていたのがバレたのか、みうちゃんにそう声をかけられて、慌てて首を振った。何人かの生徒がサッカー部の練習を眺めている姿はあるけれど、そこに自分が混ざるって思ったら、何だか気恥ずかしかったのだ。我牙丸くん以外のサッカー部の男子なんて知らないし、私が見てたら、絶対我牙丸くん目当てってバレちゃうもん。
 でもみうちゃんは私の考えなんてどうでもいいみたいで、ぐいぐい腕を引っ張られてしまう。案外力が強くて、びっくりした。甲高いホイッスル、ボールを蹴る音は重くて、近づけば近づいた分だけ内臓に響いた。指示を出し合う声、その中に我牙丸くんの声を見つけることなんて容易くて、それだけで、泣きたくなる。
 山に近い校舎からは、その稜線がくっきりと見えていた。秋の空に伸びる筋雲が、薄い色の空に幾つか浮かんでいた。乾燥した空気は眼球や喉に張り付くみたいだった。本当に嫌だったらどうにかして逃げることだってできたのに、そうしなかった。見慣れた学校の風景が、一枚の絵みたいに見えた。その真ん中には、我牙丸くんがいた。思い返してみたら、いつだってそうだった。
 サッカーのルールなんて、私は全然知らない。我牙丸くんと知り合って、サッカー漫画も読んでみようかなって思ったことはあるけれど、踏み出せなかった。だから、我牙丸くんがなんていうポジションで、どういう役割を持っているのか、見ただけじゃ分からない。ゴールポストにボールが入ったら点数が入る、ってことくらいしか知らない。だけど、我牙丸くんがその長い足で大きな一歩を踏みしめて、ボールを蹴るその瞬間、音が全部聞こえなくなって、そこだけ世界の色彩がずっと鮮やかになった気がしたのだ。
 ゴールが決まったとき、つい口を全部覆って、「わぁあ」って声を漏らしたら、私を振り返ったみうちゃんが笑った。我牙丸くんに私の気持ちごと気付かれちゃうかも、なんて心配していたけど、我牙丸くんがグラウンドの隅っこにいる私たちに気がつくことなんか、きっとなかった。


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