あいつは、幼馴染みと口にするのも憚られるほどに散らかった部屋の持ち主だった。
 今に始まったことじゃない。元からあいつの部屋はやたらと物が多く、それが故に掃除のスタートラインに辿り着けないのだ。「いらねぇモンは捨てろよ」と忠告してやったとき、あいつは「え……全部必要だから部屋にあるんだよ」って、宇宙人を見るようなツラで俺を見やがった。意味がわからねぇ。ガキのときの工作とか、昔もらったダチからの手紙とか、寄せ書きの色紙とか、そんなモンが本当に必要なのか? 埃を溜めるだけで、碌なもんじゃねえだろうが。
 向かいがそんな部屋だと、どうも気になる。こっちがどれだけ換気をしようと、澱んだ空気が隙間から入ってきそうな気すらするのだ。大体、この家の立地が悪すぎるんだよ。ちょっと身を乗り出せば、俺の部屋からじゃ塀伝いに簡単に侵入できるぞ。足の短いあいつは、そもそも塀まで届かないだろうが。
 それくらい近いとなると、どうしても視界に入る。あいつの部屋の惨状。散らかった床に、畳まれてない部屋着。カーテンレールの上なんか、何年掃除してないんだ? 想像しただけで寒気がする。こいつ、良くあんな部屋で生きてられんな。



「照英くんの意地悪、綺麗好き! ルンバ!」



 そう叫ばれたのは、テスト期間で部活のない、五月の昼間だった。
 閑散とした田舎道に響き渡る大絶叫に、「誰がルンバだ!」と返すも、あいつはダッシュで自分の家に飛び込んでいく。追いかけて首根っこ捕まえてやっても良かったが、そんな気が起きなかった。風に靡いた髪と、三年経ってようやく目に馴染んだ他校の制服が遠ざかるのを、黙って見送る。最近のあいつは、どうにも顔が白い。








 あいつは俺とは違って、一人っ子だった。
 弟か妹がほしいなあって、小さい頃に話していたのが記憶の片隅の、普段は陽の当たることのない、どうだっていい部分に落ちている。そうしたら朝から夜まで一緒に遊べるし、大きくなったらふたりでお留守番できるでしょ、って。今考えたら、意味わかんねえ理論だな。
 あいつは俺にとって、昔から不可思議な存在だった。くだらねえことで笑って、泣く。昔、車から降りてきたあいつがおばさんに肩を抱かれながら泣いているのを見た。妙にめかし込んでいて、何だありゃ、って眺めていた俺に気がついたおばさんが、後でこっそり「失敗しちゃったの。コンクールで」って教えてくれた。とっても緊張する子だから。って、何か眩しいものでも見るみたいに。理解できなかった。舞台の上で緊張することも、失敗することも、それで泣くことも。次の日学校で見かけたあいつは平気そうに笑ってて、だけどもう、窓を挟んだ向かいの部屋からピアノの音が聞こえることはなくなった。捨てたんだろうと思った。少なくとも、俺だったらそうする。
 以前よりもくぐもった音で、たどたどしいメロディを聞いたのは、それから一ヶ月くらい経ってからのことだっただろうか。隣の家に回覧板を持っていくのは普段は母親がやっていたが、その日は確か、妹のどっちかが授業中に結構な怪我をしたとかで、家に帰っても誰もいなかった。がらんとした薄暗い玄関に、所在なさげに、古びた回覧板と母親の書いた書き殴ったメモが置かれていた、あの映像だけは今も鮮明だ。
 ランドセルを背負ったまま、ちらりと回覧板の中身を確認して、隣に向かう。あいつが丁度うちの前を通りかかってくれたら楽だけど、さっき川のあたりで五人くらいで固まって草の蜜を吸ってた連中の中にあいつがいたのは覚えてるから、それも期待できないだろう。だから、あいつの家の玄関の前に立ったとき、膜の内側から聞こえるようなこのピアノの音は、おばさんのものだと思った。ああ、なんだ、捨ててなかったんだとも。
 それはチャイムを押した瞬間に途切れ、ぱたぱたとした軽い足音に変わる。「はあい」とどことなくあいつに似た、間延びした声と共に開かれた扉の先に、おばさんがいる。「あら、照英くん、こんにちは。だったら、まだ帰ってきてないよ?」おばさんの身体の横に見える玄関にはいつも花が飾られていたと、こんなときに思い出す。








 家に帰って制服の埃やゴミを落としてから手洗いうがい、着替えを済ませ、部屋の掃除に取りかかろうとした時だった。隣の家から、「ギャー!!」っていう、あいつのクソでけえ悲鳴が聞こえたのは。
 掃除機を手にした肩が、びくりと跳ねる。換気のために開けていた窓の外に視線を投げるも、俺の忠告を聞かないあいつは相変わらずカーテンを閉め切っているから、何が起きているのかは判別できない。
 変質者か?
 先月からおばさんが入院していることもあって、日中あいつの家は無人だ。だらしねえあいつのことだから、鍵を閉めずに学校に行って、帰宅。そこで侵入していた変質者と鉢合わせ――ありえなくはない。舌打ちをして、掃除機から手を放す。開け放たれた窓に向かって身を乗り出し、「おい」と口にするのと、向かいの部屋の窓とカーテンが勢いよく開かれて「照英くん!!」と顔面蒼白のあいつが叫んだのは、ほとんど同時だった。一瞬肝が冷える。ほとんど窓枠に足を掛ける寸前だった。



「部屋にめっちゃでかい蜘蛛がいる! 助けて!」



 もしもこのときのこいつが泣き出す寸前みたいな顔をしてなければ、俺はそのまま無視を決めこんで、自分の掃除を再開したかもわからなかったが。








「部屋が汚えから虫が湧くんだよ」



 蜘蛛を外に排除した後、低く言う俺に、クソ女は「それとこれとは関係ない……かもしれない……家が古いからかも……じゃん……?」と目を逸らしながら言う。クソでけえ蜘蛛より、もっとやべえ虫でも出ないと分からないんだろう。この部屋の惨状を見るに、いつどこから「それ」が飛び出してくるともしれねえが。
 適当にひっかけたせいで今にもハンガーから落ちそうな制服、ブラウスはベッドの上に放り投げられていて、シーツはありえねえくらい皺が寄っている。テスト勉強中である、という事情があるにしても散らかりすぎているプリント類に、薄ら埃を被った机のライト、食べ終わった菓子のゴミと、ボールペンが床に落ちてるのは何でだ。寒気がして、「…………おい」と隣で小さくなるクソ女に声をかければ、そいつはびくりと肩を震わせ、蚊の鳴くような声で「は、はい……」と言った。



「……やっぱり地獄じゃねえか、殺すぞ」



 これが外壁二枚挟んだ先の世界だと思うと、吐き気すらしてくる。



「脱いだら脱衣所に持っていけ! 菓子のゴミはすぐ捨てろ! 埃は拭け! どうなってんだてめえの部屋は!」

「い、今やろうと思ったんだよお……! そしたらゴミ箱の近くにさっきのでっかい蜘蛛がいて……!」

「言い訳は良いからゴミ袋と掃除機持ってこい、今すぐ俺が掃除してやる」

「えっ!? 困る」

「隣がこれじゃこっちが困るんだよ馬鹿女! 良いから掃除機!」

「……掃除機どこだっけ」

「俺が知るか!」



 つまり、こいつはおばさんが入院してからの一ヶ月、ろくに掃除機もかけていないことになる。頭が痛くなって、「怒んないでよお!」と半泣きになりながら部屋を出て行く後ろ姿に「ついでにこれ持っていけクソ女!」とベッド上のブラウスを投げつければ、「脱いだ服触んないでぇ!?」と叫ばれた。触ってほしくなきゃ自分で管理しろ。



「もうやだぁ! 照英くんの意地悪、綺麗好き! 掃除キング!」

「うるせえ殺すぞ!」

「どうせ殺さないじゃん!」



 遠ざかっていく声にため息を吐く。なんなんだあの女は。誰に似たんだ。顔と声だけは、おばさん譲りなのに。散らかった部屋を見回す。あまり細部を見ると具合が悪くなるから、少しだけ目を細めて。「あのね、照英くん」と、入院するのだという前日に、偶々家の前で会ったおばさんの言葉を思い出したのは、その部屋の片隅に、当たり前のように埃を被った、ピアノのコンクールでもらったと思しき小さな盾を見つけたからだ。



「おばさんね、手術になっちゃったの。多分帰ってこれるはずなんだけど……もし難しくなっちゃったら、のこと、よろしくおねがいしてもいいかな?」



 たまに、気にかけてくれるだけでいいの。って。
 こんなクソ女、俺の手に余るに決まってる。それでも断れなかったのは、結局俺が、どこまでもこいつの幼馴染みだからだ。シュートを決めた俺を、何か途轍もなく眩しいものでも見るみたいに見つめていた、ネットの奥の双眸。感情を制御することもできねえガキ。高三になって掃除もまともにできねえ女。普通に生きてたら、絶対に関わりたくねえ。でも見捨てられないのは、こいつが今もまだ俺を「照英くん」と呼んで、喜怒哀楽を平気でぶつけてくる、馬鹿だからだ。
 俺達が幼馴染みだからだ。



「……帰って来てもらわねえと、困る……っす」



 敬語になりきらない言葉でそう言った俺に、おばさんは困った顔で笑った。薄れようもない先月の記憶に割って入るように「あったー!」と声が聞こえて、顔を上げる。



「照英くん、掃除機あった、ありました!」

「嬉しそうにするな、掃除機がねえわけねえだろ。ゴミ袋は」

「丁度切れてた」

「………………」



 やっぱり無理だ。これを任せられても困る。
 「買い出し行くぞ」と口にした俺に、クソ女は目を丸くして「今から?」と首を傾げた。ゴミ袋がなくてなんで掃除ができると思ってんだこいつは。一度窓をきっちり閉めて、立ち上がる。軋む廊下を歩きながらちらりとリビングを見やれば、DMの積み重なったダイニングテーブルが視界に入った。「まってまって」財布と上着を手にして追いかけてくるクソ女を振り返る。
 なあ、おばさん、大丈夫なのか。
 聞きかけて、だけど、口にはできなかった。
 昔から置かれている玄関の花瓶に、花はない。
 揃えて置いた靴に足を突っ込む。俺のもんより随分小さい隣の靴は踵が潰れてて、げんなりした。それに足を突っ込むクソ女を置いて、先に玄関の扉を開けば、春の、妙に生ぬるい風が顔を撫でた。猫の額みたいな庭に植えられた名前も知らない花の匂いがする。おばさんが育てていたと、思い出す。







 名前を呼んだら、「ん」と、が顔をあげた。俺よりも頭一個分以上低い位置にあるそれは、俺の隣にあって当たり前のものだった。



「――今度おばさんの見舞い行くわ」



 その時がはっと目を見開いた理由を、俺は知らない。
 光が見えた。外で見るの目は、いつも小さな星を集めたみたいに光っていた。俺はその光が、昔から、嫌いではなかった。






ただ過ぎた日々にもずっといる
(title / エナメル様)