「殺すぞ」
ってあんまりにも言われ続けたものだから、いつの間にかもう、お隣の照英くんに凄まれてもあんまり心が動かなくなってしまった。
照英くんは私と同い年、腐れ縁と言ったら良いのか、小中では同じクラスにならなかったことの方が珍しい。いつもムスっとしていて、昔から身体が大きくて、誰にでも威圧的な男の子。泣いているところなんか一度も見たことがなかった。お母さんは、「照英くんは素敵ね、強くてかっこいいね」って昔から言っていたけれど、同じ子供の目から見ると、照英くんって、本当の本当に王様みたいだったのだ。周囲もそれを当たり前に受け入れるくらいに、照英くんには才能があったんだけど。
照英くんはサッカーの神さまに愛されていた。
照英くんが蹴ると、ボールはまるで意思を持っているみたいに転がった。照英くんの考えていることをボールがそのまま受け取っているようだった。何人もの子供達をごぼう抜きして、いろんなものを飲み込んでしまうくらいのシュートを決める。私にとって照英くんは、奇跡の人みたいだった。ゴールを決めた直後の照英くんと目が合ったとき、物凄い目付きで睨まれようと。
照英くんは県下において右に出るものはいない、屈指のストライカーに成長した。高校も悪童学院っていう、県外からもスポーツの特待生がやってくるようなところに早々に推薦で入学を決めてしまって、それは羨んだものだ。「照英くん、一年生からレギュラーなんだって」って、お母さんが自分のことみたいに嬉しそうに話していたのを、今でも覚えている。
照英くんの活躍は留まるところを知らなかった。それこそ新聞にも載るくらい。「悪童馬狼、また決めた!」「圧倒的エース、怒濤の三得点!」地元の新聞じゃ、照英くんは真っ当なスーパースターみたいだ。私には平気で「殺すぞ」って言うのにな。
照英くんは高校生になった今も、子供のときのままみたいに、変わらず私に接している。
「おいクソ女」
「うわっ!」
私の通っている高校と照英くんの通う悪童学院は、毎回テスト期間が綺麗に被っている。
普段は遅くまで部活をして帰ってくる照英くんと帰りが一緒になることってそうそうないんだけど、テスト期間中だけは、駅で一緒になることが多々あって、そういうとき照英くんは、私の背後から構わず声をかけた。こんな風に、「クソ女」って。
「リュック閉まりきってねえぞ。どうなってんだてめえ」
「え、ほんと!? 教えてくれてありがとう。ぐ、ぐぬ……」
「なんで背負ったまま閉めようとしてんだてめえは」
「い、いけるかと思って……いけなかったね……」
駅から家まではほぼ一本道。薄らドブの臭いがする川沿いで、リュックを半分下ろしてチャックを閉める私の隣を、照英くんは何の逡巡もなく歩く。
春だった。平日の昼間、都会とは決して言い難い小さな街は、時折軽自動車がびゅんと真横を通り抜けていくだけで、実に穏やかだ。足元に、小学生のときに良く蜜を吸った紫色の花が広がっていた。「つーか」照英くんの声は、「ガキ臭えな」って、キャアキャア言いながら蜜を吸っていた私たちに吐き捨てた頃よりも、ずっと低い。
「お前、ちゃんと部屋の空気入れ換えてんのか。お前の部屋、ずっと窓閉めっぱなしじゃねーか」
「……照英くんが見てないときに開けてる」
「嘘つけ。見てないときっていつだ。開いてるところ見たことねえぞ」
「……あ、開けてるって。ていうか、そんなにしょっちゅうこっち見てるの?」
「うるせえな視界に入って気になるんだよ、窓くらいちゃんと開けろ」
「……お母さんが日中開けてくれてるの!」
「あ? お前んとこのおばさん、先月から入院してたろが」
「詳しい…………」
お隣って、これだから困る。情報は筒抜けで、プライバシーなんかあってないようなものだ。お風呂場で歌っていたら次の日に「クソ音痴、リサイタルやめろ。殺すぞ」って言われるし、お父さんに怒られたらその内容まで知られている。それもこれも、敷地面積いっぱいに建っている互いの家が悪いのだ。私と照英くんの部屋は、よりにもよって塀を挟んで真向かいだし。いっそ二人いる妹ちゃんたちと照英くんの部屋を交換してほしいくらい。以前本人にもそう言ったことがあったんだけど、「あいつらの部屋は日当たりが悪すぎる」って、まさに王様みたいな発言をされた。日当たりが悪いと、やっぱり黴とかが生えるのかな。それだと照英くんが嫌がるのも分かる。
照英くんは綺麗好きだ。
それもただの綺麗好きじゃなくて、病的なまでの綺麗好き。
時間があればクイックルワイパー、掃除機、窓拭き。窓枠までしっかり拭いて、業者の方? って感じ。だから余計、真向かいの私の部屋が気になるらしい。ごちゃごちゃしてるのが視界に入ってイライラするんだって。
この間なんか休みの日にカーテンを開けてのんびり転がっていたら、スマホがピロって鳴った。「どうなってんだお前の部屋は。地獄か」って、失礼すぎないだろうか。腹が立ってカーテンを閉めた。そしたら「端っこのカーテンレールどうにかしろ、見るに堪えねえ」だって。閉めたばかりのカーテンを見てみたら、レールから外れて変にたゆんでた。「もう!」って怒りながら椅子を持って来てカーテンをはめ直した直後、運動神経が照英くんの一万分の一にも満たない私は座面を踏み外して落下する。なるほど地獄とはよく言ったもので、床に放置した雑誌やノート、化粧品、また着るしと思って置いといたジャージの上にしこたまお尻をぶつけた。しかもよりにもよって落下地点に太めのボールペンが転がっていたせいで、お尻に青痣ができたのだ。そういうことがこの前の休日にあったから、カーテンを閉めっぱなしにしていたのに。
「照英くんが地獄って言うから閉めてるんだよ!」
「あ? 地獄だろーがてめーの部屋は。毎日掃除機かけろゴミ捨てろ埃吸って死ぬぞ」
「そんなに簡単に死なないもん。そんな風に細かいこと気にしてる方が死んじゃうよ!」
「細かくねえ。それにお前の部屋が終わってるのは事実だ」
「お、終わってないもん」
車道側を歩く照英くんの顔は私よりも頭一個以上高い位置にあって、見上げるのすら一苦労だ。そんなことないもん、終わってないし地獄なのは一部だけだもん。照英くんは、私の部屋をちゃんと見たことないじゃない。床はちょっと見えないところもあるけれど、ベッドの上は綺麗だよ。それに今時の女子高生の部屋なんて、どれもあんなもんだよ。……きっと。
「あ?」って馬狼くんが凄むみたいに私を見下ろす。でも、物心ついたときから「王様」を見ている私はそんなんじゃ怯まないのだ。
「照英くんの意地悪、綺麗好き! ルンバ!」
精一杯の捨て台詞を吐いて、ここから三軒先の我が家まで走る。照英くんの虫の居所が悪いときは、そのまま追いかけられて捕まるんだけど、今日はどうにか逃げ切れた。「誰がルンバだ!」って背後から叫ばれたけど、それで動揺していたら、照英くんの幼馴染みなんて務まらない。
鍵を開けて、逃げるように家に飛び込む。息を整えながら顔をあげたら、部屋の中はどことなく薄暗くて、じめっとしていた。ひっそりと静まった玄関の三和土は、先月から一足分、靴が足りない。