私の家は所謂転勤族で、お父さんの赴任先についていくために何度転校したかもわからない。
おかげで親しい友達ができてもすぐに別れを経験しなければならなくて、小学校も高学年になる頃には私はすっかりやさぐれた。グレるとまではいかないけれど、なんだか友達を作ることが億劫になってしまったのだ。どうせ仲良くなったって、どんなに長くても半年後にはまた引っ越しだし。お母さんは煩わしくなくて楽だなんていうけれど、兄妹もいない私にとって折角作った友人関係を定期的に0に戻されることはちょっとした絶望だった。
五年生になった直後の転校で、私はとうとう何もかも嫌になった。ちょっと早い思春期だったのかもしれない。早熟であった私は格好つけたい年頃だったのか。折角話しかけてくれた女の子たちを冷たくあしらってしまった。
「どうせすぐ引っ越すことになると思うし、私のことなんて構わなくていいよ」
あの日の私をどつきたい。間違いなく黒歴史の頂点に燦然と輝くあの台詞は、今でも私を苦しめる。一人の部屋で不意に思い出して枕に顔を埋めたことは一度や二度では済まない。クラスの中心人物と思しき二人の女子は顔を見合わせて苦笑すると、私の望み通りそれから二度と話しかけてくれることはなかった。さすがリーダー格であるだけあって、二人の行動は他のクラスメイトにも伝染していく。転校して一週間、私はすっかりなじんだ。教室の背景に。
おかげで昼休みの騒がしい教室はどうにも居心地が悪くて――勿論この時の黒歴史を産み出し続けるモンスターであった私はその騒がしさを「ガキっぽい」と思っていた――図書室に向かうことが多かった。たまに同じクラスの女子たちがきゃあきゃあ言いながらおまじないの本なんかを見ていたのを心の中で馬鹿にしながら(これも黒歴史だ)、私の居場所はどこにもないなという風に席を立つ(もちろんこれも黒歴史だ)。本を一冊だけ借りて一人になれる場所を探す私が最終的に行き着いたのは、中庭の片隅にある飼育小屋の前だった。
中庭には校庭にはない大袈裟な遊具が一つだけある。あの丸い、メリーなんとかという、年に数人がふっとばされて怪我をするスリリングな回転遊具だ。あれに人気が集中して、うさぎが数匹いるだけの飼育小屋には生徒の姿はない。私はすっかり気を楽にしてしまって、その辺の段差に腰を下ろして借りてきた本を開いた。若干の獣臭さは否めないが、慣れてしまえば気にならない。わさわさと視界の端を蠢く茶色のうさぎは私に話しかけたりしないし、ここでは私は自由だ。
そう思っていたのに、私は突然、背後から声をかけられてしまった。
「誰かと思えば魔界より召喚されし邪悪なる者か」
誰かそういうごっこ遊びでもしているのかと思った。私はその時読んでいた児童向けのファンタジー小説から、つい顔をあげてしまう。ごっこ遊びにしては随分と面倒な言い回しをするのだな。そういうセリフの漫画でも流行っているのだろうか。そう思っただけで、まさかその言葉が私に向けられているものだとは思わなかった。
けれど「飼育委員」とマジックで書かれたバケツを持っていたその男の子は、間違いなく私を見ていた。なんだ。私にごっこ遊びに付き合えといっているのだろうか。声変わりのすまされていない、まだ女の子と判別のつきにくい声は、また随分と遠回しな表現で私を警戒していることを告げている。
「ここで何をしている。答えによってはお前を暴風吹き荒れる凄惨な大地へ送還せねばならなくなるぞ」
何を言っているのかは良くわからないけれど、見覚えのない男の子だった。私は読んでいた本に指を挟みながら一度閉じる。飼育委員のバケツを持っているということは、つまり彼はその通り飼育委員なのだろう。私が黙って彼の姿をまじまじと観察していると、男の子は突然私から目を逸らした。太陽の下では分かりにくいけど、照れているらしい。首までしっかりしめたジャージに顎を埋めて、「ま、まあ俺様の邪魔をしないと言うのならば、そこでいくらでも書物の解読に耽っているといいがな」とぼそぼそと呟いてうさぎ小屋の中に入っていった。なんだか変わった子だ。
改めて飼育小屋を見ていると、うさぎにはそれぞれ名前があるらしかった。小屋の金網部分に、写真と共に名前が書かれたプレートが引っかかっている。この学校には三匹のうさぎがいるらしく、「なかよP」「りぼN」「ちゃO」とまあセンスを疑う名前が並んでいた。さっきの男の子はなかよPたちのいる小屋のふんを専用の道具で手際よく集めている。私は立ち上がって小屋に近づくと、フェンス越しに彼に声をかけた。
「ねえ、どれがなかよPなの?」
男の子は呆れたように答える。「そこに写真があるだろう」そう言うけれど、全部茶色のせいで判別がつかない。模様らしい模様もないし。素直にそう訴えたら、男の子は掃除の手を止めて、隅の方で蠢いていた三匹の兎から軽々と一匹を抱きかかえた。
「こいつがなかよPだ。見ろ。この美しい毛並みを」
「わあふわふわ。目が可愛いねえ」
「分かるか。なかよPはこの中で一番聡明な顔立ちをしているのだ」
「へえ~全然違いが分からない」
「ふっ、魔力のない貴様からしてみればそうだろうな」
この子はさっきから何を言っているのだろう。良くわからないけれど、そういうゲームか漫画に嵌る年頃なのだろうし、現に私だって今はファンタジー小説に夢中の口だ。人の世界観にとやかくいうつもりはない。まあ正直言うと、おまじないに夢中になっている同級生を見下したりしているところもなくはないけれど、私はなぜか、この子にはそういった感覚を一切持たなかった。彼が懸命に作業をしていたからだろうか。
私はその子が掃除を終えるまで、ずっとフェンス越しに飼育小屋を眺めていた。一番面倒くさそうだという理由で飼育委員には絶対になりたくないと委員会決めのときに思っていたけれど、黙々と一生懸命に掃除をする彼の姿を見ていると、悪くなかったのかもしれないと思えた。ふと時計を見ると、もうすぐで昼休みが終わる時間になっている。「ねえ」と声をかけた、私に、彼は目線だけを投げかけた。
「明日も来る?」
「飼育委員だからな」
その言葉通り、彼は次の日も同じ時間にバケツを持って現れた。雨の日も風の日も、彼はもくもくとなかよPたちの小屋を掃除し続けた。私はそれをフェンス越しに眺めて、たまに許可をもらってから中庭に生えている草をうさぎにあげた。美味しそうにもしゃもしゃと咀嚼する小さな生き物に胸を打たれ、かわいいねえと呟くと、彼は満足したように「そうだろう」と頷くのだった。
私は彼にたくさんのことを教えて貰った。うさぎは多産であるため、増えすぎないようこの学校の三匹のうさぎは全員メスであること。うさぎも爪が伸びること。水に浸かると命にかかわること。私はその一つ一つにいちいち感心した。当たり前のことだと呆れる彼は、私のことを「魔界より召喚されし邪悪なる者」と呼び続けたし、私は彼のことを「ねえ」と呼んだ。今さら名前を尋ねるのが気恥ずかしかったというのもあるけれど、彼が一向に私をその呼び名で呼び続けているのに自分だけが名前を聞くのが何だか屈辱的に思えたのだ。
私のプライドはエベレスト並だった。せめて飛騨高山くらいにしておくべきだった。
運動会が終わっても、私は飽きもせず飼育小屋に通った。どうやら他の飼育委員は彼に仕事を押し付けているらしく、うちのクラスの鈴原さんも遠藤くんも、他の学年の飼育委員も一向に姿を見せたことがない。私がそのことについて文句を言うと、彼は全く表情を変えることなく言った。
「無知で愚かな人間共に我が眷属が蹂躙されることがない今の方が、俺様にとっても眷属たちにとっても良いのだ」
「はあ」
なるほどねえ。そういう考え方もあるねえ。そう頷きながら、私はすっかり彼の言葉に慣れてしまっている自分を自覚した。私がこの学校に転校してきて二カ月が経つ。私はもう彼を隣のクラスの男の子だということを知っているし、彼が私と同じように教室で透明人間のように扱われていることも知っている。私たちが二人で飼育小屋にいるのを見かけた女子たちが、くすくすと笑って去っていくのだってもう数えきれない。私たちは、無知で愚かな人間共に見下されている。それでもちっとも気分が悪くならないのは、彼がそう言ったことに一切の動揺を見せないからだ。
彼はいつも堂々としていた。どれだけ強がったって、あの子たちを意識してしまっている私とは、根本から違った。
終わりが近いことを私は両親の慌ただしい気配から察していた。そろそろかな。そう思っていたころ、案の定私はお母さんに「また引っ越すから」と伝えられた。最近ではすっかり慣れていたはずの「転校」という言葉に、私は久しぶりに動揺した。嫌だと思った。凝り固まっていたはずの感情が今更溢れる。
かといって、たかが小学五年生の私にできることなど一つもない。私は彼に転校の話を打ち明けることができないまま、なかよPたちと何てことない昼休みを過ごし続ける。初めて彼と出会った日、私はこの子たちの見分けなんかつくわけがないと思っていた。だけど、毎日見ていたらわかる。彼の言うように、一番賢そうなのがなかよPで、勝気そうなのがりぼN、目が少し離れてあどけない顔立ちをしているのがちゃOだ。私は彼女たちともお別れをしなくてはならない。そう思うといつもお腹の底が焼け付くように痛んだ。夏が近づいている。暑さに弱いうさぎは脱水症状にならないようにきちんと水分補給ができているか確認しなくてはいけないらしい。私はこうして今日もうさぎに関する知識を一つ増やして、家に帰る。家の中の段ボールは日に日に増えて、私は別れの日が近いことをもう分かっているのに、彼にもなかよPたちにも何も言えずにいる。
最後の日がやってきた。一学期の終業式だった。私はいつものように教室の前に立たされて、最後の挨拶をした。結局一度も話すことのなかったクラスメイトたちのほうが、きっと多かった。この教室に特に思い入れもなかったはずなのに、「今までありがとうございました」と言った途端、泣けて来てたまらなかった。ぐ、と堪えて下げていた頭をあげる。明日から始まる夏休みに浮かれる生徒たちは、おざなりな拍手をぱらぱらと私に向けるだけだった。
終業式は午前で終わる。各々が重たい荷物を抱えて生徒玄関に走る中、私は飼育小屋に向かった。窓一枚隔てた廊下の向こうには明るい喧騒があるというのに、中庭はまるで静止絵のように静かだった。その絵の中で、僅かに蠢く茶色がある。ほっとしたのは、いつもの昼休みのように彼が小屋の中の掃除をしていたからだ。いつもと違うのは、階段に投げられたランドセルに、図書袋。夏休みの宿題に必要な、絵の具とバケツ。私は自分の荷物を隣に置くと、飼育小屋に向かった。フェンスを隔てた先で、彼の背中は黙したままだ。
彼は、私の気配を察していながら、何も言わなかった。私もしゃがみこんで、こちらに向かって鼻をひくつかせるちゃOの体を指で撫でる。「葉っぱ、あげていい?」沈黙に耐えられずにそう尋ねると、彼は長い空白の後、「好きにするといい」と呟いた。
彼の様子は、いつもとは明らかに違った。私の方を見ようとはせず、寡黙で、もうきれいになった小屋の中から出てこようとはしない。私はその普段との違和を自ら埋める勇気はなかった。どれくらいそうしてお互いが黙ったままでいたのか、廊下からもその先の生徒玄関からも少しずつ生徒の気配が消えていった頃、彼は、ようやく口を開いた。
「中に入ってみるか」
「え?」
乾ききった口で尋ね返した短い音が掠れる。彼はその日初めてこちらを見た。きちんと返事をしていないのに、中から飼育小屋の扉を開けたほとんど変わらない目線の男の子は、緊張した面持ちで私の手を取って、引く。無理にそうされたから、つんのめって転びそうになった。彼の手は熱く、汗ばんでいた。外の暑さとはまた違う、むわ、とした熱気と、僅かな獣の臭い、自分の足首ほどの高さしかない三羽の茶色いうさぎたち、中身の入った水入れ、自分の背丈ギリギリしかない小さな飼育小屋の中、私はほんとうに、世界から切り離されてしまったと思った。
明後日には、私はこの土地を離れる。次の赴任先は、ここから遥か北の街だ。夏でもそれなりに涼しくて、特産物はメロン。だけど、そうやって48時間後にはこの街にいない自分を、この人とうさぎたちと別れる自分を、私は想像できない。全部嘘だとすら、思ってしまう。繋がれたままの手が熱くて痛くて、足元になかよPがすり寄っていることにもやっと気付いた。立っていられなくて、本当はしゃがみこんで声をあげて泣きたかったのに、それもできない。
目の前の男の子は俯いていた。何も言わなかった。元気でも、さようならも言わない、うさぎの話も、彼は何もしてはくれなかった。飼育委員になればよかった。そうしたら私は、もっと早くこの中に入って、きっともっとこのひとと、この子たちと仲良くなれた。
「ねえ」
込みあげてくる涙を飲み込んで、私はそこに立つ、不器用で優しい名前も知らない男の子に声をかける。
「明日も、来る?」
明日だけじゃなくて、明後日も、その次も、夏休みが終わっても私たちが五年生でなくなっても。彼は私の問いかけに顔をあげた。その頬に僅かな赤みが差しているような気がした。私たちはそのとき、確かにただの子供で、だけどどうにもならないことに声をあげて泣きわめくことができるほど幼くもなかった。彼は笑った。「くる」って。すこしだけ、歪んだ笑顔だった。
「――飼育委員だからな」
私はその二日後、誰にも見送られることのないまま北の街へと引っ越した。私は結局彼の名前を知らないまま、彼も私のことを「魔界より召喚されし邪悪なる者」としか呼ばないまま、私たちはそうして別れたのだった。
絶滅危惧種の繁殖に成功した天才中学生。
数年後、夕方のニュースに流れた彼の横顔は、あれから少しだけ大人びて、インタビューにも相変わらず訳の分からない言葉で切り返して、空気を凍らせていた。「変わった子ねえ」。夕食を食べていた母が感心したような口調で私に同意を求めるけれど、私は声も出せなかった。田中くん。田中眼蛇夢くん。ガンダムって。「へんな名前」やっとの思いで呟いたけれど、テレビはもう車のコマーシャルに切り替わっていた。
私の家は所謂転勤族で、中学校を卒業する前までは転校なんて日常茶飯事だった。だけど、高校生になってしまうとそう簡単に学校を変えることなんてできない。父は単身赴任をすることになった。もっと早くそうしてくれればよかったのに。と思わないでもないけれど、世帯が二つに分かれてしまうといろいろお金だって物入りになるから、それも難しい話だったのだろう。
私が通うことになった高校は商業高校で、偏差値はまあ普通。小学五年生のときに過ごした街から電車で五駅ほど離れた土地にあったけれど、単純に、そこを選んだのはそこそこ都会で交通の便もよく、大学進学のことまで考えたときに苦労がなさそうだったから、という理由でしかない。あとはまあ、お母さんがあの街の雰囲気を気に入っていたからだ。
田中くんのことは、子供の時の思い出として処理していた。彼のことを思い出すたびに当時の黒歴史を思い出してしまって、おかげさまですっかり枕に顔を埋めてじたばたする癖がついてしまったけれど、それでも転校の多かった私にとって、彼は特別だった。田中くんはあれからも、動物のことについて学んでいるのだろう。将来は動物学者だろうか。もしかしたらこの街の近くに住んでいるかもしれないと思うと胸が高鳴らないでもなかったけれど、街で出会うような偶然はそう簡単には起こらない。そう思っていたのに。
「貴様、まさか……魔界より召喚されし邪悪なる者ではないか?」
程好い緊張感と和やかな空気のあった教室は、彼の登場で凍りついた。校則通りに制服を着た新入生の中で、彼は明らかに異質で目を引いた。悪い意味でだ。しかも良く通る大きな声は、訳の分からない単語の羅列だ。そう、私以外ににとっては、だけど。
隣の席になった女の子と会話をしていた私は、私を「魔界より召喚されし邪悪なる者」と表現した男の子のことを見上げる。心臓がばくばくした。嬉しかった、というよりも、勘弁してくれ、と思った。
「ふはははは!! こんなところで会えるとはな!! 前世からの因縁の決着をつけるときが来たようだ!!」
「……え、さん、知り合い?」
「あ、えっと、知り合いっていうか……」
折角仲良くなれそうだった女の子が、明らかに何かを察したような目で私を見る。心の距離が一気に遠ざかったのは気のせいではない。だけど、田中くんは私に手を差し出した。あの日の、飼育小屋でのように。「魔界より召喚されし邪悪なる……いや」彼は言う。
「」
一度も呼んでくれなかったその名前を、田中くんはほんとうに、何てことないように口にした。どうしてわかるの。頬が張られたように痛くて、私はとうとう何も言えなくなる。時間が止まったような気がした。いや、ちがう、巻き戻ったのだ。
私は子供に戻る。五年前の、ちょっと早熟でやさぐれた、やせっぽちの私に。そこでは彼と私の背丈は変わらず、足元には鼻をひくつかせたあの子たちがいる。いつも清潔に保たれていた飼育小屋、たった一人の飼育委員の堂々とした背中、あの子たちの写真に塗装の剥げたフェンス、食べさせてはいけない草。泣きたくなった。私は今もあのころのままだった。
田中くんが差し出した手を、今度は自ら取った。五年前と同じくらい、熱かった。教室はずっと静まり返っていた。目の前の田中くんは昔よりもずっと背が高くなって声が低くなっていた。目つきが悪くて、わけのわからない言葉を使って周囲を惑わせて、今だって彼の存在はあまりにも鮮烈だ。私はもしかしたら、また孤立するのかもしれない。五年前のように。だけどそれでもいい気がした。あの頃とおなじように、二人で世界から切り離されたって、いいとすら思えた。彼のマフラーから数匹のハムスターが顔を出す。私はそれを見て、笑う。
「久しぶり、田中くん」
田中くんは私を見下ろして微笑んだ。それはあの夏の日と違って、随分と力強く、不敵な笑みだった。