真宮寺是清は恋をしている。
永遠の恋をしている。砂の牢屋に閉じこもり愛を語る彼は滑稽にも見えるがまるで美しかった。果ての村だ。山奥の、若者など数えるほどもいない過疎の村。両親と姉と四人でひっそり暮らしていた是清は、ある日不幸な事故により父母を一度に失うことになる。失意の底に暮れる日々、まだ年若い少年少女と言っても過言ではなかった二人の未来は閉ざされたかのように思われた。しかしそこは過疎の村。憐れんだ村人たちの惜しみない手助けにより、二人は生き延びる。姉の方は病弱であったけれど、美しく賢い姉弟であった。米を貰い野菜を貰いそれでも家族の愛を失った二人は、断ち切れぬ強い絆で結ばれた。それを彼は愛と呼んだ。
彼は愛のさなかにいる。
「さん、と言ったかな? 一緒に校内を見て回らないかい?」
初めて彼が私に声をかけたのは、この奇妙なコロシアイが始まってすぐのことだった。見ず知らずの人間との疑心暗鬼に塗れた共同生活の幕開けに、誰もが神経を尖らせていたのは言うまでもなく、それは恐らく彼も同じであったろう。少なくとも私はそう考えた。けれど彼は、大勢の人物の中から、体育館の隅に立ち尽くす私の元まで一本の線に導かれたかのように、真っ直ぐ向かって歩いてきたのだった。まるで私を選び出したように。
長身痩躯に男性にしては長い髪、口元を隠すマスクに古めかしさを感じさせる学生服に学帽、超高校級の民俗学者という肩書を持った真宮寺是清は、圧倒的な存在感を持って私を見下ろしていた。彼の頭から足の先までをしげしげと眺めた私は、一層首を傾げることになる。どんなに虚勢を張っても、普段の癖から目の前の不思議な人物を分析してみても、私の動揺は消えなかった。いっそ拍車をかけるばかりだ。私は、逃げ出したくてたまらない。真宮寺是清からも、この空間からも状況からも。
けれど、彼は黙ったままの私の腕を優しく取った。その触れ方があまりにも丁寧でやわらかくて、私は、寒気も恐怖も抵抗感もすべてを飲み下した。誰かにこんなふうに触れられたのは、生まれて初めてだったのだ。
真宮寺是清は恋をしている。
是清の姉は美しかった。艶のある黒い髪、化粧を施さずとも白く透き通った肌に、桃色の唇、しなやかな体、程よく膨らんだ乳房に柔らかな曲線を描く腰、なめらかな皮膚。しかし是清がいっとう美しいと思っていたのは、その指であった。関節の窪みも、薄い桃の色をした爪も、左の手の甲に一つだけあった黒子も、その全てを是清は深く愛した。学問を追及するために村を出ることになった時も、その手の精巧な模型を作って荷物に忍ばせたほどであった。彼はそれを愛と考えた。
「さんの手はとても美しいネ」
独特な声音で彼は今日も私の手を褒める。撫でる。時折頬ずりをする。繰り返す日々。時折起こる殺人、裁判そして処刑。疲弊した身体と脳で私は真宮寺是清の変わらぬ姿を眺めている。彼の研究室が私たちの前に現れてからは、二人で入り浸るようにそこにいた。ひんやりと冷たい床だった。椅子も与えられぬまま私はそこに尻をつき、一日のほとんどを真宮寺是清と過ごした。彼は私を他の人と接触させたくないらしい。私が誰かに声をかけられそうな雰囲気を察すると、自然な所作で私を庇い、手を引きその場を去る。おかげで私は真宮寺是清以外の人物と会話をした回数がほとんどない。けれど、それを楽だと思う自分がいるのも確かなのだった。
慣れるはずがないのだ。知らない人間と寝食を共にする日々、神経を尖らせ周囲に気を配る生活、命を奪われる仲間たち、恐怖で麻痺した脳がぱきぱきと音を立てて凍っていくのを感じる。私は思考を殺して真宮寺是清の陰に隠れる。真宮寺是清は私を気に入っている。慈しむように手の甲を撫でられる。大切に扱われている。彼が私の甲の黒子に口づける。何も感じない。私はもう、いや、そもそもはじめから、生き抜ける気がしていない。
真宮寺是清は恋をしている。
村から離れた是清は、姉への想いを忘れることはなかった。どんなに遠く離れていても、記憶の中の姉は気高く美しいまま、是清に愛を囁いた。是清は姉の声を鼓膜に張り付けたまま友人を作り、体を動かし、きちんと食事を摂り良く眠った。時折友人の中で孤独を感じることもあったけれど、是清の心には常に姉がいた。決して辛くはなかった。だから余計に、姉のことを是清は考える。是清は村を出ることを望んではいなかった。世界の果てのような、取り残された村の片隅で、姉とその日暮らしを続けていられるのならばそれでよかった。長閑な村、よそ者の寄りつくことのない過疎の村、人口は年々減り続け、あばら家が雪の重みで崩れ落ちる、作物を狸に盗まれるような、是清を育てた小さな世界は、けれど、容赦なく二人に牙を剥いた。「あの二人はどこかおかしい」根も葉もないうわさ話に過ぎないと否定する村人たちも多い中、やわからな心を持った姉は体だけでなく精神までも病んだ。是清は逃げるように村を離れた。姉がそうしろと言ったから。愛していたから彼は姉に背を向けた。これが彼の愛だった。
「僕には姉さんがいたんだ」
髪を撫でられ目を閉じる。子守唄のようななだらかな声。抑揚の少ない音。この部屋は酷く寒い。暖をとるように爪先を擦り合わせても靴の先が引っかかりすり減るばかりだ。真宮寺是清は、私の黒髪をすく。きれいな髪だネと呟く。その手が肩に、胸に、腹に、腰に落ちていく。形を確かめるようになぞる。くすぐったさに身を捩ることも、私はない。真宮寺是清は満足そうに笑う。狂った男。私の直感は正しく本質を捉えておりました。目を閉じたままの私の手に、彼は今日も頬ずりする。その瞬間に目を開けた。男の人とは思えない、手入れの行き届いた滑らかな頬、私は意思を持って真宮寺是清の口元を覆うマスクを引き下ろす。けれど敵わない。剥ぎ取るよりも速く、驚くほどの力で手首を抑えつけられる。私を見下ろす両の目が、鬼のように濁る。
真宮寺是清は恋をしている。
是清は姉の手の模型を撫でる。頬ずりする。口に含む。姉を思い出す。体中の組織や細胞すべてに姉を想起させる。睫毛の長さは是清の親指の爪ほどであった。顎に手を添えたときに触れる頬骨の形、ふっくらとした唇のやわらかさ、くすぐったそうにあげる声、こんなことになるのなら、手だけではなく、腕も肩も胸も腰も女性器も足も、首も頭も、そのままの姉を作っておけばよかったと是清は思った。是清の記憶は、村を出て数年がたった今、僅かに薄れていた。友人たちの声が、姉のそれを潰した。隣の席に座る女生徒の突き出した唇が、姉のそれを食い尽くした。消える。消えてしまう。是清は姉を愛していた。愛していた。愛していたから、姉は死んだ。
姉が死んだのは冬だった。凍えるような雪の中、姉は病に殺された。
真宮寺是清は髪を伸ばす。仕草を真似る。目つきを真似る。喉仏を潰したいと考える。鏡の前で紅を引く。それをマスクで隠すのは、二人の愛が永遠に二人だけのものだと信じていたからだ。真宮寺是清は恋をしている。真宮寺是清は愛の中にいる。砂の檻の中、正座をし、背筋を伸ばし鏡を見る。姉は死んだ。是清の姉は死んだ。姉は静かに息絶えた。
私がそれを知っていると知ったら、狂った是清はここで命を絶つか。
「あなたは、ドルシネアを知っている?」
「ドン・キホーテの登場人物だ」
「そう。ドン・キホーテが作り上げた空想上の貴婦人。気立てのいい素晴らしい女性。けれどそれは彼の妄想。ドルシネアなんて女は、初めからいない」
「…………何が言いたいの?」
私の手首をぎりときつく握りしめる真宮寺是清は目を細める。私はその目を見上げる。美しい顔をした人だった。狂っていなければ、頭がおかしくなければ、現実を見ていれば私だけを見ていれば。だって優しい人だもの。一番に死にそうな私をすぐに見つけてくれたんだもの。守ってくれたんだものたとえそこにドルシネアを見ていても。真宮寺是清の顔色は徐々に徐々に白くなる。
「お姉さんはいない」
どこに、とは言わない。だけどみるみる、私の手首に力がこめられていることを考えれば、彼の思考を読み取ることなど容易かった。
「それが精神科医としての君の診断かい?」
首を、振る、振り終える頃、私は嘘を吐きました。「私の願望」骨の砕ける音を聞きながら。
真宮寺是清は恋をしていた。姉のために生きていた。
けれど、今真宮寺是清の中に姉はいない。姉は既に食われた。かつての友人に、同級生に、重ねた日々に姉は食われたのだった。彼が演じるのは、彼の記憶に微かに張り付いた姉であり、それはもはや姉と呼ぶには相応しい代物ではなかった。いくら紅を引いても髪を伸ばしても声を裏返してもそれは長身の、男だ。あまりにもおぞましく、惨めだ。それを自覚したとき、真宮寺是清の腕の中には、姉の代替物として手に入れた人形があった。
「さん」
黒いつややかな髪をした女性だった。彼女の白い手はやわらかく、しなやかで女性らしい丸みを帯びていた。あまり笑わない、いつも不安そうな顔をしていた。姉に似ていた。真宮寺是清は恋をしていた。姉と似ていたから恋をした。いやむしろ彼女は姉そのものだった。顔も声も身体も腕も脚も仕草も彼女は是清の姉だった。だから手を伸ばした。彼女を欲しいとおもった。姉の代わりの人形だった。真宮寺是清はこれを恋だと思った。
「さん」
けれど彼女は姉ではなかった。姉のように、彼に優しくはなかった。力なく微笑むことも彼の愛撫に声をあげることもなかった。いつも力なく両手足を放り投げ、泣き出しそうな顔で彼を見ていた。だから彼は彼女を姉だと思うことをやめた。いつからだったろう。いつのころからだったろう。名前を呼んでもぼうっと彼を見つめ返すだけの彼女の、本当の姿、表情を、声を知りたかったと、真宮寺是清は考えた。外の世界での彼女を、彼は知りたかった。「さん」そう思っていたことを、彼は、今思い出した。
なぜなら彼女が隣にいる間は、姉を思って狂うことなどなかったのだから。
マスクを引き下ろす、紅を服の袖で拭う、時間のかかる化粧を乱暴に落として姉の息を止める、腕の中のはただ眠っているようで、真宮寺是清はその頬を撫でる、何の反応も示さないの唇を舐めると、それはもはや、彼の良く知る、ただの死人であるように思えた。真宮寺是清はの名を呼ぶ。何度も何度も呼ぶ。彼女の白い首に残る自分のそれに良く似た指の痕を眺めながら、彼女にドルシネアと揶揄された姉の存在を、自分の生い立ちを、あの過疎の村を、今、真宮寺是清は疑っている。