切羽詰まった様子のさんに声をかけられたとき、僕は丁度食堂から出てきたところだった。もしかしたら彼女は誰かに助けを求めに食堂にやって来たのかもしれない。丁度良かった、助かった。そう言った類の言葉を向けられて、僕は「何かあったの?」と首を傾げる。



「お願い、ちょっとこっちに来て」

「えっ? ちょ、ちょっと」



 彼女は戸惑う僕に構わず腕を掴んだ。躊躇いもなく引っ張られ、声が上ずる。何か事情があるのは間違いないが、こんなところを王馬くんに見られでもしたらからかわれることは必至だ。
 ぱたぱたと音をたてる足音は彼女特有のものであるけれど、それが今はこんなに近い。彼女が頭のてっぺんあたりに作るおだんごはちょうど僕の目の高さにあって、その毛のふわふわとした女の子らしさに、僕は少しだけどきどきしてしまった。この状況がそうさせるのだろうか。今日は何だか普段の彼女と違って見える。一体何があったのかは分からないが、こうして頼ってもらえること自体は嬉しい。僕なんかで役に立つだろうかという不安が脳を掠める一方で、面映ゆい気持ちがじわじわと胸を侵食していく。
 しかし彼女は僕にとって思いもよらぬところで立ち止まる。王馬くんどころか、誰にも遭遇することがないほど短い時間繋がれていた手は呆気なく放された。一階の女子トイレ、僕には一生縁がないだろう場所の前で。さんは事態を呑み込めずにいる僕に懇願するように頭を下げた。



「何も言わずに入って」

「は……? いや、待ってでもここ女子……」

「大丈夫今は誰も入ってないから」

「そう言う問題じゃ……」

「お願いお願いお願い緊急なの!」



 僕よりも小柄なさんは僕の腕を再び掴むと、女子トイレのドアを蹴破らんばかりの勢いで僕をその中へと引きずり込んだ。情けないことに、咄嗟のことだったとは言え僕は力比べで女子に負けてしまったのだ。悲鳴をあげながら女子トイレに入れば、彼女は僕が出ないようにすぐに扉をその背で塞いでしまう。



「……ね、ねえ、さん……」



 廊下と女子トイレを繋ぐ唯一の出入り口である扉の方を向く。僕の背後には見慣れた男子トイレとそう大差ない内装の……いや、男子用の便器が無いと言う一点に限ればそれこそが大差に違いないわけだが、とにかく踏み込んではいけない聖域に似た空間がある。大っぴらに息すらしてはいけないような気がした。それほどに、僕にとってここは神聖な、不可侵の場なのだった。
 さんは両手を広げて見事な通せんぼをしてみせる。そんなことをしなくても、理由があってこんな行動をとったのならば、それを聞かずに出て行く気はない。勿論、勢いよく飛び出した先で誰かと遭遇することを恐れているというのもあるんだけれど。尤も、今この校舎にいる面子を考えれば、理由も聞かずに僕をからかったり怒るような人なんて限られてくる。随分と仲間が死んでしまった。こんな場所だっていうのに、不意にその空虚さに打ちのめされそうになった。



「このトイレ、虫がいるみたいなの」



 彼女が真剣な、そして今にも泣き出しそうな顔でそんなことを言い出すまでは。








「そう、その、一番奥の個室、の、なんか下……?」



 そもそも僕が食堂から出てきたとき、さんはちょうど向かいにある倉庫から出てきたところだったらしい。さん曰く、トイレで用を足そうとしたところ、トイレの壁の隙間から足元に向かって動いた塊がいた。慌てふためいた彼女は、殺虫剤を取りに倉庫へ向かう。しかしゴン太くんが言っていたようにここには元々虫の類が存在しない。それ故か目当てのものを見つけることは叶わず、どうすべきか悩んでいたところ、虫を退治してくれそうな男子を発見した、らしい。



「僕も、そんなに虫は得意じゃないんだけど……」

「で、でも男子なんだから、しっかりして……!」



 赤松さんと茶柱さんが混ざったようなことを言うものだ、と思いながら、僕は掃除用具入れに入っていたモップを片手にじりじりと女子トイレの一番奥の個室へと向かう。
 そもそも、彼女が見たものは本当に虫なのだろうか。ここには虫がいないわけだし、何か、見間違えたのではないか? 個室の扉を閉めたところで足元には僅かな隙間がある。そこから誰かが何かを滑り込ませた、とか。今この学園にいる女子生徒の顔を脳裏に浮かべる。つまり白銀さん、春川さん、夢野さんのうちの誰か。いや、誰もそんな悪戯はしそうにない。誰かが故意にやったのでなければ、何かの拍子、例えばさん本人が個室に入る寸前に蹴とばした何かが緩やかな角度のある床をじりじりと滑って、最終的に彼女の足元にという可能性も無きにしも非ず。だがこの床の凹凸や傾斜では無理があるだろう。残る最後のパターンに思い当たって彼女に向き直る。



さん、飛蚊症とかじゃないよね」

「そんな王馬くんが言いそうなこと言わないで!」

「あっごめん……」



 全く意図はなかったのだが、怒られてしまってつい謝罪した。
 さんの見間違えであることも考え得るが、今それを確認したら本気で怒鳴られそうだ。しかし、奥の個室だと言われても、そこにいるだろう虫の類を退治するという大義名分があったとしても、どうしても躊躇いが勝る。一歩ずつにじり寄るようにして件の個室へと進んではいるが、この動機は正体不明の虫と対峙しようとしていることに対するものなのか、それとも女子トイレにいるという自分に対するものなのかが最早判別不明だ。



「……私、廊下に出ててもいい?」

「今そうされたら僕もここから逃げるよ」

「だよね……。わかった。ここで応援してる」



 自分勝手なさんはそんなことを言いながら扉の前から動こうとしない。余程近づきたくないのだろう。しかしがんばれがんばれと手拍子付きでの応援は気が散るからやめてほしい。
 ちらちらと視界に映り込む女子トイレに、男子トイレとはちょうど対照的な造りになっているんだな、なんてことを考える。本来男子便器があるはずの場所にはその分手洗い場が設けられていて、身だしなみを整えるのに使うからだろうか、なんてことを冷静に分析していたら、本当に僕はとんでもないところにいるんだなと実感してしまう。しかし、それもこれも、さん、ひいては女子皆のためだ。食堂の近くのトイレなんてきっと一番使用頻度が高いだろうし……いや僕は何を考えているんだ、やめろ、集中するんだ。
 覚悟を決めてモップを握りしめ、とうとう先ほどさんが使ったと言う個室、いや違うこの言い方はまずい、虫がいるらしい個室の前へと立つ。洋式の白い便器は蓋がきちんと閉じられていて、罪悪感がやや薄れる。まずは床の上を確認する。次に壁。便器の側面。順に確認して行ったけれど、特に変わった様子は見られない。



「どう……?いた……?」

「いや、いないみたいだ」

「えええ? 嘘だあ! 絶対いるって、良く見てよお!」

「そう言われても……」

「わ、私毎日そのトイレ使ってるんだよ? ここで捕まえてくれなきゃもう使えないよ!」

「そ、そうなんだ……」



 余計な自己申告に動揺する僕に、彼女は「もっとよく見て、お願い」なんて無責任なことを言ってのける。もっとよく見てって言われても、いないものはいない。これ以上どうしたらいいんだよ。一応隣の個室も同じように確認してみたけれど、どうしたって虫なんか見つからなかった。
 そもそも、あのゴン太くんがいないと言った虫が、本当にこんなところにいるのだろうか? なごもう会のときに孵化したあの大量の虫がここまで飛んできたという可能性もなくはないだろうけど、あのゴン太くんがそれを見逃すとも思えないし。



さん、やっぱりいないよ。見てごらん」

「い、いやだ、近づけない」

「そもそもどのくらいの大きさだったの? 虫って言ってもいろいろあるじゃない。蝿とか、あとはゴ」

「そっ、そんなんじゃないよ! もっと大きいんだよ!」

「え? もっと大きいって……」

「これくらい、こーんなくらい!」



 それはもう虫の粋を超えていないか? と思う反面、僕は彼女が手で示した大きさを見て、そして、彼女の姿を改めて見つめてみて、一つ思い当たってしまったのだ。
 もしかして。思い切って彼女が示した奥の個室に足を踏み入れる。外側からパッと見ただけでは気が付かなかったが、中から一度扉を閉めてみたところでそれは確信に変わった。丁度扉の裏側、そこにいたのだ。いや、あったと言った方が正しいだろうか。
 僕はそこに落ちていたものを取って、「さん」と声をかける。



「いた?」

「ううん。そうじゃなくて、これ……」

「えっやだやだ虫とか見せないで」

「いや、違うんだけど」



 黒いポンポンのついたヘアゴムを彼女に見せると、さんはコンマ三秒きっちり直視した後、自分の頭のてっぺんのおだんごに触れて、それから非常に小さな声で「すみませんでした」と呟いた。
 食堂からこのトイレに向かう際、何だかさんが普段と違って見えた。彼女が僕の手を掴んでいたせいかと思ったが、そうではない。本当に違ったのだ。いつもおだんご頭をまとめている彼女のヘアゴムがなかったのだから。








「良かったら、これをもらってください……」



 その夜、彼女の部屋に呼び出された僕は彼女手製のぬいぐるみを受け取ることになる。超高校級の手芸作家である彼女は、女子が好みそうな小物類を作ることに長けているのだ。様々な布の端切れを繋げて作ったとみられる猫のぬいぐるみは、それぞれ柄が違うために収集家も多いと白銀さんが教えてくれたのを思い出す。なるほど、こうして直接手に取ってみると、男の僕でも可愛いと感じてしまう。



「男の子にぬいぐるみっておかしいかなって思ったんだけど、アクセサリー系なんかあげるわけにいかないし……本当はそっちのほうが得意なんだけど」

「いや、ありがとう。部屋に飾るよ」



 僕の言葉にぱっと笑顔になったさんの頭のおだんごには、ピンク色のリボンのモチーフがついたヘアゴムが添えられている。



「それも作ったの?」

「あ、これ? うん。それのあまった布で」



 ちょうど、猫の顔のあたりに使われていた布地を指差す彼女は、「ピンクの虫はいないし、これで同じことがあっても見間違えないよね」と笑った。ああ、そっかお揃いだ。不意に思ってしまった僕は、もしかしたら顔が赤かったかもしれない。僕は彼女の代わりに猫のぬいぐるみを見つめながら、「そうだね」と頷いた。