「燃えて灰になるとか、隕石が落ちるとか、異空間に飛ばされるとか、兎に角滅茶苦茶になってほしい」



 誰もいない春の屋上、卒業証書の入った仰々しい黒い筒を持ったその人は、霞む視界の奥で、酷く優しい目をして笑った。








 とてつもなく狭い空間で目が覚めた。
 吐き気を催したのは、そこが酷く臭ったからだ。濡れた雑巾とでもいえばいいのか、鼻につく臭気に咄嗟に口元を覆う。はずみで後頭部を勢いよく背後の壁にぶつければ、それは存外安っぽい音を立てて私ごと僅かに揺れた。
 聞き慣れたスチール音だ。痛みに耐えながら、体の左側から差し込む細い光の線に目を向ける。臭くて狭いこの空間は、私の積み重ねた知識と経験から考えれば、掃除用具の入ったロッカーの中なのだろう。咄嗟に、出なければと思う。恐る恐る扉と思しき側面に手を伸ばすと、それは大した力を込めずともすんなり開いた。いや、外側から開けられたのだ。自分を染めた暗闇の中に、その手は酷く白かった。



「にしし、なんだ。やっぱり人がいたんじゃん」



 男の子にしては小柄なその男の子は、改造を重ねたと思われるパンク風の白い学生服に、白と黒のチェックのスカーフを巻いて、悪戯っぽく微笑んだ。








「相変わらず悲惨だね」



 お弁当箱の中身を指差して彼は言う。冬の屋上に他に人はいない。そもそも、何年か前に飛び降り未遂があったらしく、立ち入り禁止なのだ。約一年前の春、ここの鍵をこじ開けたのは彼だ。



「そんなことないよ。胃に入ったら大体こうなるんじゃないかな」



 ご飯もおかずも全てぐちゃぐちゃに混ざり合ったお弁当を突っつきながら、胃の中なんかみたことないけど、と心の中で思う。膝の前に置いた蓋にはべたりと米がくっついていて、あとでこの一粒一粒も丁寧に食べなければならないと思うと気が滅入る。今日は隠された場所が場所なだけあって、食べ物とは思えないにおいがする。食欲が減退するどころの話ではないけれど、全て食べないと作ってくれた母が心配するし、そもそも何だか負けた気がする。なんて、言い返すこともやり返すこともできていない時点で私は既に「負け」ている。



「にしても、女子って陰湿だね。君のお弁当箱、毎日そんな目に遭ってるじゃん。隠せばいいんじゃないの?」

「でも教科書破かれるよりマシじゃない?」

「じゃあオレはそれより悲惨な目に遭ってるわけか」



 箸でお弁当を指しながら、彼は何て事の無い様に言う。びゅうと風が吹き抜けて、私たちは揃って体を震わせた。防寒具はマフラーだけで、どちらともなく身を寄せ合う。



「さむい!」

「さむいねー」

「あったかいの買ってきてくださいよ先輩」

「いやいやこういうときは後輩が買ってくるもんでしょ」

「じゃあ二人で行く?」

「絶対やだね」



 くっついた先輩の体は暖かい。生きてるんだ、と当たり前のことを考えている自分に驚く。傷の舐めあいでもよかった。私のお弁当箱は雑巾の臭いがする。








 超高校級の総統と肩書きのついた彼は、それはそれはめちゃくちゃな人だった。訳の分からない学校に連れてこられコロシアイを強要させられた私たちが結束しようとする度にそれを壊し、不信感を煽るような発言を繰り返す。中心となって脱出を先導した赤松さんの行き過ぎた正義感をまるで悪であるかのように指摘し、殺されるかもしれないと泣き喚いたかと思えば次の瞬間にはけろりと笑っている。その変わり身の早さたるや。しかし道化と言い切るには悪意のあるその言動に振り回されるのに辟易し、距離を置こうとしたのが天性の嗅覚で嗅ぎ取られてしまったのか、はたまた、目が覚めたときに同じ教室にいたという巡りあわせのためか、彼は私をからかうことをいっとう好んだのだった。



「ねえねえちゃんはさあ、次はだれが殺されると思う?」



 二人減った食堂で、彼は私を名指ししてそう尋ねる。「ちゃんって呼ばないで」返事に窮してそれだけを口にした。何故だろう。他の子に名前で呼ばれてもなんとも思わないのに、この人に呼ばれるとぞっとする。王馬小吉は口角を引き上げて、明らかな作り笑顔でこう言った。



「やだよ。ちゃんはちゃんじゃん」



 あなたが嫌がる素振りを見せるから、きっと彼も面白半分につっかかるんでしょうね。食後の紅茶を淹れながら、王馬小吉の後ろ姿を見送った東条さんが私にこっそり囁いたけれど、私が無反応でいたってきっと彼は変わらない。半ば確信のようにそう思う。








「体育祭出る?」

「休む」



 屋上は空気が乾燥して喉が痛い。先輩は私に飴玉を一つくれた。塩レモン味。爽やかな空色のパッケージは、明らかに夏に買ったものの残りだ。ちょっと包装の中でくっついてるし。指先ではぎとりながら口に放り込むと、不思議な風味が広がる。自分では絶対買わない味だけど悪くはない。



「応援団の練習、良く見えるね」

「がんばってるねえ」

「そのまま頑張りすぎてさあ、くたばればいいと思うときがたまにあるよ」



 金網を掴んだ指先が、かしゃりと音を立てる。先輩の横顔をちらりと盗み見て、喉元まで出かかった「たまになら偉いよ」という言葉を飲み込んだ。目を細めてグラウンドを見下ろす先輩は、親に捨てられた子供のような顔をしていたのだった。



「先輩はこれが最後じゃん、体育祭も文化祭も、あとは受験だけだね」



 言いながら、勝手に傷つく私は滑稽だ。先輩は半年後に卒業する。そうしたら私はこの屋上で一人ぼっちだ。私には、彼が卒業したあとのもう一年が残っている。定期考査、球技大会、文化祭に体育祭、あと何度のイベントを乗り越えればこの日々は終わるのだろう。休むのだって、そう簡単ではないのだ。クラスメイトの笑い声に身を竦める、そんな自分を想像するのは息を吐くより簡単で、そして、少しだけしんどい。「ちゃん」先輩が私の名前を呼ぶから、私はほとんど目線の変わらない彼と目を合わせた。



「オレたちに人生は長すぎるね」



 応援団の野太い声、この人生の中で何度も耳にしたありきたりな応援歌、はためく学ランの裾、数年前誰かが乗り越えたフェンスは脆く、握りしめただけで軋んだ、瞬きをした瞬間、先輩が私の唇に自分のそれを寄せる、灰色の空が見える。目を閉じればすべてが闇の中に消え去った。
 先輩、私はあなたがいなくなったらどうしましょうか、先輩、先輩、何も言えずにすべてを飲み込む。言いたいことがある顔をするのは得意なのに、誰も何も聞いてくれなくなったのはいつからだったか。教室に戻れば私は空気になる。彼と出会ってから一年半、私が居ない間、先輩はひとりでどう生きてきたの。








 東条さんが人を殺すとは思わなかった。
 動機になったパッドを手にしながら、私は再生ボタンを押しかけて、躊躇って、結局ゴミ箱に捨てた。他人に関する情報を覗き見たい思いが一切ないと言えば嘘になるけれど、それを背負って平気な顔をしていられる神経は持ち合わせていなかった。要するに、事なかれ主義なのだ。最近は生徒会だなんだ、神様がどうこう、夜長さんが中心になってこの現実に耐えられなくなり始めた数人を集めて集会じみたことを行っている。私も誘われたけれど、断った。夜長さんは「いいのー? 本当にいいのー?」と凄むような上目使いで私に何度も確認をとったけれど、最終的には去って行った。来るもの拒まず、去るもの追わず。神様が必要になったら言うんだよー? と言われたけれど、神様なんかいたら私たちはこんなところにいやしない。
 ベッドに転がって天井を眺める。頭が痛いし、ずっと嫌なにおいに纏わりつかれている気がする。この学園は血なまぐさい。飛び散った肉塊に脳内で自動的にモザイク処理をかけたところで、嗅覚として残された記憶は色濃く私の中にこびりつく。



「くさい」



 手首に鼻を寄せる。私の皮膚は雑巾のようなにおいがする。








 先輩と過ごす二度目の冬、彼はあまり屋上にやってこなくなった。受験が忙しかったのかもしれないし、私から距離を置こうとしていたのかもしれない。良くわからない。そもそも私たちは、恋人同士だったのだろうか。くっついて座り、手を繋ぎ、傷の舐めあいのようなキスをする。その度緊張しているのは私だけで、彼のほうは、なんだこんなものかとでも言いたげな顔で私を見つめている。その瞳の空虚さにぞっとするのだ。
 先輩。あなたがいない屋上はあまりにも広すぎる。








ちゃん」



 名前を呼ばれて目を開けたら、その人は眼前で私の顔を覗き込んでいた。
 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったのは、今まで見ていた夢のせいかもしれない。ぼんやりとした輪郭に目をこすると、王馬くんは至極つまらなそうに眉根を寄せる。



「ぜんっぜんびっくりしないんだね……つまんない……」

「私、鍵閉めたよね……」



 自分でも、どうして悲鳴をあげることもなかったのか分からない。もしもこれが王馬くんではない他の誰かだったら私は躊躇いなく叫んだのだろう。部屋の鍵を開けるくらい、彼だったら平気でしてのけるだろうと無意識のうちに思っていたからか、それとも。
 私のベッドサイドに腰掛けた王馬くんは、足を伸ばして部屋をぐるりと見回す。「なんていうか、フッツーの部屋だね」と感慨もなさそうに呟いた。寝るだけの部屋に、普通も何もない。



「何か用事でもあるの?」

「ないよー。どれにしようかな、で当たった部屋がここだっただけ」

「まだ夜だよね? 何時?」

「三時」

「ああ、そう……」



 毛布を鼻先まで引き寄せて、私は再び目を閉じる。「うわ、ここで寝る?」心底驚いたような声で言われたけれど、翌日に差し支えることはしたくない。疲れていたのだ。そうでなくても入間さんが作り上げたゲームの世界で過ごしたせいか頭が重い。ぐるりと彼に背を向けると、背後で王馬くんが小さく息を吐いたような気がした。眠れないのだろうか。まどろみながら、そう思う。
 なんだかんだ言って繊細な人なのかもしれない。人を惑わすようなことばかり言って本心を掴ませてくれないけれど、今回ばかりは彼も本当に殺されるところだったようだし。ほとんど眠りに落ちかけているというのに、王馬くんは私の髪を梳く。身を捩りながら無意識に呟く。



「ほんとに、何がしたいの……」



 私の睡眠を邪魔するなんて。そういう意味だったのに。意識が途切れる瞬間に聞こえたその言葉を、私はどこかで聞いたことがある気がした。



「燃えて灰になるとか、隕石が落ちるとか、異空間に飛ばされるとか。兎に角滅茶苦茶にしたいんだ」








「受かったよ。大学。東京に行く」



 おめでとうございます、と言うべきだったのだろう。二月の終わり、彼とここで二人になるのは随分と久しぶりであるように思えた。来月卒業を控えた三年生は、もうほとんど学校に来ない。今日だって彼は進学のための手続きに来たようなものだ。私たちは、あと何回会えますか。緑色のフェンスが指先で軋む。



ちゃん」



 私は。



「オレがいなくても大丈夫?」



 そんな風に聞かれたら、大丈夫じゃないなんて、とてもじゃないけど言えないな。








「ねえちゃん。オレがいなくなっても大丈夫?」



 食堂を出るとき、彼が私の服の裾を掴んで言ったそれが、死を覚悟しての言葉だったと、私が理解していたら何かが変わっただろうか。








 私たちの出会いはロッカーだった。
 真っ暗で、雑巾のにおいが染み込んだその小さな空間に居た私を見つけたのが彼だ。あんなにも息を潜めていたのに、臭いに耐えられなくて鼻を抑えたその瞬間、物音を立ててしまった。乾いた靴の音がこちらに向かってきて、ああもうだめだ、そう思った。
 扉が開いた瞬間は、一瞬のようでもあったし、永遠のようでもあった。恥ずかしくて消えてしまいたかった。高校生にもなっていじめられているなんて、お弁当箱を隠されているなんて。無人の特別教室だった。誰も来ないと思っていたのに、だから気を抜いて、お弁当を食べていたのに。人の気配がして、驚いて咄嗟に私が逃げ込んだロッカー、こんなことになるなら堂々と一人で座っているべきだった。教室の隅に置きっぱなしの、半分くらい中身のなくなったお弁当箱は、今日もぐちゃぐちゃに混ざり合って混沌としている。
 黒い学生服が見えた。男子生徒だと知って、余計に泣きたくなった。「ああなんだ」気味悪がられると思ったのに、なのに、その人は私の顔を見て、困ったように笑ったのだ。



「やっぱり人がいたんじゃん」



 あなたがいない日々を、私はもう思い出せない。








 王馬くんが死んで、彼を殺した百田くんも死んだ。この得も言えぬ虚無はどこから生まれたのか。私は驚愕している。あんなに親しくしてくれた百田くんよりも、あれほど距離を置こうとしていた王馬くんの死を受け入れられないでいる。春川さんの後ろ姿を眺めながら、私は自分の顔が強張っていることに気が付いていた。目の前で処刑されていたら、私は彼が本当にこの世にはもういないということを受け入れることができたのかもしれない。まるで実感がない。だけどただただ、焼け付く様に胸が痛い。
 私たちの出会いはロッカーだった。あなたはほとんど泣いていた私の顔を見て困ったように笑った。お弁当のにおいと雑巾のにおいが混ざり合って、それは酷いものだった。私の手をとった彼は言った。「食べるところに困ってるんなら、屋上、貸してあげようか」違う。これは夢だ。私はあのとき泣いてなんかいなかったし、お弁当のにおいなんかするはずがない、屋上なんかこの学園にはないし王馬くんは私に「どーせボーイミーツガールするんだったら美少女が良かったな」と肩を落としてみせたのだ。ねえ、先輩。
 めちゃくちゃになってほしい。何もかも消えてしまったっていい。燃えて灰になるとか、隕石が落ちるとか、異空間に飛ばされるとか。
 彼が卒業してしまう高校に価値なんかない。オレがいなくても大丈夫かだなんて分かりきったことを聞かないでほしい、先輩が好きです、私はあなたにとって価値がありましたか、屋上でお弁当を食べた、時折手を重ね合って世界を呪って口づけた、めちゃくちゃになってほしいんです。先輩。何もかも消えてなくなればいいのにって思うんです。私を傷つけるクラスメイトも見て見ぬふりをする教師たちも毎日疑いもなくお弁当を作る母親すらも。校舎ごと燃えて灰になればいい、隕石が落ちてなくなってしまえばいい、異空間に飛ばされてそのまま消えてしまえばいい、ねえ先輩、こんなことを考える私はきっともうじき駄目になる。



「そのどれもが叶わないならいっそ遠くに行きたい」



 泣きながらそう告白する私に、卒業証書を抱いた先輩は、どこか慈しむような柔らかな瞳を向けている。








 夢の中の先輩の顔を、目を覚ました私はいつも忘れてしまっているのに、なのに、どこか王馬くんと似ているような気がした。堪えきれない嗚咽が噛みしめた唇の端から漏れる。最原くんに気遣われるように背中を撫でられても、私はもう立ち上がれる気がしない。







 大学には落ちた。面接が上手くいかなかったのだ。これで浪人決定といったところだが、それはともかくとしてオレは彼女に真実を伝えるべきかどうか迷っている。大学に受かったのも東京に行くのも嘘だと言う話ではなくて、とあるオーディションに応募したという話だ。それも、自分だけでなく彼女の分まで。応募倍率は毎回相当なもんだから、最初から受かるとは思っていない。自分が高校を卒業する記念みたいなものだ。現役の高校生しか受けることのできないオーディションであるために、自分にとっては今回が最後のチャンスだったのだ。
 まあ言わなくてもいいか。そう思ったのは、彼女がオレに負けず劣らずの破壊衝動を持っていたからだ。もしも二人そろって書類審査を通るような奇跡が起きたら、そのとき彼女に全てを打ち明けよう。本当は大学に落ちたこと、高校から電車で十五分の街に今もまだ住んでいること、ロッカーを開けて目が合った時からキミを好きだったこと、オレの方こそ離れがたく思っていること、だからこそ未練がましくキミと仮想空間での学生生活を望んでしまったこと。その中で記憶がなくなっても個性を植えつけられてもコロシアイを強要されても、ちゃんとだったら、きっと楽しい。



「あなたがいない世界なんか、燃えて灰になるとか、隕石が落ちるとか、異空間に飛ばされるとか、兎に角滅茶苦茶になってほしい」



 卒業証書を抱いたオレにそんな物騒な愛の告白をする彼女を、オレは心底愛しく思う。