「えっと、斬美ちゃん、って呼んでもいいかな?」



 他にも数多くいる女の子たちの中から、どうして彼女が私を選んでくれたのかは分からない。だけどさんは、私の傍にいることを好んだ。食堂のにぎやかな空気が好きなのだと言った。



「斬美ちゃんのところには、いろんな人がくるね」



 食べたいもののリクエストや部屋の片づけ、汚した服の洗濯、そうして私を頼って来る皆の顔を、読書の合間に眺めてさんは笑う。



「でも、読書に集中できないんじゃない?」



 彼女が読書に意識を向けるたびに、誰かが食堂に入ってくる。「ねえ東条ちゃーん! おなかすいたー!」ほら、こんなふうに。だけどさんは「それがいいの」と言う。変わった子だ。



「あっちゃんじゃーん! また本読んでるのー? どんな本? どんな本?」

「うーん説明しがたい」

「あっわかったエッチな本だね、ちゃんってそんな顔して意外と……」

「はっ? そんなわけないじゃん!」

「みんなに言いふらしてこよ! ばいばーい!」

「ちょちょちょちょ王馬くん? 王馬くんー!」



 時には本を放り投げて食堂を飛び出す。数分後にはきっと王馬くんに巻かれて、諦めて戻ってくるだろうから、冷たいお茶をすぐに出せる準備をしておく。



「逃げられた!」

「そうだと思ったわ。私が捕まえてきましょうか?」

「え、いいよいいよ、どうせ冗談だと思うし」

「それならいいのだけど。……お茶を飲む?」

「あっ! 嬉しいありがとう~!」



 ごくごくと音を立ててお茶を飲み干して、一息ついたさんが再び読みかけの本を開いた瞬間だった。再び食堂の扉が音を立てて開かれたのは。



「おい東条……ってなんだ、ド貧乳がもう一人いるじゃねえか」

「美兎ちゃんに比べればそりゃ貧乳だけどさあ……」

「おっ分かってんじゃねーか! オレ様の価値をしっかり理解してやがるな? 何なら触るか?」

「え、嘘触っていいの?」

「あっ? ちょ、ちょっと待って本気にしたのぉ……?」

「美兎ちゃんのおっぱい……触っていいの……?」



 明らかに怯んだ入間さんを気にすることなく、さんは立ち上がる。じりじりと入間さんを扉のすぐ横の壁際まで追い込む彼女の表情は私からは良く見えないけれど、さんはたまにこうして悪乗りをする癖がある。今も入間さんをからかっているだけだとは思うのだけど、止めた方がいいのかしら。そう考えていたときだった。食堂の扉が開いたのは。



「東条さん、ちょっと頼みたいことが……。――え?」

「――あ」

「や、やめて……っそんな強引に、しちゃ、いやぁ……!」



 私に用事があったのか、不意に食堂に入ってきた最原くんが、今まさに入間さんの体に触れようとしているさんを見て息を呑んだ。そして、す、と再び扉を閉める。



「あーっ! 違うの最原くん違うんだよーっ!」



 ずるずると床に座り込んで恍惚の表情を浮かべている入間さんを置いて、さんは再び走り去る。私はその慌ただしい後ろ姿を見送った後、入間さんの用件を確かめた。どうやら服に染みがついてしまったらしい。私は彼女が持っていた紙袋を受け取ると、すぐに中身を確認して染み抜きの作業を始めることにした。食堂を留守にしている間、さんが帰ってくると悪いので、ティーポットに紅茶の準備だけしてコゼーを被せておく。
 そうして私が食堂に戻ってくる頃には、さんはすっかり落ち着いた様子で読書に没頭していた。伏せた睫毛の長さ、小さな鼻梁に形のいい唇、ずっとそうして本を読んでいたらいいのに、だけどその真剣な眼差しが、不意に私に注がれる。



「おかえり斬美ちゃん」



 私はさんの、私を呼ぶ声が好きだ。



「今戻ったわ。入間さんに頼まれごとをされたの」

「美兎ちゃん、洋服持ってきてたもんね。汚しちゃったのかな」

「ええ。さんの方は、最原君をつかまえることはできた?」

「うん、王馬くんと違って真っ直ぐ走ってくれたから楽だった~。顔真っ赤にしてさあ、ほんと最原くんって純粋っていうか、なんていうか」

「だけどあなたも悪乗りは程々にね」

「だって美兎ちゃんが貧乳っていうから」



 唇を尖らせる彼女に、気にしていたのね、と少しだけ笑ってしまう。さんは私に不思議そうな目線を送るけれど、首を振って誤魔化した。視界の端で、彼女がきちんと私の準備した紅茶を淹れて飲んでくれていることを確認してから、私は「お腹は空かない?」と尋ねる。



「つまめるお菓子でも、準備しましょうか」

「やった! 斬美ちゃんも一緒に食べようね!」

「それが依頼なら、承るわ」



 さんは、あんな状況であっても、私の知らない間にほとんど本を読み終えている。








 私にとってさんは、春のような人だ。いや、もしかしたら他の皆にとってもそうだったのかもしれない。彼女は底抜けに明るくて、感情が表に出やすい。だから王馬君にはよくちょっかいを出されるし、その腹いせでもするかのように入間さんや最原君をからかう。白銀さんとアニメにもなったという小説の話で盛り上がり、獄原君に小説に出てきた虫の生体について尋ね、茶柱さんと鍋の具材について言い合う。夢野さんのマジック、いえ魔法を見たいと駄々をこね、天海君が赤松さんにマニキュアを塗ってあげている様を興味深げに眺め、真宮寺君と民俗学がテーマになった女性作家の小説の話をする。春川さんに避けられては落ち込み、キーボ君に思いもよらぬ流れで「ロボット差別ですよ!」と怒られ、百田君に笑われながら肩を叩かれ慰められる。夜長さんに神の存在を示唆されると、彼女は途端に眉を顰めた。勿論夜長さんにも、ひょっとしたらそうした本人すらも分からないくらいの、ごく微細な変化だった。彼女は無神論者だった。
 さんは表情がころころと変わる。豊かな感情を持った、ごく普通の女の子だ。だから驚かなくともよかったのだ。彼女が誰かに恋をするなんて、当たり前だった。彼女はだって、普通の女の子なのだから。
 さんは星君が好きだ。
 いつからだっただろう。私はそういった感情を自分で持った試しがないから、彼女の表情や所作で判断するしかないのだけど、きっとさんが星君を連れて初めて食堂にやってきた、あの日からだと推測している。いつものように図書室から借りた本を持って、お腹が空いたからと恥ずかしそうに笑った彼女は、向かい合うように座って本を読む星くんのことを何度も盗み見ていた。目が合いそうになると慌てて唇を結んで視線を本に落とすさんを、私は初めて見た。だって彼女は、いつもここに来る人たちと大口を開けて笑っていたから、追いかけまわして叫んで、時には真剣に議論をして、そんな彼女しか私は知らなかったから。
 きっとあの時すでに星君に好意を持っていたのではないだろうか。星君の方は、このときはまだ特別な感情をさんに抱いているわけではないということは、手に取るように分かったけれど。
 難しい恋をしたものだと、思う。
 星君は見ての通り、誰に対しても壁を作る人間だ。彼が常日頃から言っている、彼自身の過去に起因することは間違いない。自分の線の内側に踏み込まれることを拒む彼は、このコロシアイを強いられた日からずっと、自分を殺せと言っていた。生を諦めた人だった。そんな人に彼女は恋をした。真逆の人に、恋をした。
 さんの本を読むスピードは、目に見えるくらいに落ちている。








 何が二人の間にあったのかしら。気になってしまう自分に驚愕する。だって、あんなに星君のことを避けていたのに。さんは少し前に一度だけ、「図書室に行くと星くんがいるんだよね」と呟いた。失言だと思ったのか、それ以上彼女が言葉を続ける様子はなかったけれど、その言葉尻から彼女がそれを好ましく思っていないことがありありと感じられた。頼ってくれればいいのに。私が代わりに、いくらでも図書室に行くのに。だけど彼女は首を振る。
 さんは、私にあまり依頼をしない。夕食は何が食べたいか尋ねると、「転子ちゃんが鍋がいいって言ってたよ」と言い、部屋の掃除をしておこうかと尋ねると、「そこまで汚くないよ。ほとんど寝るだけだし」と笑い、ではシーツを洗おうかと言うと、「大丈夫大丈夫、でも、もし汚しちゃったらお願いするかも」といたずらっぽく首を傾げる。私が淹れたお茶や作ったお菓子は喜んでくれるけれど、それ以外、私は彼女のために何かしてあげたことはない。だから、図書室に行くくらいさせてほしかった。そうでなくても、せめて一緒に来てもらえないかと頼んでくれることを、私はどこかで期待していた。だけどその日が来るよりも先に、彼女は星君を好きになってしまった。
 星君はさんの好意を無下にするような人ではなかった。自分で引いた線を、彼はその足で消して、徐々に徐々に狭めている。彼女が入り込む余地を広げている。そうでなければ、あんな風に、読書の最中にさんを盗み見たりしない。食堂に来た王馬君と言い合うさんを、笑いながら最原君をからかうさんを、獄原君が説明のために描いた虫を見て本格的に怯えるさんを、あんな目で、見ない。
 どうして私を選んでくれなかったの。



「星君はここで本を読むようになってから、表情が和らいだ気がしていたの」



 探るようにそうつぶやく。星君は驚いたような目をしていたけれど、やがて視線を落とした。穏やかな目だった。そこに殺人鬼はいなかった。だから彼女はきっと彼を好きだった。



「……もしそうなんだとしたら、それはのおかげだろうな」



 さんは、星君から見えないように本で顔を隠す。自然な動作だった。読書に集中しているようにしか見えなかった。勿論それは、星君の座る位置から見ての話だけれど。だから彼女の隣に立っていた私は、さんが噛みしめるように目を潤ませていたことを、知っていた。








 さんが夜に私の部屋を訪れるのは初めてのことだった。シャワーを浴びたのか、彼女の髪はまだ薄らと湿っていて、私はその黒い髪の毛に櫛を通したくなる衝動を押し殺しながら、ホットミルクを作る。話したいことがあると言う彼女に、それは依頼なのかと尋ねると、さんは首を振った。友達として聞いてほしいと言う。だから私は、「友達として聞く依頼」を承る。そうでないと、だって、そうでもしないと、私はきっと、耐えられなかった。



「ひょっとして星君のことかしら」



 なかなか口を開かないさんにそう尋ねると、彼女はあからさまに動揺して見せた。分かりやすいと笑う私に、「星くんにもばれてるかなあ?」と心配そうに顔を曇らせた。言葉に詰まる。
 どうかしら。――どうかしらね。ばれていると思うわ。そして、彼は、今はそれを好意的に捉えているはず。そうでなければ、あんな目で彼女を見たりしない。お互い、馬鹿みたいに同じ目をしているんだもの。気付いていないのはさん、あなただけ。誰も自分に近づくなとそう言っておきながらさんを自分の傍に置いておく彼は、彼女が思っている以上に、狡い。



「……彼は、多分、女性には興味がないわね。過去に何かあったのだとは思うけれど、彼がそれを話してくれることもないと思うわ」



 だけど、そうやって嘯く私の方が、ずっと狡猾だ。
 だってきっと、いつかあなたたちはお互いがいなければ生きていけなくなる。星君はさんに自分の罪を洗いざらい告白し、彼女はそれを受け入れて、二人は一緒に、逃げるように身を隠して生きていく。誰から非難されても、世界中を敵にまわしても。そこに私は介在しない。
 さんが泣く。声を殺して泣く。彼の罪を一緒に背負ってあげられる人になりたかったと、見当違いなことを漏らして泣く。私はその背中を撫でる。「友達として」撫でる。本当は抱きしめたい。この子を守りたい。だけど私には出来ない。私は恋を知らない。だからこれは恋ではない。








 誰かを殺して外に出なくてはいけないことを知った時一番に彼が浮かんだのは、彼が常日頃から生を諦めたような言動を取っていたからに他ならず、そこに他意はない。例え、彼が死んだことをあの子が悲しんでも、私はそれ以上に大切なものを思い出してしまった。私は外に出なくては。ここから抜け出さなくては。待っている人たちがいる。だからお別れをしなくてはいけない。
 彼は私の話を聞き終えると、無防備に背中を向けた。



「なあ、東条」



 早く殺さなくては。トリックだって考えた。今しかない。この人しかいない。なのに、彼は呟く。



「あいつに、悪かったなって伝えておいてくれないか」



 好きだったではなくて、いいの。聞きたかった言葉が、喉にべたりとはりついて剥がれない。



「これから俺を殺すあんたに言うのもおかしな話かもしれねえが、もしもあいつがこの下らねえコロシアイを生き抜いて、外に出ることができたら」



 ともすれば崩れ落ちそうになる。ああどうか叶うならば今この場で私の息の音を止めてくれ。私はそのとき確かにそう思った。



「あんたは、幸せになってくれ、って」



 私はそれからのことを、忘れられない。鮮やかに覚えている。きっと私が死ぬその瞬間まで。
 私は、あの子の好きな人を殺した。私の好きな人が思っていた人を、私は殺した。








 巨大水槽に落ちた彼の死体を目にしたさんは、ただ、彼の名前をぽつりとつぶやいた。崩れ落ちることもなかった。だから私は彼女の目を塞いだ。あれはどうしてだったのだろう。外の世界に戻る、そこで私を待っている人たち以上に大切なものなんて私にはなかった。この感情も一時的なものだ。そう思っていたのに。
 手袋越しに、温かい液体が伝わる。さんが泣く。あなたは幸せになって。私はどうして、彼が遺した最後の言葉と同じことを、今ここにいる彼女に思ってしまうのだろう。こんなにも、この身がちぎれてしまいそうなほど、強く。強く。