星くんは怖い。
皆と一歩も二歩も、いや、それ以上に離れた位置から、星くんは俯瞰したように自分の周囲を眺めて、観察して、だけど手を伸ばさない。コロシアイを強いられているこの状況下ですら、彼にとってはどこか他人事のようだった。
星くんは一人になりたいのか、良く喧騒から離れた図書室にいる。私がそれを知っているのは、私自身も度々本を借りに図書室へ赴くからだ。斬美ちゃんは「言ってくれれば私が取りにいくのに」と頼ってくれないことをどこか残念そうに漏らすけれど、私は図書室の空気が好きだ。古い紙のにおいも、ずらりと並んだ背表紙の色彩の美しさも、そこから自分の気になる本を選び出す時の高揚感も、こればかりは斬美ちゃんに代わってもらうわけにはいかない。たとえ、そこに星くんがいようと。
読み終わった本を胸に抱きながら、今日はいませんようにと念じて地下へと向かう。扉を開けて、そして私はほっとした。今日は誰もいないみたいだ。いくら広い図書室とはいえ、やっぱり他人がいると、特にそれが二人きりで、なおかつ相手が星くんだと私は非常に緊張する。私たちはいつも図書室でかち合うと、お互い無言で会釈をする。会話もないままに私は急いで本を探しだして、星くんは興味がないように本を読んで、そして、逃げるように私が立ち去る。短時間であるとはいえ、刺すような緊張感は出来るならば避けたい。
星くんは超高校級のテニス選手だ。私はテニスなんか体育の授業で打ち合うだけの遊びをしたくらいで、ルールも理解していない。私はこの生活で会話に困ると、相手の才能に関することを話題にする。そうすると相手は喜んで自分の話をしてくれるのだけど、星くんに関してはそう上手くはいかなかった。一度テニスの話を聞いてみようとしたところ、あからさまに拒絶されてしまった。
「俺の話なんか聞くもんじゃねえ」
と一刀両断されてしまったのだった。その後、彼が殺人を犯した犯罪者だと言うことを知った。鋼鉄のテニスボールを使ってマフィア組織を壊滅させたらしい。ぞわわと背筋が凍って、私は以来星くんを避ける、とまではいかないまでも、苦手意識を持っている。彼はここでは殺人を犯す気はないようだったけれど、あの小さな背丈の彼が一人二人ではきかない人数を殺したことがあると聞くだけで、空恐ろしい。
昨日借りた本を元あった場所に戻すと、私はいつものように本棚を物色し始めた。元々ここに連れてこられる前から頻繁に図書館通いをしていたせいか、見覚えのある本が多い。いつもだったらのんびり選んでいられないけれど、星くんがいない今だからこそ私は余裕を持っていられる。読んだことがない本がいいな。と、そこで外国の小説の存在を思いつく。訳者によって本の面白さが変わってくる外国の物語は、今まであまり手に取ったことがない。けれど、折角だし気分転換に一冊くらい読んでみようか、意外と面白いかもしれないし。そう思って私は外国の本がある一角に向かう。一番奥の棚だ。だけど、突然そのあたりから、何かが崩れるような激しい物音がした。
心臓が止まるかと思った。棚に入りきらず床に積まれていた本の山が一部崩れたのだ。それも、私から遠く離れた図書室の隅で。不意打ちだったせいで、心臓がばくばくと音をたてている。勝手に崩れるとは思えない。だって、山のようにきれいに積みあがっていたし。おかげでこの前下の方にある小説を抜き取るのに苦労したのだから。私は口元を手でおさえたまま、すり足で背中を本棚に押し当てる。きょろきょろと辺りを見回す。私以外に誰かいるのかもしれないけれど、そこに人の気配は、あるのだろうか、わからない。私はそもそも、そう言ったものに敏感ではない。
だけどいくらそうして待っていても、そこから誰かが現れることはなかった。緊張感がぬぐいきれなくて、私は意を決して声を出す。
「だ、だれか、いますか?」
思ったより掠れた声がしてしまった。私はびくびくと、一歩、二歩、死角になった本棚の裏へ近づく。あそこから包丁を持った誰かが飛び出してきたらどうしよう。ここで死んだら、本当に裁判が開かれるのかな。私は恐ろしくて、だけど足は勝手に動く。あと十歩、五歩、そして本棚の裏を、覗き込めることができるほどの位置についたとき、私は酷く大仰なため息を聞いた。
――星くんがそこにいたのだ。
「……ったく、あんたは変なところで、勇気があるよな」
星くんは、本棚の裏に腰を下ろして、帽子を目深に下げてそう言った。彼の体の横には、数冊の本が置いてある。
「星くん、え、え、いつからいたの?」
「あんたが来るより前からだよ……」
「うそ、なんで隠れてるの? びっくりした……」
「なんでって」
星くんは再びため息を吐く。私を見上げる首が苦しそうだったので、私もその場に座り込んだ。星くんがわずかに驚いたような目をするけれど、私自身も驚いている。星くんは怖い。人を殺した人だから。図書室で一緒になると緊張するし、なるべく急いで本を選んで斬美ちゃんのいる食堂に戻る。今日だって、星くんがいなくてほっとした。これでゆっくり本を選べると思った。なのに、私はこうして今、星くんの前で腰を下ろしている。彼と話をするために。
「あんた、俺が苦手なんだろう。だから俺の姿がないほうが、安心出来るんじゃないかと思ってな」
否定しようかどうしようか迷って黙っていると、星くんは丸い目を細めて、「いいんだよ別に、それが当たり前の反応だ」と言う。何だか気を遣ってもらっているようで申し訳ない。スカートの皺を伸ばしながら、私は「苦手っていうか」と言い訳をするように口ごもる。
「星くんのこと、良く知らないし……」
「知らなくていいんだよ。知る必要があるか? 俺は、あんたたちは俺に関わる必要はないって思っている。だから、隠れてたんだよ。気付かないで帰ってくれれば一番よかったんだがな」
「でも星くん、本崩したし」
「あれはあんたが急にこっちに来ようとしたからだな……」
不意に困ったように目線を逸らす星くんは、帽子ごと頭をかいた。こんな顔もするんだ、と少しだけ珍しいものを見たような気分になる。星くんは、まじまじと顔を覗き込む私に気が付いて、辟易したようにため息を吐いた。
「まあ、そういうわけで、だ。俺はあんたを邪魔するつもりはないし、いないものだと思って本を探せばいい。何だったら、時間を決めるか?」
「え?」
「お互い時間を決めて図書室を利用したほうが合理的だろ?」
星くんはよっぽど私と関わりたくないのだろうか。避けていた私が言えることではないけれど、ここまで明確な拒否感を示されると、やっぱり傷つく。だけど、いや彼は、本当に拒絶しているのだろうか?答えはすぐ出る。この人は私に気を遣っているだけだ。優しい人なのだ。
星くんは怖い。だって理解させてくれないから、近づかせてくれないから。殺人犯だからこわいのだと思っていた。だけどどうやら違ったようだ。私はこの人が、何の理由もなく殺人を犯すことができるとは思えない。私を気遣って、こうして利用時間の提案までしてくれる人だ。根はやさしくて、どうしようもなくて、たぶん、自分の罪ときちんと向き合っている、だから、人を遠ざける。理解してもらおうとしないのは、他人に自分の罪を共有させることを嫌うからだ。だから、一人でこうして、彼はここにいる。だけどそれって、孤独だ。
なんだか、考えていたら泣けてきた。感受性が狂っている私は、こうしてすぐ感極まってしまう。勝手な妄想で、ひとりで傷ついて、他人から見たら馬鹿だと思われるし、何度か笑われたこともある。だから唇を噛んで耐えた。太腿をつねって俯いた。
「おい、どうした?」
頭の先のほうで、星くんの声が聞こえる。目だけを開けると、星くんの読んでいた本のタイトルが目に入る。それが「猫の飼い方と選び方」なものだから、私は思わず噴き出した。我慢したけど、駄目だった。最後まで溶けずにのこっていた緊張感の核が、ようやく解れて消える。私は顔をあげた。星くんが驚いた顔で私を見ていた。きっと、満面の笑みだったからだ。ああ、こいつちょっとおかしいんだなって、思われるかもしれない、だけど仕方ない。
「星くん、食堂に行こう!」
「……なんだと?」
「ここちょっと薄暗いし、ずっと座ってたらお尻も痛いでしょ、一緒に食堂で本を読もう。私、いつもあそこで読んでるんだ」
「おいおい、あんた、話を聞いてたか? 俺はあんたと関わる気は」
「でも、私は星くんと関わりたいなって思ったんだよ」
星くんが目を見開く。話が聞きたいとか、彼の背負った罪を知りたいだとか、そういうのではなくて、私は彼の孤独を少しでも和らげたい。傲慢なのかもしれない。私は思い違いをしているのかもしれない。だけど星くんがみんなを避けて、一人になる場所をさがして、そうやって周囲と自分を切り離そうとしているのは酷く不自然なことだと思った。
もしも拒否されたら、そこまでだと思っていた。私は嫌がる人に無理強いさせる気はなかったし、だからきっとこれが、最初で最後のチャンスだった。星くんが考え込むように帽子を目深にかぶりなおす。その間も私はどきどきしている。やがて、星くんが何度目かのため息を吐いた。
「……丁度、小腹が空いてきたところだ」
その言葉に私は心が高揚していくのを感じた。それが表情にでも出ていたのだろう。星くんが苦笑したのが、何となくわかった。
斬美ちゃんがいる食堂に戻ると、彼女は私に紅茶、星くんにコーヒーを出してくれた。そのまま厨房で簡単な軽食を準備すると、給仕をしながら、「珍しい組み合わせね」と微笑む。私は斬美ちゃんの、薄い氷のような笑顔が好きだ。触れただけで溶けてしまいそうな、冬の色だ。
「ナンパしてきたの」
「おいおい勘違いされるようなことを言うな」
「だけど実際驚いたわ。何の前触れかしら。さんは色んな人と話をしているけれど、誰かと二人きりになるのは好まないと思っていたのだけど」
「ちょ、斬美ちゃんこそ勘違いされるようなこと言わないで! 私、斬美ちゃんとはしょっちゅう二人きりになるじゃん!」
「あら、異性の話よ」
「う、そ、それは、そう、だっけ?」
言われて顔が赤くなる。星くんがあまり気にしていないようだったのが救いだったけれど、私は誤魔化すように借りてきた本の表紙を捲った。結局本を探す時間が惜しくて、好きな作家の、読んだことがある本を手に取ってしまった。星くんの方は、やっぱり猫の本だ。動物が好きだなんて、ちょっと意外だ。だけどなかなか口に出来なくて、私は斬美ちゃんが淹れてくれた紅茶を飲む。
「星君は動物が好きなの?」
私たちの前に様々な具材の挟まれた彩りのきれいなサンドイッチを置きながら、斬美ちゃんが尋ねる。まるで私の代弁者だ。
「そういうわけでもないがな。猫は嫌いじゃない」
「さんはどう? 動物は」
「私は犬派。斬美ちゃんは?」
「私もどちらかと言えば犬の方が好きね」
「何だと?」
は、と顔をあげると、星くんが目を見開いて私を見ているからびっくりした。星くんは私と斬美ちゃんに猫の魅力を聞かせてくれた。特にロシアンブルーが好きらしい。その毛並みの美しさや瞳の色について彼は延々と語り続けた。低く、耳に馴染む声だった。紅茶はすっかり冷めてしまった。
それからと言うもの、星くんは食堂に本を持って現れるようになった。たまに他の子たちも来て騒がしくなるときはあったけれど、そういうときも星くんは席を立とうとせず、読書に集中しているようだった。とは言っても話しかけられればきちんと目を見て会話をする。相変わらず他人を寄せ付けない口調と態度は徹底していたけれど、以前よりはずっと話しやすくなった。
「あんたはその作家の本ばかり読むんだな」
「あ、うん。ここに来て初めて読んだ作家さんだけど、面白いよ」
「ふん……。こんなところでも、新しく好きなものを見つけることができるなんて、羨ましいな」
それは嫌味でもなんでもなく、心の底から漏れ出た羨望のような色をしていた。なんと答えるべきか迷っていると、私たちの傍に控えていた斬美ちゃんが小さく笑う。
「あなたもそうでしょう?」
「なんだと?」
「星君はここで本を読むようになってから、表情が和らいだように思うから」
「俺がか?」
「ええ、そうよ。楽しいと思っていなければ、できない顔だわ」
斬美ちゃんは、私が言えないことを言ってくれる。本に集中しているふりをして、活字を目で追った。だけど、読んだ傍から文字はばらばらに乖離して、私の脳に染み込まない。私はどきどきしている。視界の端で星くんの表情を窺う。少しでも笑ってくれたらいい。
「……もしそうなんだとしたら、それはのおかげだろうな」
私は知らない間に、星くんに恋をしている。
夜時間のチャイムが鳴って、斬美ちゃんの部屋を訪れた。斬美ちゃんは突然の来訪を責めることなく、優しく迎え入れてくれた。寝る前だからとホットミルクを作ってくれる。私はテーブルの上に置かれたマグカップから立ち上るやさしい白いゆげを、じっと見ている。
「斬美ちゃん」
「何かしら」
「聞いてほしいことがあってね」
「それは依頼かしら?」
斬美ちゃんは「依頼」と口にするけれど、友達なのだし、あまりそういう風に捉えてしまわれるのは好ましくはない。うーんと首を捻り、顔を顰める。
「依頼……うーん、いや友達として、聞いてほしいっていうか」
「そう。依頼として承るわ」
口ではそう言いながらも、斬美ちゃんは私の横に腰を下ろす。彼女がこうして床に腰をおろす姿を見ることは滅多にないことで、私は彼女の存在を普段より身近に感じられることに安堵した。けれど相談を聞いてくれるという斬美ちゃんに、私はなかなか口を開くことができなかった。結局、先に口火を切ったのは斬美ちゃんのほうだった。
「ひょっとして、星君のことかしら」
「……斬美ちゃんは何でも御見通しだねえ」
「何でも、というわけではないわ。さんは分かりやすいのよ」
「分かりやすいっ? え、それは星くんにもばれてるかなあ?」
「そんなことはないと思うわ。というか、言いにくいのだけど……」
「あ、いいよいいよ、遠慮しなくて、思ったこと言って」
「……彼は、多分、女性には興味がないわね。過去に何かあったのだとは思うけれど、彼がそれを話してくれることもないと思うわ」
そこで、ようやくホットミルクを口にする。舌の上にじんわりと伝わるやさしい甘さに、私はふうともはあともつかない息を吐く。
星くんが、私を避けていた日のことを思い出す。星くんを怖がっていた私から、彼は姿を隠してくれた、私はあの日、あそこで彼が本棚の影できまり悪そうにため息を吐いたときから、きっと彼が好きだった。
「私ね」
声にならない。斬美ちゃんは、私の背中をそっと撫でる。黒い手袋越しに伝わるほのかな熱は、いたわるように優しい。だから、こみあげてくる感情が少しだけ平らになった、斬美ちゃんのやさしさが、私を落ち着かせてくれる。
「星くんが、また、だれかを好きになれたらいいなあって、思う」
斬美ちゃんは何も言わない。ただ、黙って私の傍にいてくれる。依頼だから、ではない。だって私は、彼女に撫でてほしいなんて頼んでないのだから。だから、それが余計に、うれしい。
「自分の罪を一緒に背負ってほしいって、星くんが思える人が、いたらなって」
嬉しいのに、私は一度おさえこんだはずの感情の波にいともたやすく飲み込まれる。
「それが、それが私だったらいいのにって」
ぐず、と、鼻水が垂れた。すっと隣からティッシュの箱が差し出された。ちゃんと鼻が痛くならない、やわらかな素材のものだった。私はお礼を言いながらそれを受け取って、顔面を拭く。斬美ちゃんは何も言わない。私の代弁者は、何も語らない。
星くんの支えになりたかった。彼の罪を一緒に溶かしてあげたかった。それで誰かから後ろ指をさされても、世界中から非難されてもかまわなかった。私はあの、どうしようもなく優しくて、かなしい孤独をもった人の傍にいたかった。それだけだった。だけど、そのそれだけは、きっとどんな壁を乗り越えるよりも難しいことだった。
体育館で秘密子ちゃんのマジックショーが始まる。私はそれを、斬美ちゃんの隣ではらはらしながら見守っている。秘密子ちゃんはきちんと水槽から脱出できるだろうか。制限時間が迫る。もうすぐ巨大水槽の中に、大量のピラニアが投入される。だけどなかなか巨大水槽を覆うカーテンは開かれない。痺れを切らしたゴン太くんが階段を駆け上る。私はそれを見ている。
カーテンが開く。水槽からピラニアが降ってくる。秘密子ちゃんはいない。脱出できたのだ。だけど代わりにそこに浮かんでいた人を、私は今も、きちんと、愛している。
「星くん」
斬美ちゃんが、咄嗟に私の目を覆った。指の隙間から、星くんの体が無数の魚に食い散らかされていくのを、私は見た。