こんな思いをすることになるくらいならば、私はあのプログラムから目を覚ました時、素直にあの日々の記憶を捨ててしまえばよかった。
同じ場面を映し続ける映写機のように、私たちは幾度も幾度も同じような日々を過ごしていた。海へ。電機街へ。山へ。砂浜へ。私たちは提示された目標をクリアするためにひたすら「採集」というノルマをこなす。無理は禁物だから、しんどくなる前に休憩。共同生活で使うホテルやレストランは清潔を心がけて、午後は初対面同然の仲間たちと親睦を深める。それらの全てを指揮してまわるのは日向くんというしっかり者の男の子で、個性的な面子の私たちを、彼は辛抱強くまとめあげてくれた。
「50日」という定められた日数は長いのだか短いのだか。実際に生活してみると日々は簡単に積み重なって、気が付いたときにはジャバウォック島で過ごした数々の思い出を模したブロックの上に、私たちはバランス悪く立っている。ああこれじゃあまだだめだと最終日に横から突かれて、私たちは仲良くまっさかさまに転落する。自分たちの皮膚から剥がされたもの、その逆に残されたもの、確かにあるはずなのに、その正体が分からない。再び砂浜で目を覚ました時、そこには見ず知らずの二十人近い男女が勢揃いしており、初対面のはずなのにどこか懐かしい気分で私は自分の名前を名乗る。日向創と言う名前の男の子は、今回も率先して皆をまとめる。だけど、今回も、って、何のことだろう。
海中に潜り、砂浜でヤシの実を叩き落とし、電機街でスクラップを拾い集め牧場で乳を搾り森で金を掘り当て私たちはそうして永遠の50日を過ごす。こんな常夏の島にいるっていうのに日焼けのしない不思議な体質の私たちは、夜になれば花火をし、誰かの誕生パーティをし、海で泳いだ。どこかで聞いたような深刻な悩みを打ち明けられ、どこかで吐き出したような理解ある発言を口にし、私たちは今回の50日を終える。他のみんな以上に疲れ切った様子の日向くんの横顔を眺めながら、今度こそ終わるといいねと私はぼんやり考える。だけど、終わるって、今度こそって、何だろう。
さて今回私たちの足元に並べられた四方体はどれも図ったかのように正確で、私たちが乗ってもちっとも微動だにしなかった。神様の人差し指に横から突かれても押しつぶされても私たちは平気でその上に立っていられた。合格です。そんな声が聴こえた瞬間ほっとした様子を見せた日向くんは、突然粘土の人形になってしまったみんなをかき分けて、私のところにやってきた。みんなは土くれになって、ぼろぼろと空気に溶けていく。私と日向くんだけを残して、ともに日々を過ごした彼らは空気に霧散する。
「」
差し出された手のひらは、私が50日も100日も、いやもっとだ、永遠に繰り返す中で見てきた日向くんの手のひらよりも大きく厚かった。驚いて顔をあげる。日向くんの輪郭が溶けだす。首が太くなり、顎が少年の面影を消す、骨格がほんのわずかに成長し、彼は私より年上の男の人へと変貌する。
「日向くん」
私の声は変質する。僅かに掠れる。日向くんは私の手を取った。光の粒になって消えかけていく私の汚れを知らない手を。
日向くんは目を細める。もう一度私の名前を呼ぶ。なあ、って。なあ。。
「記憶を引き継いで目覚めるのと、すべてを忘れてしまうのだったら、どっちがいい?」
訳の分からない日向くんは訳の分からない二択を私に選ばせる。私はなのに、「覚えていたい」と咄嗟に呟いた。彼が言うのがこの島で過ごした日々のことであるならば、私は足元に転がるこの記憶の欠片を全て拾って集めていきたかった。どうしてか私の周囲で土くれになってしまった皆を一人残らず抱いていきたかった。日向くんが嬉しそうに目を細めたから、きっと私の答えは彼にとっての正解だった。
だけど、私にとってはきっと違った。
捨ててしまえばよかった。あんなゲームの中のことなんて。忘れたってこれからの人生に何も影響しなかった。いや、覚えていたからこそ、私はこの記憶を引きずってこれからの長い人生を生きなければならない。途方に暮れてしまう。一からやり直せる最後のチャンスを、私は自ら棒に振った。目を覚ました時、私はカプセルの中にいて、あの大人びた日向くんに顔を覗き込まれていた。体は重たくて指の一本も動かせず、ただ、猛烈な絶望感を覚えていた。失敗した。間違えた。
どうして私を起こしたの。
「おはよう。」
かつてすべての才能を持っていたはずの彼は、もはやただの人だった。
私が目を覚ましたとき、その島は既に死んでいた。
生きている人は私のほかに日向くんしかいなかったし、他のカプセルはすべてもぬけの殻だった。みんなはどこに行ってしまったのだろう。私より早く目を覚まして、島を出たのか、それとも、言葉通り「どこにもいない」のか。
定期的にやってくる船から食料や生活必需品を配給してもらう日向くんは、どことなく嬉しそうに、「これからは二人分必要なんだな」と呟いた。彼はここで何をしているのだろう。誰もいない島で、彼は当然のようにそこにいる。
日向くんはいつもパソコンに向かっていた。私が見ても分からない文字や数字の羅列と懸命に格闘し、時に荒れ、時に大袈裟なガッツポーズをみせた。でも、いつもイライラしていたように思う。私に当たり散らすことはなかったけれど、一度何をしているのか尋ねたとき、低い声で「オセロでもやってるように見えるか?」と返された。彼は自分の言葉に我にかえり、慌てて私に謝ったけど、以来私は口を出すことをやめた。彼がやろうとしていることは、もうあれから一つ年を重ねた今理解している。
私は天気のいい日は施設の外に出る。あのプログラムの中と違って日焼けには気を付けなければいけないから、支給された日焼け止めを丹念に塗って、ホテルに残されていた黒い、フリルのあしらわれた日傘を差していく。ソニアちゃんのスカートのようだと思いながら、私は季節の移ろいのほとんどない島を渡り歩いた。退屈すぎて始めた有機栽培は見事に成功し、トマトやキュウリは食べ放題だ。野菜の種に混ざっていたひまわりの種を植えたらそれは簡単に芽吹いてあまりにも呆気なく黄色い花を咲かせた。枯れたあとそれが産み落とした大量の種を隣に植えて、どんどん領地を広げていく。黄色い花畑を作り上げる。「田中が見たら喜ぶだろうな」日向くんが懐かしそうに言ったけれど、田中くんも破壊神暗黒四天王もこの島にはもういない。
退屈すぎて始めたギターは間もなく弦が切れ、私も日向くんも取り換え方を知らなかったため私のギタリスト計画は頓挫した。料理はそれなりに上手くはなったけれど、圧倒的にレパートリーが足りない。船の積荷が少しずつ充実しはじめたのは何年が経った頃か。その頃私はすっかり肌を衰えさせていた。日向くんのパソコンの中で生きる少女は、けれど年を取らない。
あの子は永遠。
「は島を出たくはないのか?」
トマトの皮を剥いているときに、不意にそう尋ねられた。「なぁに突然」間延びした声でわざとはぐらかすように答えると、日向くんは押し黙る。何年が経っただろう。私が目を覚まして。そこには日向くんしかいなくて。私が植えたヒマワリはもはや観光名所と銘打ってもいいほどに咲き乱れている。
「家族とか友達とか、いるだろ」
「今更何言ってるの。もういないよ」
みんなはどこにいったのか。私はそれを察しているけれど、口にはしない。尋ねない。みんな逃げて行ったんでしょう。あなたに付き合いきれないって。頭のおかしいあなたを見捨てた。いろんな事情があったのかもしれないけれど、例えば自分の贖罪のため、家族のため友人のため、世界の復興のため。そう理由をつけて、みんなはあなたを捨てて行った。私だって、自分が最後に目を覚ましたのでなければきっとそうしただろう。私はだって絶望した。この島を出て、海の藻屑になりたかった。今でもその衝動はある。私は首まで海に沈んでいる。だけどもう、十代の多感な時期はとうの昔に過ぎ去っていた。残った私は棘がなくなって丸くなって、ただただあなたを哀れだと思う。パソコンの中の少女と向き合って、思い出の島から出ようとしない日向創。
記憶なんか捨てていればよかった。みんなと過ごした日々なんか私の残りの人生になんの価値もなかった。だって忘れていたら、私は訳の分からぬまま、この人の元を去れた。この胸に残った情を残さず食いつくし、私は別の道を歩いたのに。すべてを残した私は何もないこの島に野菜を植えて育てて花を咲かせている。二人きりの男女が生活して間違いが起こらないはずがないだろうと船の人から下卑た笑みで渡される避妊具を私は海に投げ捨てる。無為な日々を積み重ねてできた四方体は隙間なんかないはずなのにそこに立つ私たちはなぜ今にも足を滑らせようとしているのだろう。日向くん。日向くん。あなたが今も幻想の少女をパソコンの中に追い求め続けているように、私もあなたに執着している。
私の神様はあなただけ。
船は今もやって来る。未来機関の苗木さんという男性が今でも配慮してくれているから、私たちは今も死んだ島でしぶとく生きている。日向くんはパソコンの前に座り、ぶつぶつと呟き続ける。生きていない女の子に縋りついて日向くんは今日も幸せだ。「七海。元気か。今日の天気は晴れだ。ひまわりがきれいだよ。七海」私はその後ろ姿をぼんやりと見つめて、なぜだか途端に虚しくなった。私が広げたひまわり畑を、一緒に歩いてくれることなんて一度もなかった日向くんは、今目を閉じて架空の少女と手を繋ぐ。すべての才能を失った入れ物はそうして彼女に縋る。
ああだから、目なんか覚めなきゃよかった。ずっと眠っていたらよかった。あのひとのことなんか忘れていられたらよかった。だってあのひとより愛せるひとなんてこの世のどこにもいないのだ。目を覚ました私は知ってしまった。あのひとがもうこの世に存在しないこと。ひまわり畑を作っても野菜を植えてもゴムを捨てても私の隣にいる人はもう現実を諦めた少年だった何か。私はスコップを持って施設を出た。私が産んだひまわり畑。私の子供たち。私はいのちを生み出せなくて、あと何十年もすれば女ですらなくなり、だけどでは今の私は果たして女か。愛する人を失い慰めにひまわり畑を広げ続ける女のなんと憐れなことか。スコップでひまわりを殴る。本当に殴りたい人は今もパソコンの前。
たすけて。たすけてたすけて。逃げ出せなかった。捕えられてしまった。忘れてしまえばよかった。すべてなくしてしまえばよかった。「日向くんだいすきだよ」作られた千秋ちゃんがうっとりと微笑んだ。あの子はあんな顔しなかったよ日向くん。だけど私は彼の何者にもなれやしない。
スコップで容赦なく叩き潰されるひまわりは頽れる人のようだった。手に残る感触は生々しく、いっそ地面を掘って何もかもを埋めたくなった。ここから少しずつ穴を広げていけば、私は彼を、あのひとのいれものを、呑み込めるだろうか、今度こそ。今度こそ。――本当に?
今が西暦何年なのかもわからない。日向くんのパソコンを覗き込めばわかるか。あの人はどこにいった。日向くんの脳を開けばわかるか。私の愛した人。私の愛したカムクライズル。もう彼はいない。ただ残されたのは、二次元の少女に思いを馳せる腐りかけの何かと、それにみっともなく縋りつくだけの年を重ねた無様な私だ。
足元に、まだ鮮やかな黄色の花弁が散らばっていた。命の終わりを見ていた。薄汚れたスニーカーの踵が、それを踏みつけていた。