ぼくがプログラムから目が覚めてから数年後、世界は以前のようにすっかり元通り――とはいかなかった。人口は馬鹿みたいに減ったし、建造物は価値があるものもそうでないものも一様に破壊された。大切な人たちを失っただれかの後追い自殺がようやく減り始めた頃、未来機関からの監視が外れたぼくは、かつての食堂花村に帰った。外観は営業当時とそこまで変化がなかったことは幸いだった。
 店の鍵を開けて、中に入る。薄暗かったけれど、荒らされた様子はない。埃っぽいし、蜘蛛の巣がいくつもできているから、すぐに営業というわけにはいかないかもしれないけれど、それでも少し手入れをすれば元の状態に近づけることは出来そうだった。ぼくはマスクとエプロンをして、ロッカーから掃除用具を持ってくる。かつてのバイトだった北沢くんがきちんと補充してくれていたから、ぼくが準備してきたものは予備として片付けておくことにした。
 掃除の基本は、まず上の方から。とりあえずモップを持って天井の方に出来た蜘蛛の巣を壊そうとしたときだった。



「……だれですか?」



 女の子の声がした。小さく震えるその声は、もしかしたらぼくの聞き間違いだったのではないかと思うくらいにか細くて、咄嗟に入口の方に目線をやる。だけどぼくがさっき閉めたばかりのそこは少しも開いてなくて、ぎょっとした。これが昼間じゃなかったら、悲鳴をあげていたかもしれない。「あの」と改めて声をかけられて、やっとわかった。店の外から声をかけられたんじゃなかったのだ。
 その女の子は、店の奥から出てきた。ぼくとお母ちゃんがかつて生活していた二階の階段を下りて、店と居住スペースを繋ぐ扉の隙間から、ぼくを窺っていたのだった。



「………………だれ?」



 まだ十代の、中ごろくらいにしか見えないその女の子は、怯えたように扉にしがみついていた。その後ろ手に金属バットを持っていたと後で知った時は、ぞっとした。








「…………はぁ、なるほど。家がなくなっちゃったんだ」

「はい。もう瓦礫しかなくて。家族も……。それでお店、裏口が開いていたので、そこから入って……お布団を借りてました」

「食べ物はどうしてたの?」

「えっと、お水が出たのでそれを飲んで、あとは、すいません、お部屋と、下の方にお金があったので、それを使って、すみません、すみません……!」

「……」



 かつてのお母ちゃんの部屋で言い訳もせずに謝罪するその女の子は、はっきり言ってみすぼらしかった。手足は骨だけだったし、体もすっかり汚れている。水は飲んでいたのかもしれないけれど、お風呂は悪いとでも思っていたのか、滅多に入らなかったのだろう。ぼさぼさの髪の毛やがさがさした肌からも栄養状態が最悪だと見て取れた。レジの売り上げを持って行ったと白状しているが、この様子から見るに最低限のお金しか使わなかったんじゃないだろうか。――しかし、そうは言っても犯罪だ。ぼくが言えたことではないけれど。
 思わずうーんと唸る。家もない。家族もいない。その状態の女の子を外に放り出すことができるほど、ぼくは鬼ではない。実際、店の方はともかくとして、居住スペースはきれいにしてくれていたのだ。二階も掃除しなくてはいけないと覚悟していたから、これは嬉しい誤算だった。女の子は涙ぐみながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けている。
 日焼けでもないのに黒くなってしまった指の先、骨と皮だけの手足にこけた頬、目だけがきょろりと大きくて、何だかそんな子に泣きながら謝られ続けていると、堪える。ぼくは「もういいよ、いいからさ」と言って、彼女の手にモップを差し出す。



「一緒に下の掃除してくれないかな。ぼく、あんまり掃除って得意じゃないんだ」



 きょとんとした女の子は、頬を伝っていた涙を手の甲でごしごし拭うと、ぎこちなく頷いた。








 その女の子はと名乗った。明らかに年下の女の子の名前をなんと呼んだらいいか分からなくて困っていると、彼女は「でいいです」と言った。ちゃんはぼくの頭一個分背が高かったけれど、それでも平均よりは随分小柄だったから、天井の掃除には苦労した。裸足になって、テーブルの上に立って背伸びをしてようやく天井の蜘蛛の巣を払えるのだった。彼女は時折降ってくる蜘蛛に悲鳴をあげてテーブルから落ちかけて、慌ててぼくが支える。見たこともない虫が壁を走って、彼女の視界に入る前にスプレーで殺した。テーブルクロスやカーテンを洗濯機に突っ込んで戻ってくると、ちゃんは頼んでもいないのに壁の汚れを拭いてくれていた。



「随分きれいになったね」



 テーブルと椅子の脚についていた埃も、すっかりきれいになっている。床も壁もピカピカで、蜘蛛は撲滅した。あとは調理器具の手入れだ。こればかりは彼女に手伝わせるわけにはいかない。



「お風呂に入ってきたらどう? ぼくはこっちを片付けてるからさ」

「えっ……でも……」

「ああ、覗かないから安心して! 覗きたいけど覗かないって約束するからさ!」



 気を抜くとうっかり下ネタを口走りそうになるから危険だ。同級生たちならともかく、こんな年端もいかない女の子に迂闊なことを言うのは憚られる。案の定ちゃんは困ったような表情に僅かな嫌悪感をにじませた。このままでは本当にお風呂を拒否されそうだったので、ぼくは「脱衣所に鍵かけられるから! 心配だったらかけてよ!」と叫んで顔を背けた。








 ぼくが大方の調理器具の手入れを終えたころ、ちゃんはお風呂から戻ってきた。



「ついでにお風呂のお掃除もしてたら、遅くなってしまいました。すみません」



 と言われ、振り向いたら、ずいぶんとすっきりした女の子がそこにいた。しめった髪の毛は艶々して、癖がとれていた。血色の悪かった頬は白くなっていたし、ぼくが着替えとして余分に持っていたTシャツとズボンはぶかぶかしていたけれど、きちんと紐で調整してしまえば着られないことはなかったらしい。――可愛い子なんだなと、思った。今さらだったけれど。



「簡単なものでよければ、何か食べる? すぐに作れるけど」



 ちゃんはぼくの何気なくかけた言葉に硬直する。返事がないことが不思議で振り返ってみたら、ちゃんは困ったように首を傾げていた。「どうしたの?」と声をかけると、申し訳なさそうに首を竦める。「でも、わたし、でていったほうがいいですよね?」と、もごもごと口にする。



「えっ?」

「だって、ここ、花村さんのおうちですし」

「いやいやちょっと待って、だってきみ、家も家族もないんでしょ? 行くあてもないのにここを出てどこに行くつもりなの?」

「それは……」



 ここを出て、また空き家を探すつもりなのだろうか。だけど今、世界は落ち着きを取り戻しつつある。治安が良くなって犯罪者は少しずつ取り締まられるようになってきているし、空き家なんて都合よく転がってはいない。ぼくの言葉に言い返すこともできないちゃんはまだ少女でしかなくて、こんな女の子が当てもなく街を彷徨ったが最後、悪い大人につかまって人生が終わってしまうだろうことが容易く想定できた。知り合ったばかりとはいえ、さすがにそんな末路を彼女に迎えさせることはできない。「あのね」ぼくは慎重に言葉を選ぶ。ここでいつもの調子で話してしまったら、きっと彼女は自らぼくから離れてしまうだろうから、年上の信頼できるお兄さんとして、話をしなくてはいけない。それは随分と骨が折れた。



「ぼく、この食堂を復活させたいんだ。だから、人手がほしくてね」

「……」



 ちゃんが、大きな目を瞬かせる。表情がなかなか読めないのは、彼女の顔に肉がほとんどないからだろう。



ちゃん、すごく一生懸命に掃除してくれたし、きみさえ良かったら住み込みで働いてほしいなって思うんだけど、どうかな」

「……住み込みで?」

「そう、きみが使ってた二階の部屋、もう、使う人がいないから」



 言ってて、しまったなとおもった。ちゃんが使っていた部屋は、かつてお母ちゃんが使っていた部屋だ。そのお母ちゃんはもう、いない。この世のどこにもいない。ぼくに肉親と呼べる人はどこにもいなくなって、何年が経っただろう。お母ちゃんは病気で余命いくばくもなかったけれど、さいごに手をかけたのはぼくだった。それを思い出した。忘れていたわけではないのに、普段はぼくのお腹の底に澱のように沈殿しているお母ちゃんの最期は、こうして突然浮かび上がってぼくの首を絞める。
 言葉につまったぼくを、ちゃんは不思議そうに見つめている。








 ちゃんは働き者だった。食堂花村の再開を予定している日まではまだ時間があるけれど、彼女はすっかり、店内をきれいにしてくれた。テーブルクロスの修繕をして、落ちなかったカーテンの染みを言われなければ分からないところまで落とした。外壁の汚れはどうにもならないと思ったけれど、ある日ホームセンターに行ってペンキを買ってきて、塗り始めたときは絶句した。彼女は器用だった。
 ぼくはちゃんが掃除や店の手入れを買って出てくれている間、料理に集中できた。かつてお母ちゃんがこの食堂で提供していたメニューを中心に、自分流にアレンジする。ちゃんに食べてもらって感想を尋ねたけれど、彼女は何を食べても「おいしいです」としか言わなかったので困った。だけどもくもくとおかわりをしていくので、スピードはちがえど、その姿はかつての同級生の終里さんを思い起こさせた。ちゃんはよく食べた。見違えるほど、その体には健康的な肉がついた。けれどある程度の体型に戻ると、それ以上は太らなかった。若いから、代謝がいいのかもしれない。彼女はすっかりきれいになった。そうしていると、ぼくが思っていたより年下ではないのかもしれないと気が付いたけれど、今更年齢を尋ねるわけにもいかなかった。もしこれで同い年だと言われてしまったら、ぼくは彼女への接し方に頭を悩ませることになるだろうから。
 ぼくは、ちゃんの兄のような存在でいたかった。ちゃんは可愛いし、性的な目で一切見ていないのかというと首を振るわけにはいかない。ぼくは男でも女でも生きとし生けるものは全て平等に愛しているし、はっきり言うといやらしい目で見ている。妹のような存在といえどそれは変わるわけがなく、ぼくはちゃんが薄着でぼくの前をうろつくたびにむらむらくる衝動を抑えていた。けど、最近はちょっときつくて、気を抜けば「おかわりがいる? ぼくの熱くなったものもどうかな?」とか言ってしまうし、ちゃんも露骨に顔を顰める様になった。また始まった、と言わんばかりの表情にすら興奮してしまうけれど、それでもちゃんがこの店を出ていく気はないらしいことだけはぼくの気持ちを軽くした。
 きっと、ぼくたちは、お互いがお互いを必要としていた。なくなったものをお互いの存在で埋めようとしていた。
 ぼくはお母ちゃんを、ぼくを支えてくれていたひとたちをみんなこの手で殺してしまった。数年前絶望に染まった、こんな世界を生きていたくないと泣くひとたちを、のぞみどおりに天国に送ってあげた。苦しまずに死ねる毒をかつての同級生から調達していたぼくは、彼らののぞみを叶えてあげることができた。ぼくの作る料理の仕上げにさっと一振り、死にたいと懇願していた彼らは、こんな世界でこんなにおいしいものを食べることができてしあわせだと微笑んで、その日の夜、布団の中で冷たくなる。ぼくの店はいつでも繁盛していた。だから、人格を矯正するためのプログラムを終えて数年経った今も、この店は建物としての形状を保っている。
 ちゃんはぼくのことをじっと見つめている。ぼくにとってのお母ちゃんが彼女なら、彼女にとってのぼくは一体なんなのだろう。ぼくは読み取りにくいその目から、答えを見つけることができずにいる。








 店がオープンする数日前のことだった。ちゃんは店のテーブルについて、パソコンで自作した手作りのチラシをきれいに畳んでくれていた。ぼくの考案したメニューがいつの間にか名前が変えられて何の面白味もないものになってしまっていたのが気に食わないといえば気に食わないけれど、彼女はとても真面目だった。この店でバイトとして働いてくれる人は、みんな真面目なのかもしれない。



「チラシ、できました。近くのおうちのポストにいれてきてもいいですか?」

「ありがとう、お願いしてもいい?」

「はい、行ってきます」



 彼女はぼくが思いつかないことをする子だった。ぼくは彼女の背中を見送る。扉の向こうにその姿が消えたとき、ふと、思い出したことがあった。お母ちゃんの部屋の化粧台の引き出しに、この店の鍵がもう一つあったのだった。それをちゃんに持たせてもいいかもしれない。これからは、何かと大変になるだろうから、お互い一つずつ鍵を持っていた方が便利なこともあるだろう。
 今はちゃんの部屋になってしまっているから、勝手に入ることに躊躇いを覚えたけれど、彼女はいつも部屋の扉を開け放したままにしていたので、そこまで罪悪感はなかった。きれいに整頓された室内はきちんとお母ちゃんの部屋だったころの面影を残している。ちゃんは、自分の持ち物がほとんどないのだ。例の金属バットくらいで。部屋に置かれた置物はかつてのまま、けれど埃がついていないところを見ると、ちゃんは大事に掃除してくれているのだろう。嬉しい気持ちを抑えながら、当初の目的の化粧台の引き出しを開けた。



「……え?」



 「それ」を見つけた瞬間、思考が止まった。
 混乱するぼくの背後に、誰かが立つ。顔をあげる。化粧台の鏡に、彼女は映っていた。白い顔をしていた。昼間だと言うのにお母ちゃんの部屋は北向きのせいで日差しがあまり入らず薄暗かった。だから、まるでその子の首は、宙に浮かんでいるようにすら見えた。



ちゃん」



 ちゃんが、小さな声で呟く。「店を出たら、チラシに誤字があることに気が付いて、それで、作り直そうと思って戻ってきたんです」表情がない。出会った日を思い出す。ぼろぼろ泣いていた彼女を思い出す。そういえば、あの日からちゃんは、めったなことでは表情を変えなかった。まるで何かに耐えているようだった。



、ちゃん……」



 ぼくは、ちゃんの名前を呼ぶ。それしかできずにいる。ちゃんは作り終えたばかりのチラシを握りしめる。ぐちゃぐちゃに、皺が寄る。「店に戻ったら、花村さんがいなかった。だからひょっとしてって思って」段々と早口になる言葉の最後に、紛れる様に吐き出したそれは、震えていた。掠れていた。ぼくは鏡台の引き出しに入っていたものを、両手で握りしめる。



「見ちゃったんですね」



 ちゃんが、鏡の中でぼくの手元を見つめている。
 ぼくの手の中には、お母ちゃんが使っていた店の鍵ともう一つ、全くおなじものがあった。ぼくのものではない。ぼくの鍵は、財布の中に入っているのだ。だからこれは、それとは別の、三つ目の鍵だ。
 そもそも、おかしいと思っていたのだ。ぼくは戸締りをきちんとする癖があった。それは、お母ちゃんとこの街の旅館で住み込みで働いていた子供時代に叩き込まれたもので、お母ちゃんが店を開くとここを買ったときも変わらなかった。ぼくは家じゅうの鍵を閉めないと眠れないくらいに神経質で、それは家を出ていくときだって一緒だった。だって、出先から戻ってきたときに泥棒と鉢合わせなんて、絶対にしたくないし。
 だから、ちゃんがぼくの不在の間ここで生活していたというのは、普通に考えたらあり得ない。裏口の扉が開いていたというけれど、そこをぼくが閉め忘れるはずがないのだ。窓は一枚も割れていなかったことを考えると、彼女が扉を開けてこの店に侵入したのは間違いなく事実なのだろう。だとすれば、答えは一つしか考えられない。ちゃんは、最初からこの店の鍵を持っていたのだ。ぼくは、知っていた。お母ちゃんとぼくのほかに、もう一人だけこの店の鍵を持っていた人物を。かつて絶望していたぼくが殺した、あのやさしいひとを。



「……北沢くんの鍵だ」



 ちゃんが、首を傾げた。「は偽名です」言いながら、鏡の中で、目を細めた。その目から、ぼろりと涙が零れたのをぼくは見た。



「本名は、北沢



 部屋の片隅に立てかけられていた金属バットは、いつの間にか彼女の右手に握られていた。「花村さん」振り上げられるそれを、ぼくはただ、見つめている。



「お兄ちゃんを返して」



 彼女はずっと、最初から、北沢くんの敵討ちをするつもりで、この店でぼくの帰りを待っていたのだ。ぼくはそれを、知った。








 北沢くんは、この店がバイトを募集した頃やって来た男の子だった。
 高校を中退したとかで、ぼくが学校に行っていて手伝えない平日の昼間をメインに働いていた、真面目な子だった。ぼくが希望ヶ峰学園のスカウトを受けたときは一緒になって喜んでくれたし、お母ちゃんが厨房で倒れたときは二階の部屋までお母ちゃんを抱えて運んでくれた。もう一人息子ができたみたいだよ、とまで言わしめた彼は真面目で働き者で優しかった。
 ぼくが希望ヶ峰学園の二年生だったころ、お母ちゃんが入院することになった。そのときだって、もう店が休業状態に入ってしまった以上彼には関係がない話だったのに、ちょくちょくお母ちゃんのお見舞いに通ってくれたという。ぼくは彼の厚意に甘えていた。彼がどんな思いでいたかを考えようとしなかった。
 やがて絶望に染まり始めた世界で、ぼくはお母ちゃんを殺した。それにはいろいろ、ぼくの生い立ちにまつわる理由があったのだけど、今更そんなの言い訳にすぎないから語らない。ぼくはその足で店に戻った。罪木さんがくれた毒薬はまだまだたくさん残ってたから、大量に作ったスープに混ぜた。そうしていると、偶然前を通りかかって店に明かりがついていることに気が付いたらしい北沢くんがやってきた。いつか店で連絡先を聞かれていた女の子と一緒だった。二人は付き合うことになったらしかった。幸せそうだった。まだ、お母ちゃんの死を知らない北沢くんはぼくが厨房に立っている姿を見て、感慨深いと涙ぐんだ。ぼくはなにもかもがいやになった。もう世界は終わるのに。ぼくの世界は、もう終わったのに。そう思った。



「スープができたんだ。飲んでいくかい?」



 ぼくの言葉に二人が首をふるはずがなかった。二人は笑いながら皿を受け取って、きれいに平らげた。「さすが超高校級の料理人だね。腕があがったみたいだ」屈託なく微笑む北沢くんは、その夜死んだ。ぼくのスープは世界を救うはずだった。
 何が「救う」だよ。人殺し。








 だから、ぼくは彼女の殺意を受け止めるべきだった。だってぼくは、それだけの罪を犯した。北沢くんだけじゃない、大勢の人を殺した。この料理で殺した。ぼくは許されないことをした。だから、ぼくを許せないひとがいるのなら、ぼくは罰されて然るべきだったのだ。
 振り上げられた金属バットが、天井を掠める。そして、そのまま、ぶるぶると震えていた。ちゃんの目は充血していて、唇は戦慄いていた。少しでもつつけば溢れてしまいそうな感情の波に、必死で耐えているような形相だった。どれくらいそうしていたか分からない。ぼくは鏡の中の彼女の顔をじっと見る。正座をしたまま、背筋を伸ばして。ほんとうは怖くてたまらなかった。ちびりそうだった。逃げ出したかったし叫びたかった。痛い思いはしたくなかったけれど殴られるのは仕方ないと思った。だけど同じくらい、いや、ずっと、嫌だと思った。――逃げなくちゃ。
 けれどやがて、「う」と、ちゃんが顔を歪めて膝を折ったのだ。
 金属バットを放り投げて、ちゃんは足を崩して泣いた。咆哮を思わせた。ちゃんはただただ泣いた。ぼくはその姿を鏡を介して見つめている。



「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん」



 北沢くんのことを呼び続けるちゃんの体を抱きしめたかったけれど、ぼくがそんなことをしていいはずがなかった。ぼくはただ、震える拳を握りしめた。何度も何度も、彼女の泣き声に紛れて自分の腿を叩いた。ぼくは許されなかった。たった一人の女の子のために、命を捨てることができなかった。怖かった。償いたいと言っておきながら、ぼくは自分の死以外の方法を懸命に模索する。ちゃんが金属バットを捨てたことに、こんなにも安堵している。ぼくはずるい。ずるい、ずるいずるい、ずるい。ぼくはきっと一生だれも救えない。








 ちゃんは、次の日いなくなった。鏡台には二つの鍵が残されたまま、チラシの誤字もそのまま、彼女だけがきれいに存在を消してしまった。ぼくは厨房から、彼女がきれいにしていったカーテンの染みがあった部分を見つめる。修繕されたテーブルクロスを見つめる。彼女がよく座っていた、日当たりの悪い席を見つめる。
 調味料ケースを何気なく見ると、そこには透明な瓶が一本混ざっていた。「苦しまずに死ねる優しいお薬ですよ」いつかの罪木さんの言葉が、剥がれずに残っている。ぼくはそのラベルをじっと見て、指でなぞった。それから店の外の、ちゃんが懸命に落としてくれた壁の、一番汚れていた部分の前の土を掘り返して、その瓶を埋める。