そこは何もない島でした。空港も大きな港もない。車もいらない。人口は千には遥かに満たず、村人は自らの口に入るものだけをその手で作り、必要があれば物々交換を行う。自然と共生していると言えば聞こえは良いかもしれませんが、観光もなく、娯楽もないこの島を出る若者が後を絶たなかったのは、仕方がないことでした。
私の家の隣に住んでいた、と言っても、隣家は数百メートル離れた三叉路の奥まったところにあったそうですが、そこに住む四つ年上の道彦くんは、小学校を卒業すると同時に島を出て、今は全寮制の中学に通っているそうです。崖沿いに立つ煉瓦の洒落た家に住んでいる侑那さんは十代のうちに結婚しました。相手はこの島に唯一ある小学校の先生だそうです。私は知らないけれど、若くて優秀で、島の人ではない、らしいです。狭い、小さな島です。吉田のおじいさんという人が転んだとか、だれとだれがもめているだとか、そういう些末なことすら、島中の人の耳に届くのに時間はかからないと聞きます。 酔っぱらったお母さんの話はあてにならないので、まあ、そんな人たちが実在するかも定かではないのですが。
何もない島でした。空港も大きな港も車も人もいない。あるのは植物と動物と海だけ。ただ私は空港も港も車も見たことがないから、それがどんなものなのかは知りません。お母さんの言葉を聞いて、私はそれを反芻しているだけ。私は外に出てはいけないから、お母さんと、お母さんが連れてくる友達の話を、襖一枚隔てた六畳の部屋で、聞いているだけ。絵本もない。玩具もない。ご飯はたまに。だけど動けるから大丈夫よねってお母さんが言うので、私は大丈夫と繰り返す。
冬でも着込む必要のないくらい、あったかい島でした。私は同じ服を着て、におうようになればたまにお風呂場に連れて行ってもらい冷水を頭からかけられ、また六畳の部屋に戻される。その部屋は北向きで、あまり太陽の光が入らないのが気に入りませんでしたが、お母さんが気まぐれに置いていくガラクタが、どんどん、私の居場所を侵食するように積み上げられていくので、寂しくはないのです。特に、最近は本が増えてきました。私は唯一読めるひらがなだけを賢明に読みました。きっと、難しい本だったと思います。きぼう、かみさま、くもつ、いけにえ。意味が分からない言葉は、前後の文章から察するしかないのですが、これが難しくもあり、面白くもあります。
さて、今日もお母さんの友達はそういうものを置いていきます。彫刻とか、よく分からない絵だとか、これは一体何をモデルにしているのでしょう。私には理解できないものばかりです。新しい本がなかったことにがっかりしましたが、だけど一つだけ、私の目を引くものがありました。女の子の像でした。髪の長い、小さな女の子の、陶器でできた像。それをお母さんは、神様と呼んだ。
だから、お母さんがお友達とお出かけした雨の日、閉めきった窓の向こうから何かを叩きつけられた時、雨戸の隙間から見えたあなたを私は一目見て、神様だと気が付いたのよ。アンジー。
「あーっ! やっぱり人がいたねー」
お母さんがいない日でよかったと心底思った。アンジーの声は大きくて良く通った。黄色い雨具を着た小さなアンジーは、私と違う、陽に焼けた健康的な肌をしていた。大きな目で、小さな口をめいっぱい開けて、私を指差した。髪の長い、女の子。まるで私と違う女の子。
「このおうちに女の子がいるって聞いたことがあって、会いにきたんだよー。ねえ、あなた、名前は何ていうの? アンジーとお友達になってよー!」
雨戸の隙間からねじこまれた細い指を、私は自分のそれに絡めた。生暖かい温度を持っていた。雨が頬を殴った。私は雨が、こんなに冷たいものだということを生まれて初めて知った。人がこんなふうに笑うことを初めて知った。私に名前がなかったことを、私は初めて、知った。
アンジーは私をと呼んだ。そんな顔をしているからと笑った。アンジーはお母さんが出かける日を知っているかのように、私のいる六畳間の窓の向こうに現れた。アンジーは私にいろんな話をしてくれた。海辺で大量発生した海星、一瞬で消えた流れ星、食虫花の見た目のおかしさだって、彼女はいつも笑って聞かせてくれた。
アンジーは私と同じで、学校に行っていないと言う。もしも学校に行っていたら、私たちはきっと同じ教室で出会っていたと思うと、不思議な気持ちになった。ただ、私と違うのは、アンジーは好きに外を出歩けること。家庭の事情だねーとアンジーは笑うけれど、特殊なのはアンジーではなく私の方だと言うことを、無知ながらも私は察している。
私の足はアンジーのものとくらべると、随分と貧相だった。アンジーのように、とんだりはねたり、走ったりはきっとできない。だっていつも座っているんだから。曇りガラスの前で、私は座っているだけ。アンジーを待って、お母さんの置いていった本をまた初めから読んでいるだけ。日に日に増えていく絵画も人形も、そのすばらしさを私は理解できない。アンジーと、この本だけが私を救ってくれる。アンジーは笑う。大きな口を開けて笑う。猫がかわいいこと。押し花の美しさ。空を割る稲光の線。アンジーは何でも知っている。
「ねえ。指を出して」
開きの悪い窓は私の細い腕一本分しか開かない。私は言われた通りにアンジーのいる外に指を出す。真っ白だねーとアンジーは声をあげて笑う。だってお日様が入らないから。そう思った瞬間に、アンジーは私の爪に何かを塗った。ひ、と息をのむ私に、アンジーは再び笑い声をあげた。
「花びらを潰してーぐちゅぐちゅにしてーそうすると色のついた水が出るんだよー」
私の人差し指の爪は、アンジーの手によってあっという間に濃い紫色になった。
「それを爪に塗るとー可愛いよねー」
マニキュアみたいだよねー、と、アンジーは言う。マニキュア、初めて聞いた言葉だったけれど、私はそれが、何となくかわいい響きに聞こえて、気に入った。アンジーがくれたという名前の次に、私はそれを好きだと思った。
お母さんが帰ってくる前に、爪は皮膚に擦れて元の色に戻った。
アンジーは神様だ。私を守る神様だ。アンジーが来た日は、お母さんにぶたれても、蹴られても幸福だった。アンジー。私の神様。陶器でできたアンジーに良く似た像を、私は頭の近くに置いて寝る。ぼろぼろになった本を抱いて寝る。きぼう。かみさま。くもつ。いけにえ。そうすれば守られている気がする。外に連れて行って。そんなバカげた願いを、像と本は毎夜、飲み込んでくれる。
ある日、像が壊れた。酒に酔った母が、私を手近にあったそれで殴ったのだった。
我に返ったお母さんが悲鳴をあげる。嵐のような音の中、真っ二つに割れたアンジーを見つめている。アンジーは泣いていた。痛い痛いと泣いていた。「あ、ああああ、神様、神様」お母さんが縋りついて泣く。神様。神様。私は六畳の部屋を見回す。そこには溢れんばかりの絵画があった。彫刻があった。空白の多いクロッキー帳があった。像があった。神様の部屋。母は私をそこに置いた。
「お願いがあるの。アンジー」
「なに? のお願いだったら、アンジーは何でも聞いちゃうよー?」
「何でも叶えてくれる?」
「勿論だよー!」
なんでもできる。だってあなたは神だから。
「私をあなたのところへ連れて行って」
の言っていることはアンジーには良くわからなかった。ただはいつも死んでいるような顔でアンジーを見ていた。
初めてと出会った雨の日、あの日アンジーは部屋を抜け出していた。お客さんがくると聞いたから、嫌になって逃げた。母に呼び止められたので、部屋にあるものは好きに持って行っていいと伝えると、彼女はアンジーが出かけることを黙認した。
数人の女の人たちの姿が畦道の向こうに見えたので、隠れた。アンジーは黄色い雨合羽を着ていたから目立ったけれど、小さかったおかげが、しゃがんだだけで誰にも見つからなかった。
アンジーの絵はすごいらしい。アンジーの彫刻はおもしろいらしい。神様が宿ってるんだって。アンジーには良くわからない。今もアンジーは子供だけれど、もっともっと小さい頃からそう言われていた。だから、アンジーはこの島の人から、そういうふうに崇められている。だから、学校も行かなくていいんだって。歩いていると、そのへんのおばあちゃんやおじさんにすれ違うだけで拝まれる。慣れちゃったから、アンジーは笑って手を振る。
アンジーは散歩が好きだ。この島はきれいだから、なんでもあるから、歩いていると新しい発見が必ずある。家に帰った後、それを記憶に留めておくためだけに、アンジーは絵を描いたり彫刻をほったり粘土をこねたりする。そこにそれ以上の意味なんてない。作ったものはもうアンジーの中に残るから、それがどこの誰の手に渡るかなんて関係ない。
あのお客さんたちは常連だ。島の隅っこのほうに住んでいるんだって聞いたことがある。そのうち一番若い女の人には、子供がいるって噂もある。噂だから、本当かどうかはわからない。案外幽霊かもしれないね。そう思ったら急に興味がわいてきて、アンジーはその人の家に行ってみた。が窓から目を見せた瞬間、だから、アンジーはが生きていようがいまいがどうだっていいから、友達になりたいと思った。は同じ年くらいの女の子だったから。だから。
には名前がなかった。不便だからアンジーが適当につけた。我ながら可愛い名前だ。は気に入ったのかどうかわからない。だって、喋らないのだ。はアンジーの話を黙って聞いている。時折頷くから、耳が聞こえないというわけではなさそうだ。アンジーは、相槌だけで満足だった。家に帰ると、アンジーはいつも絵を描いた。大きなキャンバスにいっぱいの絵の具を使った。はキャンバスの中で、笑っている。
ところでなんではあの部屋から出てこられないんだろう。尋ねても、は喋らない。
と知り合って一年が過ぎた頃だった。は初めて、アンジーに声をきかせてくれた。弱々しくて、ちょっとつついたら消えそうで、だけどかわいい声だった。思った通りの声だった。
「お願いがあるの。アンジー」
「なに? のお願いだったら、アンジーは何でも聞いちゃうよー?」
「何でも叶えてくれる?」
「勿論だよー!」
だっては、アンジーの友達だから。
「私をあなたのところへ連れて行って」
私は外に出たかった。お母さんを傷つけることなく、お母さんに愛されるわたしのままで、外に出たかった。そうして走ってみたかった。転んでみたかった。草のにおいをいっぱいに吸い込んで、星空を眺めてみたかった。海で泳いでみたかった。何もないこの島で、私は何もかもをしたかった。
アンジーはと手を繋いで歩いてみたかった。一緒に散歩をして、蝉の抜け殻を集めてみたかった。猫を追いかけてみたかった。に笑ってほしかった。何でも叶えてあげたかった。外に出たいとがいった時、アンジーは嬉しかった。同じことを願っていたと思ったから。だから。
なのに。
「ねえ、あなた、生贄に選ばれたわ。夜長さんの、そう神様の依り代の、あの方が、あなたが生贄にほしいって言ったそうよ。ああ、これってすごいことなのよ、はじめてのことよ。あなた、すごいわ、ねえ、あなたは私の誇りよ。産んでよかった、あなたがいてよかった、わたしはあなたの母親で幸せだわ」
は、突貫で作られた、けれど立派な祭壇の階段を、支えられながら登る。アンジーはそれを、てっぺんで見下ろしている。どうしてこんなことになったのか。アンジーには分からない。分からないけれど、は、歩いている。きちんと、支えられながらでも、立っている。空気をいっぱいに吸い込んで、階段をのぼりきって、アンジーの前で、は立ち止まった。
「アンジー」
いけにえになりたいと、は言った。いけにえという言葉を、アンジーは知らなかった。知らなかった。聞いたことがなかったから。アンジーは、そのままを家に帰って母に伝えた。アンジーの言葉は村中を駆け巡って、あとは、瞬きをする暇もなかった。は神様の生贄になった。
「私は外に出てみたかっただけなの」
アンジーはと一緒に歩いてみたかった。散歩をしたかった。声をあげて笑ってみたかった。
「それが叶って、私は、とてもしあわせよ」
が笑う。アンジーが今までに描いたどのよりも、きれいで、きらきらしていた、祭壇の向こうで、稲光が光る。雨が降る。ああ、、言いたくても声が出ない。
「アンジー」
がアンジーの手を取る。あんなにあたたかいと思ったの手が、ひやりと冷たい。
鳥が一斉に空を飛んでいく。階段の下で、村中の人々が、の後ろ姿を見上げている。だから、ずるいと思った。アンジーは本当に神様になってしまう。がアンジーを、神様にしてしまう。あなたはアンジーの目の前から消えてしまうのに。
「あなたはわたしの神様よ」
の背後で、川合のおじさんが斧をふりあげる。 呪いだけを残して、はアンジーをおいていく。
アンジーには神様の声が聞こえる。その声は、のものにとても良く似ている。