叔父が体を壊して、経営していたペンションを畳むことにしたと言う話を聞いたのが今から二年前の年始のことだった。
観光地から少しだけ離れた山奥にあるそのペンションは、良心的な値段設定と素朴な料理、商売っ気のない叔父夫妻の人当りの良さが評判になって、かつては予約でいっぱいだったらしい。私も何度も両親や弟と泊まりに行ったことがある。私が住んでいたのは代々続く日本家屋だったから、絵本に出てくるようなログハウス風の三角屋根も大きな煙突も、周囲に植えられた可愛らしい木や花も、薪木をくべる暖炉も、そのどれもが新鮮だった。心を奪われたのだ。叔父さんのおうちの子供になりたいと駄々をこねては、子供のいなかった二人に微笑まれたものだった。
私はあのペンションが好きだった。叔父夫婦を両親ほどに愛していた。あのペンションが誰かの所有物になることは愚か、建物すらも取り壊されてしまう可能性があると聞いただけでぞっとした。
「だったら私が継ぐ」
突発的な発言ではないつもりだった。継ぐということは今までの生活すべてを捨てることだ。職にしろ、生活環境にしろ、私は自分がこの年になるまで築き上げてきたものを全て放り出して、たった一人でそこで暮らすことになる。いや、暮らすだけならばきっと大した問題ではない。ペンションを譲り受けることで生じる諸問題は、私が考えているほど甘くはないのだろう。それでも私は叔父さんたちが愛したあの地を留めておきたかった。
今や宿泊業は下火だし、そうでなくても、あそこは土地が土地だ。かつてのように予約で埋まるようなペンションではない。いろんな人に宥められ説得されたけれど、あまりにも頑なな私に最後は両親も叔父夫妻も折れた。弟が味方になってくれたのも強かったけれど、それ以上に、きっと誰もがあのペンションを諦めたくなかったのだろう。かくして私は勤めていた職場を辞め、温かい思い出の詰まったペンションを譲り受けたのだった。
私が経営者となった山奥のペンションは、なるほど記憶の中から掘り出しても見つけることができなかった様々な問題を抱えていた。叔母さんが毎日の業務内容を書き記したノートは実に数十冊に及んだ。時間があるときに重要な点だけを抽出して、パソコンを使ってまとめなおす。
数年前に外壁を修繕したとは言え、二十年も経てば建物や家具の劣化は否めない。がたついていたテーブルが五台と椅子が十六脚。私は経営業の傍ら、解体したそれらとホームセンターで買ってきた木材を組み合わせて家具を作り直した。お客さんがいない平日に壁紙を塗り直し、すっかり花のなくなった花壇に好みの花を植えた。宿泊客の足はそれくらいでは戻らないけれど、見るからに古く傷んだペンションは、変貌を遂げていた。妙にアンティーク感のある内装は過去のそれとは少し異なってきたかもしれないけれど、私は好きだった。
料理をすることは元々苦手ではなかったことも幸いした。叔母さんにレシピを貰い、その通りに作るだけだ。玉ねぎを飴色になるまで炒めるとハンバーグは驚くくらいに美味しく作れたし、野菜スープは大量のストックが出来るから自分用に冷凍しておくことも可能だ。毎日忙しなく働いて、食事は買ってきたもので済ませていた頃に比べていたらこの生活は酷く健康的だった。朝陽が昇る頃目を覚まし、全ての業務を片付けてから眠る。経営は確かに苦しかったけれど楽しかった。
一番集客するという春と夏を終えた、初秋のことだった。ぽつぽつと予約が埋まるだけの宿帳を眺めていると、突然ペンションの電話が鳴った。「あれ?」私の声を聞いた瞬間、そんな声が受話器の向こうで聞こえた。
「新しい従業員さんっすか?」
彼がシーズンから外れた時期に一人分の予約をとっていったのは、私がペンションを任されて数カ月が経った頃だった。
十一月の平日に泊まりに来た彼は自分のことを「蘭太郎」と呼んでほしいと言った。整った外見をした、今時の男の子だった。目じりの下がった大きな瞳に、柔らかなくせ毛、しっかりとした長身で、大層礼儀正しい蘭太郎さんは、そこにいるだけで空気までもが入れ替わる。今までたくさんの人に会ってきたけれど、ここまで非の打ちどころのない外見をした人は初めて見たかもしれない。蘭太郎さんは私が叔父さんに教わった通りに淹れたブラックコーヒーを飲みながら、「ああ、さんの味がするっす」と笑った。お世辞でも嬉しかった。
「でも、中も随分雰囲気が変わったっすね。驚いたっす。ええと……」
「でいいですよ」
「それじゃあさんたちとごっちゃになるじゃないっすか。下の名前はなんていうんすか?」
「です」
「じゃあ、さん」
他に宿泊客のいない夜だった。私はお皿を洗い終えると、カウンター越しに私を見つめていた蘭太郎さんに気が付いて驚く。真っ直ぐに見つめる人だと思った。山の、冷えた水でかじかんだ手をデニム地のエプロンで拭う。何てことない風を装いながら、私は恐らく自分とほとんど年が変わらないであろう男性客に、薄く微笑みを返した。
「女性一人でここまでするのは大変だったでしょう」
「そうでもないです。適当ですしね。今蘭太郎さんが座ってる椅子も、突然壊れちゃうかも」
「ああ、それは困るっすね」
私の冗談にも適切な笑みと言葉を返す蘭太郎さんは、どこか浮世離れしているようにも見えた。あまりにもその風貌が美しいから、非現実的な存在のように感じられてしまうのだろうか。
「でも、そうっすか。世代交代っすか」
感慨深げに呟くその言葉に、小さく頷く。彼は数年前から毎年この時期になるとこのペンションに泊まりに来ていた、所謂リピーターという人らしかった。ペンションが盛況していた頃ならともかく、今は彼のような存在は珍しいだろう。蘭太郎さんは「おじさんやおばさんのあったかい雰囲気が好きで、毎年この時期が楽しみだったんすよ」と続ける。どこか物憂げに伏せられた長い睫毛を眺めながら、私はすっかりこの人の不思議な魅力にやられていた。見た目だけでなく、私の好きなものを愛してくれていた、その事実に心を許してしまったのだ。
「でも、さんが継いでくれてよかった」
すっかり湯気の失せたマグカップを、彼は両手で包み込む。
「やっぱりこの建物がなくなってしまったら、悲しいっすから」
蘭太郎さんの笑顔は、薄い氷のように美しい。
蘭太郎さんは三泊四日の宿泊期間中、お客さんであるにも関わらず薪を割ってくれた。これからの季節にはたくさん必要でしょうと笑う彼に恐縮していると、彼は去年も一昨年も手伝ったんでと笑う。驚いていると叔母さんから電話がかかってきた。慌てた様子で「伝えるのを忘れていたんだけれど」と言う彼女に「蘭太郎さんのこと?」と笑いながら言うと、叔母さんは受話器の向こうで短い悲鳴をあげた。代わってほしいというので蘭太郎さんを呼ぶと、彼は汗を拭いながら携帯を受け取る。お久しぶりです、はい、ご病気と聞いて驚きました。穏やかな声音で語る彼は本当に叔父を思いやっているのだろう。
「さん。ありがとうございました」
何分か叔母と話をした後、再び私にスマホを手渡した彼の目は優しかった。
「声だけでも聞けて良かったっす」
叔父たちにとって、彼は子供のような存在だったのかもしれない。
蘭太郎さんは暖炉の前で本を読んでばかりいたけれど、一日だけ外へ出て行った。紅葉を見に行くらしい。リュックサックを背負って出かけた彼が戻ってきたのは日が落ちる頃で、「お土産っす」ときれいなどんぐりを持ってきたので、私は笑いながら受け取った。ジャムを作るための空き瓶にどんぐりを入れる。自室の窓辺に飾ると、それは二度と開けてはいけない宝箱のように見えた。
彼の宿泊中、他に予約は入っていなかったから、夕飯のメニューは彼のリクエストでビーフシチューを作った。叔母さんのレシピ通りに作ったそれを彼は美味しそうに平らげて、おかわりまでしてくれた。きっとたくさん歩いたから、お腹が空いたのだろう。言葉少なな彼のつむじを見る。とても美しい渦だ。じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうなほどに。私の視線に気が付いたのか、蘭太郎さんは顔をあげて、私にうっすら微笑んだ。その瞳が一瞬翳って見えたのは、電球が作り出す影のせいだ。
蘭太郎さんは次の日にペンションを去った。
「また来年も来ます」
私にとっては、途方に暮れるほど頼りない言葉だけを残して。
この年になると、しかし一年などという期間は瞬きの間に過ぎていく。客足の遠のく冬に私はペンションのホームページを作った。ペンションの外観や内装の写真を撮って、予約フォームを置いてみたらそこからの予約は少しずつ伸びていった。近くに観光地らしきものは特別なかったけれど、安い料金と写真に写っていた内装に惹かれたのだと女子大生のグループに言われたときはあまりの嬉しさに涙ぐんでしまった。
「若いお客さんが増えたのは、やっぱりちゃんの感覚のおかげだろうな」
叔父の病気は小康状態で、私の定期的な報告には声を弾ませてくれた。蘭太郎さんが切ってくれた薪を暖炉にくべながら冬を越え、去年よりも遥かに忙しくなった春と夏を過ごす。蘭太郎さんが私にくれた、瓶に入ったどんぐりを眺める。私は彼のやってくる秋を心待ちにしている。
「お客さんが増えたんすね」
冬に来てくれた女子大生たちが撮った写真を貼っておいてほしいと言ってくれたために、入口近くに専用のボードを置いた。いつの間にか宿泊客の写真でいっぱいになってしまったそれは、今では眺めるのが楽しくて仕方がない。蘭太郎さんはそれを眺めながら、「何よりっす」と薄く微笑む。彼が予約をとったのは去年と同じ十一月の平日だった。曜日は違えど、全く同じ日にちに連泊を希望する彼に何かこだわりがあるのだろうかと思わないでもないけれど、勿論それを尋ねるなんてことはしない。コーヒーを淹れながら、彼の横顔を眺める。去年と同じ、色素の薄い柔らかな髪に長い睫毛、大きな瞳は穏やかで、私は「蘭太郎さんも帰りに撮っていきますか? 飾りますよ」と冗談ぽく口にする。
「こんな若い子の中におっさん一人の写真があったらダメでしょう」
「そんなことないですよ。味があっていいじゃないですか」
「おっさんってところを否定してほしかったっす……」
「その子たちに比べたら、私たちなんておじさんおばさんでしょう」
私の言葉に「まあ確かに」と笑う蘭太郎さんがいくつなのかを、私は知らない。ホームページからの予約であれば年齢の欄は要記入になってはいるけれど、彼は今年も電話で予約をしてきた。私が知っているのは、彼の名前がアマミランタロウで、十年も前からここに一人で泊まりに来ているらしいということだけだ。
私の淹れたコーヒーを飲みながら、蘭太郎さんははぁと息を吐く。
「ああ、さんの味がするっす」
去年と同じ言葉を、彼は繰り返す。
三日目の昼に彼は紅葉を見に行くと行って出て行った。陽が落ちた頃「お土産っす」と笑ってどんぐりをくれた。今年もきれいな紅葉でしたと言うその横顔はどこか頼りなかった。私はそのどんぐりを自室の窓辺に置いた瓶にいれた。からころと音を立てて混ざり合うその茶色の木の実を私は瓶の外側から撫でる。彼は次の日に帰っていった。また来年も。そう言って。出入り口の傍のボードに彼の写真はない。
ペンションの経営は軌道に乗った。近場に小さな牧場がオープンしたのだ。入場料のいらない小ぢんまりとしたものであったけれど、家族連れが増えた。賑やかな子供の笑い声が響くようになった。ホームページからの予約が大半を占める様になって、電話はほとんど鳴らなかった。ノートからパソコン上に移した宿帳はそこそこ埋まって、私は夏の間だけ近くに住んでいる大学生の女の子を雇うことにした。可愛くて元気のいい子だ。掃除なんかは私より丁寧にやってくれるかもしれない。入口近くのボードは既に二代目になり、初代のボードは自室に飾ってある。いつも賑やかな食堂が、しかし秋も深まる頃には例年通りの静けさに包まれる。私がペンションを継いでから三年目、三度目の蘭太郎さんの宿泊も、十一月の平日だった。去年も一昨年も同じ日だった。
「バイトが雇える余裕ができたんすね」
「夏の間だけですけどね。申し訳ない位の薄給だったんですけど、いい子で助かっちゃいました。叔父さんもすっかり元気になりましたし、喜んでくれてます」
「本当に? それを聞いて安心しました」
私の淹れたコーヒーを飲んで、彼は「ああ、さんの味がするっす」と呟いた。恐らく、特に意味なんてなかったのだろう。だけど私は徐々にこみあげてくる嬉しさに胸がひりひりと痛んだ。
薪をたくさん割ってくれた蘭太郎さんは、「明日は出かけます」と私に告げた。例年通り、三日目の日中、彼はリュックサックを背負ってペンションを出て行った。その後ろ姿を見送ってから私はなんとなくテレビをつける。蘭太郎さんがきれいに食べてくれたお皿を水で一度流す。ラッコの親子についての特集のあとに流れたそのテロップに、私は思わずお皿を洗っていた手を止めた。
その日の夕方に帰ってきた蘭太郎さんは、お土産っすと言ってどんぐりをくれた。私はそれを笑いながら受け取る。
「ありがとうございます。宝物なんです」
「はは、嘘ばっかり」
「嘘じゃないですよ。瓶にいれて飾ってます……って気持ち悪いことを暴露してしまいました」
「え、本当に取っておいてくれてるんすか?じゃあ、来年はもっと別のものをプレゼントしますよ」
「いえ、どんぐりで充分です」
「そんな、動物じゃないんすから」
食事を終えると、蘭太郎さんは「テレビを見てもいいっすか?」と尋ねた。このペンションに宿泊している間、彼がそう尋ねたのは初めてのことだった。時計を見ると、九時を過ぎている。私は「テレビと言えば朝見たんですけど」と、朝のようにお皿を洗いながら言う。
「ラッコっているじゃないですか。絶滅危惧種らしいですね」
「……さん」
「今、日本中に二十頭もいないそうですよ。びっくりしました。小さいときに水族館で見たときはもっといっぱいいた気がするんですけど」
「さん」
「今いる子たちも高齢化が進んで、なかなか繁殖も難し……」
俯きながらお皿を洗っていたせいで、私は彼の手がカウンター越しに伸びてきたことに気が付かなかった。蘭太郎さんのごつごつとした大きな手のひらは私の頭をぐ、と抑える。彼は撫でるというには随分力のこもった仕草で私の表皮をなぞった。制するようだった。
「大丈夫っすよ」
怒っているわけではないと知ったのは、その向こう側の彼の声が、酷く優しかったからだ。顔をあげることができないせいで、彼がどんな表情でいるかを私は知らない。だけど、きっと彼の瞳はあのときのように翳っていて、寂しい。
「知らないふりをしてくれて、ありがとうございます」
だけどと彼は言った。
「もう、いいんです」
彼は、カウンターの上に置いてあったテレビのリモコンを手にした。止める間もなく電源が入る。彼の顔は、私の位置からでは見えない。蛇口から流れる水の音はテレビの音をかき消すには足りなかった。夜の報道番組は朝と同じような内容で、私は画面の端に映ったテロップを凝視する。
連続幼女殺人事件犯人の死刑執行。抑揚のない女性アナウンサーが、十五年前に起きた事件の詳細を語りだす。T県の山間の町で起きた連続誘拐殺人事件、町の女児が二人と、当時家族旅行に来ていた少女が被害に遭った。見知った山道がテレビ画面に映る。見事な紅葉が広がる山の稜線はこのペンションからもよく見えた。マイクを持った男性が「この林の中で少女は消息を絶ちました」と真剣な眼差しで告げている。十五年前に世間を騒がせた殺人事件、外部からの被害者であるその少女の名前と写真が公開される。たれ目がちの大きな瞳、癖のある長い猫毛に、人懐こく微笑むその少女。
「この事件のせいで、この辺は一時お客さんが来なくなったでしょう。だから、申し訳なかったなって、思ってたんす」
「……そんな、そんなこと、だって……だって一番の被害者は」
声が掠れる。涙が溢れて、拭いたいのに、私の両手は既に蛇口から溢れる水で濡れている。「奇しくも犯人の死刑が執行された今日が、少女の命日でした」蘭太郎さんは黙ったまま、テレビ画面をぼんやりと眺めている。
「今日、報告してきました。勿論、墓はここにはないんすけど。明日、本当に妹が眠ってる墓に行ってきます」
「……」
「さん」
顔をあげても、もう蘭太郎さんの輪郭も曖昧だ。それでも私はそこに彼がいることを知っている。細身の長身で、いつも穏やかに微笑んでいる優しいひと、この三年間で私たちが一緒に過ごした日々なんて両手では少しだけ足りないくらいの細やかなもので、なのに私は彼が好きだった。彼の話し方が、表情が、気遣いが、時折見せる寂しげな瞳が。だから幸せになってほしいと思った。
「泣かないで」
手首で涙を拭って明瞭になった視界の中で、蘭太郎さんは静かに笑っていた。
あれから六年が経った。ペンションは昔のような活気を取り戻して、今ではシーズン外でもそれなりに予約で埋まるようになっている。数年後には少し先の山にスキー場ができるらしい。そうなると、休む暇がなくなってしまうかもしれないけれど、嬉しい悲鳴だ。一度は必要がなくなったアルバイトも、再び募集しなくてはならなくなるかもしれない。
叔父は去年、病気が再発して亡くなった。
「だけど、娘と息子の晴れ姿が見れて幸せだったって言ってたわ」
ペンションのボードには、今もたくさんの写真が飾られている。「ここに結婚式の写真でも貼るっすか」と冗談ぽく言う彼に、私はお皿を洗いながら、笑って首を振った。