1
騎士団小隊長だったフレン隊長が昇格して幾つもの隊を任されることになったって聞いたとき、私は多分、その場に相応しくない表情をしてしまっていた。
部下としては喜ぶべきだ。ソディアさんのように、他の皆のように彼を祝福すべきだ。分かっているのに、頬が固まって動かない。言葉が上手く出てこない。
フレン隊長が今より上に行ってしまえば、私たちの訓練を見てくれる人は、フレン隊長の代わりにと推薦された人物になる。任務でだって、一緒に行動する頻度は減るだろう。彼は上に立って指揮をする。共に昇進することになるらしいソディアさんたちはそうじゃないけど、私たち一介の騎士は違う。小隊長でなくなったフレン隊長とは、きっともう今までのように一緒にはいられない。
昇格の話を聞いた後、野営地で一晩中哨戒にあたっていた私は、青が萌え出す朝にようやく、はじめて絶望した。ひんやりとした空気が頬を撫でていた。こんもりとした木々の奥から小さな鳥が二羽羽ばたいて、私たちの天幕から遠ざかっていった。それはいつしか空に落ちた染みのように小さくなって、やがて消えた。行ってしまう、と思った。フレン隊長が。
そうしたらもう、終わってしまうのだと。
朝靄一つない夜と朝のあわいの中で、「やだな」って呟いたけれど、露に濡れた草に吸い込まれて、それは呆気なく消えてしまった。
2
私が騎士団に入団して間もない頃、ほぼ同時期に、フレン隊長は私の配属された部隊の小隊長になった。
一足先に別の部隊に入隊した同期たちはそれぞれの小隊長に徹底的にしごかれていたから、本当は、怯えていたのだ。この年若く穏やかな面立ちをした小隊長も、恐らく訓練が始まれば鬼の形相に変わるのだろう、って。私たちはいじめ抜かれ、鍛え上げられ、性根を叩き直され、そして騎士たるに相応しい人間へと正される。覚悟なんて騎士団の門を叩いたときから、いや、貴族の子弟として生まれ育ったときから決まっていたはずなのに、どうしてこうも恐ろしく思えてしまうのか。
そもそも、私は同期の中で一番の劣等生だった。武器も上手く扱えず、魔法の類はからっきしで、兵法もろくに理解できない。両親からだって兄弟と比べられ、どれほどため息を吐かれたか。こんなどうしようもない私は、きっと目をつけられてしまうに違いない――。そう思っていたのだ。
だけど、フレン隊長はおかしな人だった。
訓練中、槍を振るう私の前でフレン隊長は足を止めた。ほとんど反射で、怒られると思った。武器に振り回されるばかりの私は、周囲の騎士に笑われるくらいに無様で滑稽だったから。「君」と、フレン隊長は私を呼んだ。傷も穴もない、なめらかな声だった。
「名前は?」
「は、はい! と申します!」
「――」
背筋を伸ばした私が手を取られてその手の平を空へと向けられたとき、何が起きているのか分からなかった。
小隊長に怒鳴られた。手をあげられた。懲罰を命じられた。そのどれもが小隊長の機嫌一つで行われるものだった。――そういう話ばかりを私の耳は拾っていたから、だからこの、フレン隊長もきっとそうなんだって思い込んでいたのだ。
清く正しい騎士団なんてまやかしだ。騎士に相応しい人格者に私たちが鍛え上げられることはない。だって、蓋を開けてみたらここは、そんなに綺麗な場所ではなかったから。新米騎士を夢から覚めさせるのに、そんなに長い月日は必要なかった。私はだから、心の準備だけはしていたのだ。いつだって「物語にあるような騎士などここにはなかった」と落胆できるように。
春の日差しが訓練場に差し込んでいた。なんてことない芝に光がいくつも反射して、緑を濃くしていた。武器のぶつかり合う音は耳にきんと響いていたのに、どうしてフレン隊長の優しい声は、それを縫うように私の耳に届いたのか。
「ああ」
清涼めいた音だった。私の隙間に等しく入り込むような、生ぬるい声だった。
「やっぱり、マメが潰れてしまっているね」
「は」
呼吸ができなかった。
フレン隊長は、皮が破けてぐずぐずになった私の汚い手の平を、気遣わしげに見つめていた。決して、決してため息など吐かなかった。
「この手を見るに、ずっと訓練を続けていたんだろうけれど……こんな状態で槍を振っても、成果は出ないよ」
「……は、はい、すみません!」
「君は良い手をしているから、少し休んで傷が癒えたら、また槍を握ると良い。その時は正しい武器の扱い方を教えてあげるから」
「ありがとうございます!」
「――まあ尤も、僕も槍はそれほど得意ではないんだけどね」
自嘲というよりは、ただ事実を述べただけの言葉だった。フレン隊長の眉根は、証拠に少しも寄ってはいなかったから。こういう風に話をするひとを、私は知らなかった。初めてだった。私の前で居丈高に振る舞うことをしない男性は。
フレン隊長の指先が離れていく。「だけどこんな風になるまで訓練するなんて、君は偉いね」瞬間、光が爆ぜたように見えたのだ。
青い双眸が、何かの冗談のように美しかった。鼓膜を揺らす柔らかな声は、人を傷つけるためにあるものでは決してなかった。
声を失ったままの私に、フレン隊長はその眦をやわく細めた。
「――その調子で」
フレン隊長は、声を荒げることなんかほとんどなかった。理不尽な命令もなければ、他の小隊長がそうしていたような八つ当たりなんか、一度だってされた試しがなかった。下町出の騎士もどき。貴族の出である他の隊長からはそう揶揄されていたけれど、彼は私の知る誰よりも、強く、優しく、公明正大な騎士だった。だから今の騎士団で彼は、残念なことに、おかしな隊長だったのだ。私の憧れる、幼い頃屋敷で読んだ、物語の騎士そのものだった。
「偉いね」のたった一言で恋に落ちた私は、愛と尊敬をはき違えていただけなのかもしれないけれど。
3
隊長は、私の手の平からマメがなくなった頃、本当に私のために時間を取ってくれた。手を保護するためのグローブを譲ってくれた。馴染む武器を、休日を潰してまで一緒に探してくれた。お礼がしたいと勇気を出して食事に誘ったら、「すまない。気持ちは嬉しいけれど、この後予定があるんだ」と断られた。迷惑かと思ったけれど、後日クッキーを渡した。美味しかったと後で声をかけてもらえたときは、もうそれだけで十年は生きていけると思った。
いつだって民のために行動できる人だった。彼の中に、普通の人間ならば多少なりとも持ちうる「私利私欲」なんてものは欠片も存在しないように思えた。フレン様、フレン、フレンさん、隊長。下町の人たちから、部下から名前を呼ばれる度、彼はその双眸を細める。洗いざらしの布のような人だった。雲一つ無い空の下が何よりも似合う人だった。その背中は本当だったら遠いはずなのに、彼が振り向いて手を差し伸べてくれるから、勘違いをした。
私はフレン隊長を愛する部下の一人に過ぎなかった。私みたいな人間は、女じゃなくたって大勢いた。全員が全員恋慕の情を抱いていたわけでは、勿論ない。でも、そうじゃない人間も珍しくなかった。なんならファンクラブだってあったしね。だから選んでもらえるなんて夢を、本気で見ていたわけじゃなかったのだ。傍から見たらダダ漏れの愛でも鈍感なフレン隊長は決して気付いてくれなかったし、私もそれで良かったはずだった。
休暇を取った日、お酒を飲んで同期と別れた帰り道でフレン隊長と偶然出会ったとき、酔いもあって「私、フレン隊長が好きです」って言ってしまったことがあった。女性騎士の宿舎まで送り届けると言ってくれたことが、あんまりにも嬉しくて。隣を歩けたことに、勘違いを、してしまって。
「…………ああ、ありがとう。嬉しいよ」
彼は、本気にもしていないような表情と声色で言うだけだった。私の告白は、酔っ払いの戯れ言だと思われたか、迷惑だったかのどちらかだと、翌朝ベッドから落ちた衝撃で目を覚ましたときに思った。
「好き」だなんて、とんでもないことを言ってしまった。一体私はどんな顔でフレン隊長と会ったら良いんだろう。そう思っていたけれど、その後顔を合わせたフレン隊長はいつものように、「」と私の名を呼んで、その日の任務について話をしてくれた。話の後、「昨日はすみませんでした」と謝った私に、彼は笑って、「お酒はほどほどにね」と言うだけだった。
4
フレン隊長との思い出は、だから、この両手に抱えきれないほどある。
城内を歩くエステリーゼ様の隣に立つフレン隊長は、完全無欠の騎士に見えた。怪我を負った部下を庇いながら剣を振るう姿も、治安の悪化に頭を痛める横顔も、エステリーゼ様のことで思い悩んでいたのも、名前を呼べばいつも目を合わせてくれるところも、好きだった。
今生の別れではない。
フレン隊長は、私たちの部隊だけじゃなくて、他の部隊もまとめる立場に昇進するだけ。前線に出ないわけではない。私たちを置いていくわけではない。でも、もう前みたいに近しい関係ではいられないのだ。それは私にとって、「だけ」には思えなかった。
天幕から離れ、ふらふらと林を歩いていたら、小さな川に出た。昨夜水を汲んだ場所の、川上に当たるのかもしれない。空気は澄み切っていて、いっそ痛いくらいだった。深く息を吸って身体に取り込めば、恐ろしいほどに頭が冴え冴えとした。それでも尚「嫌だな」という思いは拭いきれなかった。
本当は、そろそろ天幕に戻って交代をしなくてはならない。いつまでもこうしていたら、私が戻らないせいで騒ぎになってしまうかもしれないから。でも、騎士団が支給してくれたブーツは今の私には重くて、足の裏が地面にぺたりとくっついてしまったみたいだった。
ため息を吐きながら、そのへんに落ちていた枝を手に取って、水分を含んで柔らかくなった黒土に線を描く。フレン隊長、って書いて、ぐるぐるの渦を書いてそれを消していたら、なんだか自分がとっても惨めな存在に思えてきた。好き。好きです。念じるように思う。
フレン隊長と出会ってから、だって私、奇跡の連続だったから。私の歩く日常がぱっと華やいで、「どうしようもない」って家族に言われて育ったこの頭が、顔が、手が、全部全部価値のあるもののように思えたから。
今までの私だったら、絶対、お酒が入っていたとしても、嘘でも、好きだなんて言えなかった。フレン隊長に見出してもらった存在価値が、それまでの努力が、一本しかなかったこの道が、私には初めて尊いものに思えたんですよ。フレン隊長の下でなければ、もう騎士団なんて除隊してしまっていたかもわからなかった。そうして家を追い出されて、野垂れ死んでいたかもしれなかった。フレン隊長が私を救ってくれた。それだけは間違いなかった。
永遠の別れでもなんでもないのにこんなところでさめざめ泣いて、人は私を馬鹿だと笑うかもしれないけれど。
でも、諦めなくちゃ。全部全部。これからはフレン隊長じゃない他の隊長の下で頑張らなくちゃ。だから、そのためにまず私は泣き止んで、顔を洗って、天幕に戻って、「昇進おめでとうございます」って精一杯の笑顔でフレン隊長に伝えるのだ。
私にできることは、たったそれだけだ。
5
は多くの騎士がそうであるように、貴族の出だった。
国を守る為に騎士となることが生まれながらにしてほとんど義務づけられていたのは勿論彼女に限った話ではなかったが、それでもとりわけ、はその義務に縛られ、苦しんでいた人間だったと僕は思う。……要するに、向いていなかったのだ。ユーリとはまた、違った意味で。
は優しかった。魔物の親が子を護るのに、その槍を向けるのを躊躇うような人だった。下町の人間に厳しい言葉を浴びせられても、毅然と対応できる人間ではなかった。他の貴族出の騎士たちのように、根深い差別思想を持っていることもなかった。
どうやら彼女は、幼い頃から優秀な兄弟と比較され、躾と呼ぶには厳しい環境の中で育ったらしい。下流貴族には、よくある話だ。
「フレン隊長には見せられないですけど、お腹とか、痣あるんですよ、私」
だけどそんなことを言うのに、困ったように笑ったりしないでほしかった。僕が怒れなくなってしまうから。
激昂した下町の人間に殴られたために腫れ上がった頬を冷やす、その指先が、騎士でもなんでもない、ただの女性のものであったらよかった。騎士団の医務室は、冷え冷えしていた。僕達の他に、誰もいなかった。カーテンの向こうで、庭師が蕾を剪定しているのを眩しそうに眺めながら、はほとんど、独り言のように言葉を重ねていた。
「だから、弱い……って言ったらだめかもしれないんですけど、その、民たちの気持ちも、わかる気がして。……彼らの訴え、全部、どうにかできたらいいのにって、考えちゃって」
どうにかするには、私ももっと頑張らなくちゃいけないんですけどね。
そうぽつりぽつり話した彼女の横顔は、橙の灯りに溶けて、陰影がぼやけていた。
マメだらけの手は、騎士団に入る前から槍を握っていなければできないようなものだった。その身体には合わない重さの槍は、昔彼女の兄が使っていたもので、はそれを、騎士団に入ったばかりの頃、妙に切迫めいた顔で振っていた。目で追っていたのは、だから、認める。贔屓……までしたつもりはなかったけれど、事実気にはしていたのだ。ユーリは「そりゃ贔屓だろ」と笑うだろうけれどね、少なくとも僕は、そんなつもりはなかったんだよ。
マメの潰れた痕が残る手の平が痛々しかった。立ち寄った店で見つけた女性用のグローブを、個人的に渡した。出過ぎた真似だっただろうかと思ったけれど、彼女はそれを騎士団の支給品だと思ってくれたらしかった。槍を使うにしたってせめてもう少し軽いものが良いだろうと思い、一緒に探した。その後任務があったため断らざるを得なかったけれど、お礼にと食事に誘われたのもこの時だ。後日、は僕にクッキーをくれた。うっすら紅茶の味がした……のだと思う。嬉しかった。……嬉しかった時点で、よくはなかったんだろうね、確かに。
だけど、日に日にが何かを払拭するような明るい笑顔を見せるようになって、僕は安心していたのだ、本当に。例え家に選ばされた道だったとしても、が騎士として共に歩いてくれるなら、それが何よりだと思っていたから。
6
「好きです」と言われたとき、初めて頭の中で、何かが音をたてて嵌った気がした。
ああ、そうかと思ったのだ。僕の「これ」も恐らくそうだった。あるいは、それに近しい何か。
の真っ直ぐな瞳が好きだった。こんな僕を信頼した目だった。同期の中で笑う姿も、訓練のときの眼差しも、いつも周囲を気にかける優しさも、僕は好ましく思っていた。民のことを真剣に思う心も。
もしもこのときのが酔っていたのでなかったら、僕はそれを受け止めたと思う。だけど、酒のまわった彼女のそれは恐らく真意ではなかったから、だから、「ありがとう」とだけ言った。見慣れた寄宿舎の建物が、夜空に切り絵のように浮かび上がっていた。はそれを背に、泣きそうな顔で笑った。
翌朝、顔面蒼白のがこの時のことを謝ったのは、やっぱりそれが彼女の本意ではなかったことの証左だと思った。「お酒はほどほどにね」と窘めた僕は、安堵したのか、そうでなかったのか。忘れようと努めた感情を今になって思い出せるほど、僕は器用な男じゃない。
は、こんな僕を信頼してくれているのだと思う。隊長として、騎士として。それが故の「好きです」だ。それは、光栄なことだった。充分だった。その信を裏切ることなど、どうしてできただろう。僕が君に恋愛感情を抱いていたなどと知れたら、君が僕に抱いてくれていた信頼を全て打ち砕いてしまいかねなかった。それだけは避けたかったのだ。
――誰のために?
頭を過ぎるその問いを、僕は見て見ぬふりをしていた。
7
交代の時間になってもが哨戒から戻らない。姿も見当たらない。――部下にそう報されたとき、考えるよりも先に「僕が行こう」と口にしてしまっていた。後のことはソディアに任せた。引き止められたが、「すまないが、頼む」と言い加えれば、彼女も理解はしてくれたらしかった。
職権乱用。公私混同。そんな言葉が脳裏に浮かんだけれど、だけどじゃなくたって、姿の見えなくなった部下がいたら僕は動いた。一人で魔物に襲われていたのだとしたら事なのだから。ユーリは、「そいつは詭弁だな」と笑い飛ばしそうだけれど。
詭弁。だけど本当に、そうなのかもしれない。分からないのだ、僕も、本当に。ただ、そうでなければ彼女に申し訳がないと思った。僕を「隊長」として慕ってくれる彼女を失望させたくなかった。彼女の中にある僕の像を、僕は忠実に再現したかった。幻滅されたくなかった。
彼女が哨戒に当たっていた付近を捜索するも、しかし血の臭いはない。争った形跡もなければ、何かに巻き込まれたような痕跡も見つからない。サボり癖のある人間であるなら兎も角、真面目を絵に描いたようなだ。自らいなくなったとは考えにくかった。
だけど、今思えば昨晩の彼女は、どこかぼんやりしていたように思う。僕がこの隊の小隊長から、複数の隊をまとめる隊長に昇進することが決まって、それを彼女ら部下に伝えた後から。僕を祝福してくれる彼らの輪の中から、だけはそっと離れて、天幕の外に広がる薄い闇の中に消えて行った。哨戒任務のためだと思ったが、あれから僕は彼女の姿を見ていない。
胸がざわついた。もしもこれで彼女に何かあったのだとしたら。足元に伸びていた漣が徐々に渦を巻くのを感じる。いや、だって騎士だ。槍の扱いにも慣れ、最近は新米騎士の指導にあたることも増えた。この辺りに出没する魔物に遅れをとるようなことはないはずだ。だがもしも、万が一、彼女の身に何かが起きているとしたら。
思考の大部分がのことで埋め尽くされかけたとき、僕は彼女の丸くなった背を見つけた。天幕からそう離れてはいない、川縁だった。細やかすぎるせせらぎの音だけが、彼女の周囲を埋めているようだった。
だけどその瞬間の安堵を、なんと表現したら良かったのか。
「」
名前を呼んだとき、彼女はびくりとその背を震わせて、それから、ゆっくりと振り向いて、こちらを見上げた。丸くなった瞳は、泣き腫らしたように赤かった。
8
行かなくちゃ、はやく天幕に戻らなくちゃ、って思っていたのにふんぎりがなかなかつかなくて(というのも、どうにも涙が止まる気配がなかったせいで)、いつまでも川の縁でぐずぐずしていたものだから、不意に背後からフレン隊長に名前を呼ばれたとき、心臓が止まるかと思った。
最初に思ったのは、まずい、ってこと。それはフレン隊長に恋する女としての「まずい」じゃなくて、騎士としての「まずい」だ。フレン隊長が時間になっても戻らない私を捜しに来たっていうのは間違いなく、畢竟、私が隊規違反を現在進行形で犯していることはどうしたってひっくり返らなかったから。
慌てて立ち上がったものだから、一瞬眩暈がした。いつの間にか太陽は明々と周囲を照らしていた。恐らく、交代から一刻は過ぎているのだろう。その事実に気がついたとき、あんなにも止まらなかった涙が一気に引っ込んだ。なんて現実的なんだろう、私の頭って。
「た、隊長、すみません。捜しにきていただいたんですよね? ほ、本当に申し訳ないです。隊長のお手を煩わせ」
てしまって。
そう言うつもりだったのに、言葉は喉のあたりで引っかかって、止まった。
言い訳なんか、するつもりもなかった。というか、言い訳なんかなかった。私が天幕に戻らず、ふらふらとこんなところまで歩いて来てしまったことは事実でしかなかったし、その結果フレン隊長の時間を使わせてしまった。申し訳ないどころの騒ぎじゃなかった。感情の整理ができないなんていうたったそれだけの理由で、隊の規律を乱して。処罰は、何だって受けるつもりだった。そのつもりで、いたのだ。
なのに、どうして私は今フレン隊長の腕の中にいるんだろう。
「たい」
隊長、って言いたいのに、声が出ない。
身動ぎが上手く取れないまま、隊長の顔を確かめようと目線を上げる。眉を寄せ、目を閉じる彼は、長い長い沈黙の後、ため息混じりに「良かった」と呟いた。私の抱いた恋慕なんて、微塵も混じってなさそうな声色だった。耳につく心音は、きっと私のものだけだった。
そう思った。
「…………君に何かあったら、どうしようかと」
フレン隊長は、優しい。
優しいから、これが誰であってもそうした。私じゃなくても、他の私の同期でも、男だろうと、女だろうと、老人だろうと子供だろうと、猫でも。だから、もう、充分だった。捜しに来てくれたもの。心配してくれたもの。こうして抱きしめてくれたもの。私の作ったクッキーを美味しかったって言ってくれたあのときに、だって私、十年は生きていけると思ったんだよ。だから、これで充分。
隊長の着ている鎧はひんやりとしていて、その肩口が私の頬辺りに触れて、少しずつ、少しずつ私は、体温を奪われていた。一度は止まったはずの涙が、目の奥から熱を持って滲んでいって、ちょうどよかった。
私が伝えるべき言葉は、だから、どう考えたって、「おめでとうございます」だけだった。足元でぐちゃぐちゃに消えた「好き」は、このまま土と一緒に眠らせておくべきだったのだ。
好きです、ずっと、ずっと好きです。私の爪先に光を置いてくれた人。隊長がいたから、ここまでやってこれた。尊敬しています。信頼しています、誰よりも。あなたこそが騎士の中の騎士だと思う。国のために戦える人だと思う。世界中に落ちたきれいですてきなものを掻き集めたとき、それらの中で一際輝いた欠片たち、それがあなただ。
真剣な眼差しが好きだった。時折覗く、少し天然めいたところが好きだった。子供に目線を合わせるために膝をついてあげるところも、たまに腕で口元を隠して笑うところも、陽だまりみたいな声も、本当に好きだった。
でも、全部、お腹の底に隠すから。
我に返ったらしいフレン隊長が「すまない!」って、私から慌てた様子で身体を離したとき、上手く笑えていたか、それだけが心配だった。
9
…………それから一年、魔導器を手放した世界が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた頃、私は埋めたはずの「好き」を、再びフレン隊長に差し出すことになるんだけど。
その時私は部隊の小隊長に、フレン隊長は騎士団の団長にまで上り詰めていた。下町生まれの騎士の、異例の大出世だった。これまで以上にフレン隊長(未だに、隊長と呼ぶ癖が抜けない。そんな私を、彼は笑って許してくれている)は、部下からも民からも愛されていた。私はそれを、一年前よりも少し遠くから眺めていただけだった。信頼のおける部下の一人、くらいには、だけど、なれただろうかと思う。ちょっと自己評価が高すぎるかもしれないけれどね。でも、フレン隊長は「それくらいが丁度良いよ」って笑ってくれる。
そんなある日だった。フレン隊長が私に、「受け取ってもらえないか」って、小さな花束を差し出したのは。
ようやく休暇らしい休暇が取れたのだと、半日だけ時間を空けることのできた隊長が私を人気のない庭園に誘ってくださったときから、私は自分の身に起きていることが理解しきれていなかったのだけど、でも、花束を渡されるなんて想像もしていなかった。
「花ですか? 嬉しいですが、どうして私に……?」
だって私、誕生日でもなかったし、昇進のお祝いは、先月同期たちも交えてしていただいていたばかりだったから。目を瞬かせて花と隊長とを見比べる私に、彼は少し間を開けた。そして、言ったのだ。本当に突然、私の思考の片隅にもなかった、その言葉を。
「――今僕が君に好きだと伝えるのは、迷惑だろうか」
「………………え?」
わけがわからなかった。そんなことあるわけないって思っていたから。
でもフレン隊長は、真っ直ぐ私を見ていた。今までの彼と何も変わらない目線だった。私は彼のこの目に恋情がないことを知っていて、だから、だからこの思いに蓋をして、錘をつけて沈めていたはずだった。「なんで」って、だから言ってしまったのだ。
「え、な、なんで、なんで? すき? わたしが? だ、誰かと間違えているんじゃ……?」
「……ふ、どうして間違えることがあるんだい?」
「だって隊長、隊長が私に優しくしてくださっていたのなんて、だって、全部私が、私が隊長の部下だから……!」
窓から、世界を飴に溶かすみたいな、橙の西日が注いでいた。それが、フレン隊長の輪郭を滲ませていた。きれいだと、どうしてこんなときに思ってしまったんだろう。
フレン隊長の口から、呼吸音のような笑い声が零れた。私のいっとう好きな、彼の笑い方だった。
「部下だからではなく、全部だったからそうしたんだよ」
受け止めることはできなくても、それでも私はフレン隊長が口にした「全部」を、「そうした」を、確かに、一つ一つ思い浮かべることができたのだ。
私のマメを見て、「偉いね」って言ってくれたこと、気遣ってくれたこと、下町で、激昂した男性の手が頬に当たってしまったとき、その腫れが引くまで傍にいてくれたこと、私の面白くもない身の上話を黙って聞いていてくれた。槍を選んでくれた。クッキーを受け取ってくれた。酔っ払いの私を寮まで送り届けてくれた。隊長の昇進を、素直に受け止められなかったあの日、抱きしめてくれたときの、あの腕の温度。それらの全てが燦然と輝いていて、今も皮膚の内側にくっついて離れなかったなんて、だけど、そんなの、言えるわけ無かった。
「部下という立場から僕を信頼してくれていた君には……こんなの、軽蔑されてしまうかもしれないけれどね」
掠れた声で、彼は言う。
「好きだったよ」
涙でにじんだ視界で、どうしたらいいかわからなくて、首を振った。泣いてしまったせいで、フレン隊長がどんな顔をしているのかちっともわからなかった。言葉にならない声が、口の端から漏れていく。手の中にある白い花弁の輪郭が溶けて、静かに消える。
フレン隊長が手渡してくれたハンカチで涙を拭いてから、私の方が、ずっとずっと、ずっと好きでした、なんて答えたのは、だけど子供っぽすぎただろうか。
フレン隊長は、泣きそうな顔で笑った。私は彼がこんな顔をするのを、生まれて初めて見た。私はこの人が好きだった。私に光を灯してくれたフレン隊長が、出会ったときから好きだった。