「…………またカリオストロさんの悪戯なのでは?」
カトルくんが蹴っても殴っても切り刻もうとしても、何か不思議な力が働いているみたいに、その扉は開かなかった。
「……そうかなあ……」
毎度毎度私のせいで普段から色んなことに巻き込まれているわけだから、カリオストロちゃんのせいじゃないかって考えるカトルくんの気持ちも分からないわけではないけれど、カリオストロちゃんの悪戯って言うには今回は何だかちょっと変な気がする。じゃあ何が変なのかって、この違和感をはっきりと言及することは難しいけれど。
彼の半ば独り言のようだった疑問に答えながら、真っ白な二枚の扉に目をやる。中心に対して線対称になっている二つの扉は、ドアノブもそれぞれ中央についていた。多分、両開きのやつだ。ドアノブは、触っても捻れない。押しても引いてもびくともせず、どうにも開く気配がない。だからカトルくんはイライラしている。その背中からも、彼の苛立ちが伝わってくる。
ガン、と大きな音がして、飛び跳ねた。もう正攻法ではどうにも開かないって分かっているにもかかわらず、感情に任せたカトルくんがその足裏で扉を蹴りつけた音だった。白い扉にその足跡ははっきりと残るのに、瞬きの間に修復されてしまう。音も立てることもなく時間が巻き戻るみたいに、元通りになる。それを見届けたカトルくんの舌打ちにびくりと震えた直後、振り向いたカトルくんと目が合った。
「……ああ、すみません。……怖がらせてしまいましたか?」
「いえ、だ、だいじょうぶ……」
怖いか怖くないかって言われたら、ちょっと怖いけれど、それはこの状況のせいでもあるから。
カトルくんにそういう二面性があることは知っているし、恋人っていう関係になる前からそういう性根の荒さに触れた経験がないわけでもない以上、彼自身に恐怖を覚えるかどうかっていうのは今更な話だ。それでも四天刃に乗っ取られているわけでもない彼の、イライラした姿というか、それを露わにせざるを得ない状況っていうのがここ最近はなかなかなくて、それでちょっと、ほんのちょっとだけなんだけど、動揺してしまった。
私の目が泳いでいるを見て、察してくれたんだろう。カトルくんは小さくため息を吐くと、分かりやすく肩の力を抜いて「すみません」ともう一度謝った。
「こういう状況、ぼく一人ならどうってことないんですが……。さんも一緒だと思うと、やっぱり冷静にはなれないみたいですね。……お見苦しいところを見せてしまい、すみません」
「お、お見苦しくないです。むしろ色々試してもらって、ごめんね……私こそ、何もできなくて……」
「謝らないでください。とにかく早くここから出ることだけを考えましょう」
「うん、そうだね……」
扉と、中央に置かれた三人掛けくらいの大きさのソファの他には何もない、真っ白な漆喰の壁に囲まれた部屋だった。床は白に近いオーク材。綺麗に並んだ木目が、この部屋全体を覆う無機物感を何とか和らげている。
天井は床と並行ではなく、片側に緩く傾斜のある作りになっていて、真ん中にはめ殺しの窓が一つだけあった。採光のため、と言うには心許ないくらいの大きさだ。青空が見えるけれど、ずうっと眺めていても雲が流れてこないから、もしかしたら作り物なのかもしれない。駄目元でカトルくんがそこに向かって短剣を投げたけれど、窓が割れるどころか、表面についた傷は扉と足跡と同じように、しゅわしゅわと消えていく。
私たちはこの部屋に、かれこれ一時間近くは閉じ込められていた。
最初にこの部屋にいることに気がつき、動き出したのは、カトルくんの方だった。「起きてください、さん」とぺちぺちと頬を叩かれ、私は自分がいつの間にか眠っていたらしいことを知ったのだけど、でも、目を開けて見て、いろんな意味でびっくりした。カトルくんが私の顔を覗き込んでいたのもそうだけど、そこが全く知らない部屋だったから。
私たちはソファに並んで座った姿勢で眠っていたらしい。「目を覚ます前、何をしていたか覚えていますか」と聞かれて、うーんと首を捻った。確か食堂の片付けを終えて、コルワさん不在の部屋を少し掃除するつもりでいたのだ。勿論自分の使っている、ベッドの周辺だけ。
まだ日の高い時間帯だった。部屋中の色んな生地や糸とかは私が手を出して良い領分ではないから、ベッドと、小さいデスクを中心に掃除しようと考えながら自室に向かっていたところまでは覚えている。廊下でアンスリアさんとすれ違って、ちょっとお喋りをして、あれ、でも何を喋ったんだったか。その部分だけ靄がかかったように曖昧で、判然としなかった。私の記憶は、そこで途絶えている。
カトルくんの方は、丁度依頼から戻って来たところだったらしい。停泊していたグランサイファーに足を踏み入れて、そこでナルメアさんに声をかけられた。その時の相手がカリオストロちゃんだったら、カトルくんの疑惑はもっと色濃くあったのかもしれないけれど。兎に角カトルくんの記憶もそこで途切れていて、気がついたらここにいたのだとか。
私がこんな状況で必要以上に狼狽しなかったのはカトルくんが一緒だったからであることに違いないのだけど、一方でカトルくんは私がいるからこそ困っているようだった。危険な目には遭わせられない、ってことなんだと思う。それはすごく嬉しいし、こんな状況であるにもかかわらず、照れてしまう。へへ、と笑ったら、「この状況、笑ってる場合じゃなさそうなんですけど」とじとりとした目で見つめられてしまったけれど。
扉を蹴破ろうとしても、この部屋唯一の窓を割ろうと試みても(割れたところで少なくとも私はあの高い天井から外に出る手段はないけれど)傷や汚れは修復される。漆喰の壁も勿論、カトルくんがその短剣で切りつけたくらいではどうにもならなかった。その壁に生じた大きな傷は、浸出液のようなものをじわりと出しながら、瞬きの間に元通りに塞がってしまうのだった。
カトルくんがその目線を足元に向ける。
「あとは床板を剥がすくらいしかないですかね……」
「床板……」
「…………さんは、お腹が空いているとか……生理的な欲求、あります?」
「ううん、お腹は大丈夫。……えっと、あとは、せいりてきなよっきゅう? 眠いとか?」
「……トイレに行きたいとか」
「んっ……ない、ないです、だいじょうぶ」
気を抜いていたせいでちょっと咽せそうになったけど、でも、確かにそれって大事なことだ。このソファ以外に何もない空間にトイレなんて気の利いたものは勿論存在しないし、もしトイレに行きたくなったら、この状況がさらに切羽詰まったものになってくる。それはちょっと困る。
カトルくんは「ぼくが考えるに、ですけど」と、口を開く。多少話が長くなるだろうと思ったのか、手の平でソファに座るように指し示されて言われるがままに革張りのそれに腰を下ろした。さっきも思ったけれど、信じられないくらいにふかふかだ。皮の張ったような感触が、ほとんどない。
「あれだけ物理的に攻撃をしたにもかかわらず、扉も壁もすぐに修復されてしまった。まるで部屋自体が生きているように」
「生きてる」
「先ほど壁に傷をつけたときに出たものは体液と考えるのが妥当かと」
「エッ」
彼の言う「体液」に思い当たることがあるからこそ声をあげてしまう。確かにあの時、透明な液が傷を塞ぐ前にとろりと流れたのをこの目で見たから。
じゃあ、この部屋自体が何かの生き物なのか、或いは、いっそこれ自体が夢なのか。それにしてはカトルくんの存在がはっきりくっきりしているように思うけれど。私の夢に出てくるカトルくんって、姿がなかったり、あっても本人とは根本的に違う何かがあった。だけど今目の前に居るカトルくんは、髪の毛から爪の先まで、完璧なカトルくんなのだ。だからやっぱり、夢ってことはないんだと思う。
ソファに座る私の前に立ったまま、カトルくんは腕を組んで思案している。どうしたらここから出られるのか、もそうだけれど、ここが一体どういう空間なのかを推し量るみたいに。
天井に嵌められた窓からは、穏やかな光が差し込んでいた。窓の奥に広がる青空に、何か手がかりはないかと見上げていたとき、ふとそこに何か違和感を覚える。空でも、窓でも、その枠でもない。窓の周囲に何か汚れのようなものが見えたのだった。それは、床と窓の向こう以外は真っ白な部屋において明らかな異物であった。字、であるように見える。でも、なんて書いてあるんだろう、小さくて読み取れない。
眉根を寄せて天井を見上げる私の目線にカトルくんが気がつくのは時間の問題だった。つられるように視線をやるけれど、私のように目を細めるようなことを彼はしない。目、良いんだなあ、なんてぼんやりと、まだ悠長に考える私の隣でそれを見上げるカトルくんは、やがて「は? 」と、絞り出すような低い声をその口から漏らしたのだった。
カトルくんが一瞬で纏った不穏な空気を察することができないほど鈍くはない。きっと、何か大変なことが書いてあるに違いない。ホラー的なやつだったらどうしよう。例えばここは何かのお腹の中で、出る方法はなくて、私たちはこのまま消化されるのを待つだけ、とか、そういうの。しがみついて何が書いてあったのか尋ねたい衝動を必死で殺して、「あ、あの」と声をかける。思ったよりも震えていて、困った。私は今、すごく緊張しているみたいだ。
「ご、ごめんねカトルくん、ちょっと字が小さくて見えなくて。……なんて書いてあるの?」
「…………」
はあ、とため息を吐かれ、反射的に飛び上がってしまいそうになる。よっぽどのことが書いてあるんだ、と青ざめる私を、カトルくんは困ったような、苛立ったような、或いはそういう感情全てがごちゃ混ぜになったような顔つきで見つめている。
あの字がさんの視力では見えなかったのは不幸中の幸いか、と思わないでもなかったが、実際のところぼくの口から説明しなければならないのなら一緒だ。何なら、ぼくに説明責任が伴うのであれば、いっそ二人で同時にアレを確認してしまった方が楽だったかもしれない。
この謎の部屋は恐らく独立した空間だ。あの天井にはまっている窓は飾りでしかないし、その向こうに広がっている空は偽物である。壁を殴った感じの音の響きや感触からして、この向こうに同じような部屋なり廊下なりが続いているとは思えなかった。ぼくのつけた傷が端から修復されていくその様は宛ら超再生が可能な人体を相手にしているようで薄気悪く、これがカリオストロさんの準備した何らかの舞台でないとするならば、恐らく星晶獣に類するもので間違いない。
これに関しては想像の域を出ないのだけど、依頼から戻って来たぼくに声をかけたナルメアさんと、さんに話しかけたというアンスリアさんは恐らく双方本人ではなく、ぼくたちはあの時既に術中に嵌っていたのだろう。ぼくたちを狙ってそうしたのか、偶然だったのか、その答えはもう出た。
あそこに何が書いてあるのかと顔を青くさせて尋ねるさんに、ぼくは何と言ったら良いのか、迷う。窓枠の外側に小さな字で書いてあるあれにもう一度目をやり、それから再び彼女を見つめる。三人掛けのソファに座りぼくのことを困惑したような瞳で見上げているさんを見て、ぐ、とくるのは、この空間が生命に影響を及ぼすものではないことが判明したことからくる安堵のせいもあるのだろうけれど、それよりも、やっぱり。
「…………あの」
さんはぼくの言葉を待っている。何と言えば安心させてやれるのか。いや、あれをそのまま口にすれば良いだけの話だ。だけど、どうにも言いにくい。長考の結果口に出した「出られないそうです」は、誰がどう聞いたって間違いだった。さんの表情が、不安げに歪む。
「え」
「あ、いえ、違う。出られます。最終的には」
「最終的には……? 何か条件があるってこと……?」
「ええ、まあそういうことですね」
話が早くて助かる。もう一度視線を天井に戻したぼくは、悪趣味な星晶獣に舌打ちして、それからさんから目線を逸らし、呟いたのだった。
「…………この部屋、恋人が、恋人らしいことをすれば出られるそうです」
上擦った声で、さんは「はい?」と口にした。その瞬間、どこからともなく、柔らかい女性の笑い声が聞こえた気がしたけれど、その正体を視認することは、未だ、できない。
「恋人が恋人らしいことをするってことは、つまり……」
さんはソファに座ったまま、目線を彷徨わせる。密室でこのワードとくれば連想されることはどうしたって限られてくるわけで、さんが次に発するだろう言葉を想像して、一人気まずいような気持ちになってしまう。
この世の中には様々な星晶獣がいるけれど、ワケの分からないことをする存在もあったものだ。こんな部屋、さっさと出るに越したことはないが、しかし本当に他に方法はないのだろうか。扉、壁、床、それから天井にはめ殺しの窓。改めて一つ一つ確認するが、とっかかりになりそうなものがもう残されていないことを誰よりも知っているのはぼくだ。では、やはりあの窓枠の外側に書かれた指示に従うしかない、ということになってしまう。
はぁ、とため息を吐けば、ソファ以外何もないこの部屋に存外大きく響いた。
癪に障るが、彼女が巻き込まれている以上、他の方法を探して悪戯に時間を浪費するよりは、さっさと済ませた方が良い。
「……仕方ない。さん、じゃあ……」
ソファに座ったさんに目線をやるかやらないかの瞬間だった。ぴと、と指先に何かが触れたのは。人差し指から小指まで、四本分の指を緩い力で握られて、心臓が止まりかける。妙に神妙な声音だった。彼女は彼女なりに、思考を巡らせていたのだ。
「恋人らしいことって言うと……」
ぼくのものよりも幾分か小さな柔らかい手は、普段の彼女のものよりもよっぽど温かい。
ぼくたちをこんなところに閉じ込めた星晶獣は、今のこのやりとりも眺めているのだろうか。そう思うと全く面白くない。可能であるならば、いっそ力でねじ伏せてしまいたいと思ってしまうほどに。だけど、今はそんなことよりも、ぼくの手を取って、何か考え込むように目線を落としているさんの言動が気になる。
きゅ、と指先に力が込められる。まるで意を決したようにさんが顔を上げるから、ぼくは自分が言いかけた言葉を全部飲み込んで、彼女の言葉を待つ。
「手を繋ぐとか?」
そんなんで本気で開くと思ってんのか。
ぐ、と喉に何かが引っかかったような感覚に、あわや咽せる寸前だった。
カトルくんは私に手を掴まれたまま、物凄く奇妙な顔をしている。言いたいことを飲み込んだ結果、濾過されずに残った感情の欠片がその表情に全部表れてしまった、みたいなそんな顔だ。
そんなにおかしなことを言っただろうか。でも、だって、恋人らしいことをすれば出られるんだったら、なんでも良いんじゃないかな? と思ったのだ。手を繋ぐ、じゃなかったら、くっついて座るとか。そのためにソファがあるのかな、って気もするし。あとは、その、キス、とかも。デートとかはこんな閉じた空間じゃ叶わないだろうから、そういう恋人らしい接触をすれば、あの扉は開くんじゃないかなって。
私は座ったまま、カトルくんの力の抜けた指を握りしめている。手、繋いでるけど、だめかな。ちらりとカトルくんの身体越しにある扉に目をやったものの、何の反応も示さない。恋人っぽいことしてるのに、なんでだろう。
あの扉が開くときって、だけど一体どんな感じなのかな。勝手に勢いよく開くのか、鍵がかちゃって音を立てて開くのか、或いはまた全然、思いも寄らぬ開き方をするのか。あの扉の先はどこに続いているんだろう。カトルくんは、このお部屋が「生きている」って言ってたけど、だったら所謂「星晶獣」のお腹の中ってことなんだろうか。私たちは一体いつその星晶獣に食べられてしまったんだろう。色んなことがわからない。
考え込みながらカトルくんの手をにぎにぎと握っていたら、カトルくんに深々とため息を吐かれてしまった。「……さん、本気でコレで開くと思ってます? 」苦々しい顔で尋ねられたけれど、思ってなかったら実行なんてしない。
「でも、恋人じゃなかったら、手、握らないです……」
「本当に? こんな繋ぎ方ならあなた、誰にだってするでしょう。この前星屑の街で子供にそうしているところ、見ましたよ」
「……あ、繋ぎ方の問題?」
思いついてそう口にするや否や、カトルくんの指は私の手が緩んだのを見計らってするりと抜けていってしまった。カトルくんの温度が遠ざかっていったことに一抹の寂しさを覚えるけれど、それはすぐに私の指に戻ってくる。
「ん」
指の隙間を擦り合わせるみたいに、手の平同士を重ねられる。一本一本の指が絡み合って、そのまま軽く力を入れられる。
「せめて、こうでは?」
繋ぐ、っていうよりは、手を持ち上げられているのと変わらなかった。だって私はソファに座ったままだったし、カトルくんはカトルくんで私の前に立っていて、腕の高さが違ったから。互いの手の平を向け合う形で手の平を重ね合わせる。絡んだ部分の指の付け根が、妙に熱く感じる。恋人繋ぎだ。見下ろされているせいもあるのか、この状況に急に緊張感を覚えてしまった。指でさするように動かされてぞわぞわする。こんなんで声が漏れそうになって、どうするんだろう。
そういうことを加味しても確かに、さっきの繋ぎ方から恋人らしさは感じられなかった。「こっちの方が断然恋人っぽい、です……」照れているのを見破られないように、なるべく平然と言おうとする私に、カトルくんはそうと分からないくらいに目を細める。こういうときのカトルくんって、感情が読み取りにくくて困る。
「扉は?」
その言葉に、もう一度目線をそちらに向けるけれど、手をこうして繋いでいても扉は一向に開く気配がなかった。
「……開かないみたい」
「そうでしょうね」
「こんなに恋人っぽいのに……?」
「恋人らしさが足りないのでは?」
「えっ」
これ以上恋人らしい繋ぎ方って、なに?
びっくりしすぎて思わず立ち上がる。繋がれたままの左手は良いとして、じゃあ、反対も? とカトルくんの前に差し出しかけたけど、絶対違うなと寸前で気がついた。恋人が恋人らしいことって、じゃあ、ハグとか?
繋ぎっぱなしだった手をそうっと離して、私よりもちょっと背の高いカトルくんの顔を改めてじっと見る。切れ長の瞳は赤みがかった紫で、そうしていると吸い込まれてしまいそうだった。睫毛は量が多くて、長い。はっきりとした目鼻立ちの、きれいな男の子だと思う。まじまじと観察するうちに、段々恥ずかしくなってしまった。時間が経てば経つほどハグする勇気が摩耗することは間違いなくて、だから、私はぎゅっと目を閉じて、ままよとその身体に飛びつく。
結構な勢いをつけて抱きついたのに、カトルくんの細い身体はびくともしなかった。「!」って、息を飲んだような音はしたけれど。体幹がしっかりしてるんだ、私なんかよりずっと。細い身体は贅肉なんてものとは縁遠く(それはエルーンだからと言うより、彼自身の体質でもあるように思えた。即ち、彼が例えヒューマンだったとしてもこんな体つきだったんだろうな、って想像がつくような)骨張って硬い。首筋に抱きついて密着していると、はあ、ってため息が聞こえた。
「そういうことするんですね、あなた」
そんな声が耳元で聞こえた直後、背中に腕を回される。「ひえ」声が漏れたけれど、カトルくんはそのまま私を抱き寄せるように力を込めた。
身長差はそんなにないのに、踵が少しだけ浮いてしまう。カトルくんが私の首筋に鼻を押し付けたのがわかって、ぞわ、とした。あ、やだ、におい、絶対嗅いでる、このひと。やめてほしくて「だめ」と拒絶しようとしても、だけど、カトルくんは「さんから抱きついてきたんじゃないですか」と低く口にするだけだった。確かにそうだけど、こんな風に抱きしめ返されるってことまでは考えてなかったんです。私は浅はかだから。
カトルくん、ちょっと楽しんでないだろうか。そんな考えが頭を過ぎるけれど、ぎゅう、とされて、ドキドキしたせいで吹っ飛んでった。その星晶獣とやらに見られているかもしれないのに、顔が熱くなるのが抑えられない。だって、全然慣れないのだ、こんなに長いこと一緒にいるのに。
ばくばくと激しくなってしまった心音が聞かれるのが嫌で、離れようと力を入れるけど、カトルくんはびくともしなかった。
「あの、その、はなして」
「嫌です」
素気なく却下された直後、完璧に身体が浮く。びっくりしたけれど、しがみつく間もなくさっきまで私が座っていたソファに下ろされてしまった。肩を掴まれて、丁寧に押し倒される。足と足の間に、カトルくんの膝が割り込む。マントを脱いで、背もたれにかけたカトルくんの目は、いつの間にか、ちょっとだけ、ぎらぎらしている。
「自分から胸押し付けといて、やっぱり嫌なんて言わせませんから」
「!」
押し付けるほどの胸なんかないのに、って言いたくても、もう言わせてもらえない。頭の上で手首を固定される。もう片方の腕を顔の脇に置いたカトルくんに唇を重ねられたとき、身体がびくりと跳ねてしまった。ちゅ、ちゅ、と角度を変えて、何度も何度もキスされるから、緊張して硬くなった身体から、段々力が抜けていく。
「ん……」
「見られてるかもしれないのに、良いんですか? そんな顔して」
それが星晶獣に、ってことなのは分かるけれど、でも、開かないんじゃ、仕方ない。手を繋いでも、ハグをしてもダメなら、じゃあ、キスかなって思うし。カトルくんのキスが気持ちよくて、さっきまでの「やだ」って気持ちが全部波のようなものに押し流されてしまった。
指を丸めて、縋るみたいに握りしめる。だめだ、私、堪え性がない。は、と吐き出した息に紛れるように、掠れる声で吐き出した。
「…………いい……」
キスの合間に呟いた瞬間、カトルくんがぴたりと止まる。まるで言葉の続きを促すような目で私を見るから、朦朧とした頭で、「だって、開かない、から」って言い訳じみた言葉を口にした。開かないから、開くためにしてるだけ、って、それを大義名分にする私はみっともなかったのかもしれないけれど。
だけどカトルくんもそれを咎めたりはしなかった。私たち、二人揃って単純なのかもしれない。カトルくんに捕まえられてる方の手首に、ぎゅうって力が込められる。締め付けられるような痛みにすら、痺れるほどの快感を覚えている。カトルくんの髪が頬に触れる。もう一度唇に触れられる直前に、そっと目を閉じた。
そのとき、なんだか緩やかな光のようなものが瞼の裏に広がった気がしたけれど、どうしてか、それを確認するために目を開けるのが、許されないことのように思えた。
「……………………」
午後の陽光が燦々と舷窓から差し込んでいた。
グランサイファーの階段脇にある廊下だ。壁の染み。床の感触。天井の模様や、窓枠にできた傷の一つ一つまで、ぼんやりとした頭で、確認するように眺めていく。上の階層から誰かの楽しげな話し声が聞こえる。遠ざかるそれを聞きながら、壁に寄り掛かり、窓の向こうを見た。今は港に停泊しているから、丸い窓からの景色は動くことがない。
アンスリアさんが、確かにいたはずなのに、今ここには誰もいない、私ひとりだ。
ちかちかとした、光の点滅がある。それは太陽の光が騎空艇の艇体に反射した煌めきなのかもしれない。それとも、或いは。
「何か、奇妙な目にでもあったのかい?」
不意に声をかけられて、我に返る。階段の方からその人はやって来たようだったけれど、気配も足音もなかったから、そうして声をかけられるまで気がつかなかった。
色素の薄い髪に、透けるような肌をした男の子は、ノアくんと言う。これまでほとんど会話をしたことはなかったから、気軽に声をかけられたことに、ちょっとだけ驚いた。決めた相手と以外は必要以上の会話をしない人種だと思っていたのだ。
ノアくんは、何も言えずに目を丸くしているだけの私に、首を傾げて柔らかく微笑む。内心を汲み取ってくれるかのような眼差しは、春に似ている。
「狐につままれたような顔をしているものだから」
「……きつね」
ノアくんの言葉にちょっとだけ苦笑して、それでようやく、思考をする余裕が生まれた。奇妙な目、と言えば、奇妙な目だった。狐ではなく(恐らく)星晶獣に変な部屋に閉じ込められて、恋人らしいことをしないとそこから出してもらえないなんて、変なの。でも、白昼夢か何かだったのかも。だって、いつの間にかこうしてグランサイファーに戻っているんだから。
それにしては、身体が妙に火照っていたけれど。
「……あれ、なんだったんだろう……」
頬に両手を添えて、唸るように目線を落とせば、ノアくんは「ふ」って、小さく笑った。それがまるで、何もかもを見透かしているような声に聞こえたから、思わず顔をあげる。舷窓からの光を背に受けた彼の輪郭は淡く滲んで、何だか今にも消えてしまいそうに思えた。この世の人間じゃ無いような儚さがあった。
「……うん、だけど、大丈夫」
階段の方から誰かの足音が聞こえる。私は最近、この足音をようやく聞き分けられるようになっている。
振り向けなかったのは、ノアくんの一言一句を聞き逃してはならないような気がしたからだ。瞬きの回数をも意図的に減らして、私はその薄い唇が、必要最小限の大きさでもって動くのを、ただ見つめている。
「きっと、もう悪戯はされないよ」
私を捜していたらしいカトルくんに声をかけられるその直前、ノアくんはそう呟いて眦を細めた。
彼の言っていることの意味を私は半分どころか四分の一も理解できていなかったけれど、ぐ、と後ろから掴まれた手首の感触と温度に息を飲む。カトルくんだって、振り向かなくても分かった。その隙をつくみたいに、ノアくんは「じゃあね」と僅かに首を傾げ、廊下の先へと行ってしまう。薄い色の長い髪が、光が作る軌跡のように、いつまでも網膜に焼き付いている。
「……珍しいですね」
カトルくんに「……彼と一体何の話を?」と低く尋ねられ、答えに窮する。言葉を濁し、うーんと唸る私に、だけどカトルくんは何も口にはせず、遠ざかっていくノアくんの後ろ姿を眺めていたのだった。
結局あの部屋が何だったのか、私たちを閉じ込めたらしい星晶獣の正体が一体どんなものだったのか、私たちには分からない。何となく、ノアくんが何かを知っているように思えたけれど、それも私の思い込みなのかもしれない。だけどあの白い部屋で起きたことはカトルくんも私も互いにはっきりと覚えていて、カトルくんの方は兎も角、私は数日間、随分気まずい思いをすることになるのだった。