「実は、凄く痛いんですよね」
顔色一つ変えずにそう呟くカトルくんに思わず「えっ」と声をあげてしまった。
カトルくんが珍しく怪我をしてグランサイファーに戻って来たのは昨日の深夜のことで、私はそれを知らずにすやすやと眠りこけていたわけだけど、今朝食堂にかけられたボードのカトルくんの欄に「治療のため休養」と書かれているのを発見して、お手伝いもそこそこにすっ飛んで来たところだった。
そして、ベッドに座っていたカトルくんにそんなことを言われたのである。「当たり所が悪かったみたいです」って。痛みや苦痛とは無縁と思われるような、涼しげな顔で。
ぺろりとお腹の辺りを捲り上げられて、心臓が止まりそうになった。きれいに割れた腹筋に、こんなときであるにも関わらず緊張したというのもあるのだけれど、それ以上に右の脇腹のガーゼと包帯が痛々しかったのだ。滲んだ赤黒い血に「いたそう」と思わず呟けば、カトルくんはちょっとだけ笑ったみたいな息を吐いた。「だから、結構痛いですって」そう言ってるでしょ。声音と顔だけ見れば全然そんなことはなさそうだけど、きっと本当に痛いんだ。だって朝食も食べに来られなかったくらいだし。
「何かご飯、持って来ましょうか。あ、でも食欲ない、ですか?」
「いいえ。助かります。動くだけで痛くて、面倒なので朝食を抜こうと思っていたんですよ」
「それはだめ! ちゃんと食べないと回復しないですよ」
「それは確かにそうですね」
「今から何か作ってもらってきますから、カトルくんは安静にしててください。私が全部やるからね」
私はお医者さんではないから、カトルくんがどれだけの期間じっとしていなくちゃいけないのかは判別できないけれど、それでもきちんと治りきるまではゆっくりしていてほしかった。痛いんだったら尚更、無理をしてはいけない。「はい」と素直に頷くカトルくんを置いて、私は彼の部屋を飛び出した。
カトルくんは昨日までずっと、長期の依頼に出ていた。その前は十天衆の会合があって、兎に角長いことグランサイファーには居なかったのだ。仕方ないとは言え私は寂しかったし、早く帰ってきてほしいなあって、カトルくんの依頼が終わる日を指折り数えていた。その指は、あと三本分は残っていたはずだ。要するに、怪我をしてしまったことで依頼を切り上げて戻らざるを得なくなった、っていうことなんだと思う。彼の口からは直接は聞けてないけど。
三本の指分、私は何だか申し訳なくなってしまっていた。本人が聞いたらそんなことないって笑いそうだけど、私が待ち侘びていたせいで、カトルくんが怪我をしちゃったんじゃないかって思えてしまったのだった。それはなんだか、呪いみたいに。
まだ厨房に居たローアインさんにサンドイッチを作ってもらえないかお願いしながら、私は手の平を握ったり広げたりして、平生を装っている。カトルくんの口から出た「痛い」という言葉に、動揺しているのは間違いない。心臓がどきどきと、激しく脈打ってるのが分かった。
カトルくんは短剣を扱うから、四天刃に彼が意識を奪われた一件以前も、以降も、どうしても生傷が絶えない。普段からちょこちょこと怪我をして帰ってくるのを私はいつも心配していて、だけど私がさっきみたいに「痛そう」って言っても彼は「痛くないですよ」って首を振る。利き腕を動かせなくなったときも、不便だって言うだけで「痛い」とは言わなかった。痛みには割と鈍感なんです、って、抑揚なく言われたことが、どうしようもないのに、ちょっとだけ寂しかった。
そんなカトルくんが、今、「痛い」って言っている。そわそわとして、落ち着かない。痛いんだったら、痛み止めとかあったほうが良いのかな? そんなことを延々と考えていたら、いつの間にか随分時間が経っていたみたいだ。「ヘイ、ちょ! お待ちDOさまぁ!」とローアインさんに声をかけられて、思わず背筋を伸ばしてしまった。野菜と柔らかく煮たチキンのサンドイッチを受け取って、お礼を言う。彩り豊かで、すっごく美味しそう。ゲームみたいに、美味しい食事で体力とか、そういうのが回復したら良いのに。早足でカトルくんの部屋へと向かう私の眉根はぎゅうと寄っていて、すれ違う団員さんたちは皆、ちらりと私を一瞥していくけれど、彼らがどんな顔をしているかまでは分からなかった。
神妙な顔でさんが部屋に戻ってきたとき、ちらりと頭の端を掠める疑念があった。「サンドイッチを作ってきてもらったんですけど、大丈夫? 咀嚼できます?」って、真顔で言うさんの眉尻は下がって、ちょっと突けば泣き出しすらしそうだ。どうやら本気にされているらしい。思案しながら、「さすがにそこまで深刻な怪我ではないです」と口にすると、あからさまにほっとしたように微笑まれた。その笑顔が愛らしくて、つられて笑ってしまいそうになる。
痛い、とは口にしたものの、実際腹の怪我なんか大したことはない。魔物相手に油断したのは確かで、日常的なもの、と言い切るには少し深い怪我であることは否定しないけれど。ただ、それを理由に彼女に甘えたくなっただけだ。以前体調を崩したときに申し訳なさから少し突き放したような態度を取ってしまったことを、ちょっと後悔していたせいもある。今回は一月近くも離れていたわけだし、できる限り傍にいてほしくて。
予定より三日早く切り上げられた依頼のおかげで、その分休暇に回せそうではあったけれど、ボードに「治療のため」と書いてしまったのはやり過ぎだっただろうか。血相を変えて部屋に飛びこんできたさんに、つい「凄く痛いんですよね」と嘯いてしまった時点で、彼女はちょっと、泣きそうな顔をしていたし。
「カトルくん、サンドイッチ、持てますか? お腹にひびく?」
それくらいで響いたら、歯も磨けなくないですか?
思った言葉は口にしなかったけれど、とうとう小さく吹き出してしまった。さんは、そんなぼくを不思議そうに見つめている。いつ「嘘ですよ」と言うべきか、いっそ彼女の前でだけはこのまま、この怪我が大したことないのだという事実を隠し通しておくべきか。思案を重ねながら、「食べさせてもらって良いですか」と首を傾げれば、さっきまで何ともなかったはずの腹の傷が不意に疼くように痛んだ。痛みには、ずっと鈍感だったはずなのにな。それこそ物心ついたときから。
ぼくの言葉に分かりやすく目を丸くしているさんの、僅かに染まった頬の丸みを眺めながら、ぼくはもう、あなたと出会う前には戻れないらしいことを自覚している。