ぼくが引き起こしたあの騒動から既に一か月以上が経っていて、四天刃の影響が強く残っていた利き腕はようやく元の感覚を取り戻していた。
 痺れていた指先にも違和感はなくなり、自分の髪も以前のように編めるようになった以上、いつまでもただ飯を食らい続けるわけにもいかない。「そろそろ復帰しようと思っているんです」そう口にすれば、さんは少し考えたように目線を彷徨わせてから、「そっかぁ」とぼくの手をそうっと、壊れ物にでもするみたいに優しく取った。



「……うん、あんまり無茶しちゃだめですよ」



 ふにゃふにゃとした、ぼくのものよりかは小さい手は温度が低く、ぼくは彼女の指がぼくの人差し指と中指の間の付け根を緩く押すのを、じっと見つめる。確か不眠解消のツボ、でしたっけ。喉元まで出かかったそれを、そっと飲み込んだ。伏せられたさんの睫毛は長く、少しだけ震えている。
 ぼくが夜、まだ上手く寝付けずにいることを、彼女だけが知っていた。








 そろそろ騎空団の団員として復帰しても良いかとグランさんに尋ねたとき、グランさんは「あと半月は休んでいても良いのに」と答えた。
 ぼくを甘やかそうとするその言葉に首を振った。さすがにここから半月も戦場から離れてしまえば、感覚を取り戻すことは困難になるだろうことは容易く想像がついたから。
 そしてぼくは久しぶりに武器を握ったのだけれど、甘かった。復帰後の初めての依頼でここまで感情が昂ぶるとは思ってなかった。
 何てことはない、魔物の討伐依頼だ。ぼくに気を遣ってくれた団長さんが引き受けてくれた、普段のぼくがこなしていたものよりは数段階は難度の低いもの。商人達が使う道に魔物が徘徊するようになって困っている、という、ありふれた依頼だった。だから要するに、これもリハビリの一環だ。さんの髪を結ってやるのとなんら変わりない。
 実際討伐自体は滞りなく終わった。団長さんや、初めて見る顔だったけれど他の団員の人もいたし(想像するに、これは新入りである彼らの研修も兼ねていたのではないかと思う)突然魔物の群れが湧いて出ることも怪我人が出ることもなかった。武器についた血を無意識に拭いながら、「調子は戻った?」とぼくに微笑む団長さんに、何とも言えない思いになる。



「……まあ、それなりに」

「良かった。また頼りにさせてもらうね」



 気遣いなのか本心なのか、読めないのが困るのだ。
 淡い赤銅色の瞳をじっと見つめ返しながら「ご自由にどうぞ」とだけ返せば、グランさんは何か眩しいものでも見るように目を細めて笑って、新入団員の元へと駆け寄って行った。その後ろ姿を見送って、緩く息を吐く。
 だからぼくは隠し果せていたのだろう、少なくとも、彼には。
 けれどやはり何もかも以前のように元通り、とはいかないらしい。
 鼻孔にこびりつくような血の臭いが煩わしかった。魔物の肉を切り刻む度に手に残る感触にぞっとした。ぼくが傷つけた姉さんや、頭目、グランさんやシスさん、みんなのことを思い出してしまって。
 ぼくはまるで初めて命を奪った子供の頃に戻ったような感覚を覚えていて、だけど、だからと今更言って取り乱すこともできなかった。ぼくはもう子供ではなかったから。平然と刃を突き立て返り血を浴びた。
 それらの全てを彼に見抜かれなかったのなら問題ない。
 部屋に戻ってシャワーで汚れを洗い流す。目を閉じて壁に手をつき、項垂れるようにして頭を垂れていると、五月雨の中に居るような感覚になる。汚れも、血も、全てがそうして自分の身体から流れていくのに、ぼくは自分の皮膚から余計なものまでこそぎ取られていくようだと思う。



「………………疲れたな」



 排水のための穴に渦を巻いて流れていく水の中に自分がいるようで、嫌になって目を閉じた。








 カトルくんが依頼から帰ってきたって聞いたからお部屋をノックしたけれど、返事がない。
 眠ってるのかな? と駄目元で扉のノブを回してみたら、鍵が開いていた。口の中で「あれ」と声が漏れる。珍しいな、と思う。カトルくんの部屋の鍵が開いているときって、確実に彼が在室しているときだ。それも、彼がすぐに応対できるときだけ。
 恋人の特権、と言い聞かせてそっと扉を開けて部屋の中を覗き込めば、椅子の背もたれに汚れたマントがかけられているのが目に入った。あ、やっぱり帰ってきてる。そんな風に目で認識した後に、部屋の奥から響く音に、なるほど彼はシャワー中らしいと気がついた。
 待っているべきか、出直すべきか、少しだけ思案してから椅子を引いて腰掛けた。ローアインさんが「カレピッピと一緒にどぞ!」って剥いてくれた果物の盛り合わせを持ったまま、あんまり艇内を彷徨きたくはなかったのだ。
 色とりどりの果物はどれも一口サイズにカットされていて、見た目も可愛い。膝の上にそれを抱えて、シャワールームからの音をじっと聞いている。壁の向こうからの、雨の音よりも柔らかいそれは、私の吐き出した細い息で消えてしまう。
 私は柄にもなく、緊張していた。
 カトルくんの怪我は治って、指先も今では以前と変わらずに動かせるようになった。目を覚ましたシスさんも後遺症のようなものを負うことはなく、カトルくんより一足早く依頼を引き受けるまでに回復していて、そうしてあのとき私たちが生じた傷のようなものは、時間の経過と共に、緩やかに瘡蓋になろうとしている。それで問題はないのに、カトルくんが時折見せる翳りのようなものを、私は一つ一つ記憶するみたいに覚えてしまう。
 窓の外はすっかり陽が落ちて、暗くなっていた。膝の上に乗せていたトレイを一度テーブルの上に置いて、カーテンを閉めるためにそっと立ち上がる。窓ガラスに反射する自分の顔を見たら、何だかちょっと、どうにも不細工で困った。眉は八の字だし、口角が下がっている。カトルくんが戻って来た時、こんな顔じゃあ逆に気を遣わせてしまうかもしれないと分かっているのに、取り繕って笑顔を作ることが、難しいように思えた。
 世の中には何か元の形に戻ろうとする力があるとして、今それはきっと最終調整の段階に入っているのだと渦中に居る私は思うけれど、カトルくんにとって、それが心地良いものはないらしいことは確かだ。だって最近、夜、上手く眠れていないみたいだし。
 どんな顔で出迎えるべきだろう。窓に額をくっつけて、小さく唸る。今日はそんなに大変な依頼じゃないって聞いていたけれど、大丈夫だった? なんて風に聞いたら、まずいのかな。カトルくんから話を切り出してくれるまで、のんびり果物を食べていた方が良いのかな。難しいな。そんな風に考え込む私は「さん」と声をかけられるまで、シャワーの音が途切れていることに気がつかなかった。



「んわっ」

「驚きました。鍵、開けてましたっけ?」



 びくりと肩を震わせた私に構わず、カトルくんはソファに腰を下ろす。濡れた髪をタオルで拭くその背中は、薄い部屋着のおかげで露わになっていた。



「勝手に入ってごめんね、その、ローアインさんがフルーツをくれたから、一緒にどうかなあって」

「ああ、ありがとうございます。髪を拭いたら、いただきましょうか」



 ソファの前のテーブルに置いてあったお皿に目線を向けるカトルくんは、だけど私の方には顔を向けなかった。それがちょっと不自然なように思えて、私は未だ閉めていなかったカーテンをそっと引っ張って合わせると、そろそろとソファに近づく。「……座ってもいい?」いつもだったら尋ねたりしないそれが空に浮かんだみたいで、失敗したかなって思ったけれど、カトルくんは目線を落としたまま、「どうぞ」と静かに答えてくれたから、ほっとした。
 この部屋のソファは一人部屋ということを考えたら少し大きすぎるくらいで、二人で並んで座ってもまだ少し余裕がある。腰を下ろしてから、隣のカトルくんのことを盗み見たら、カトルくんは無言で髪を拭くだけだった。
 カトルくんは口数がいつもよりも少なかったけれど、空気自体はとげとげしていない。だから、今日なにか、物凄く嫌なことがあったとか、そういうわけじゃなかったんだと思う。久しぶりの依頼だったから、色々思うところもあったんだろう。話してくれる気はなさそうだから、分からないけど。
 しんと静まりかえった部屋の中で、だけど、カトルくんは不意に、「さん」と私の名前を呼んだ。その呼び方は、皮膚の薄い部分から直接染みこんでくるみたいに優しくて、丁寧だった。彼に呼ばれると、私の何の変哲も無い名前は、まるできらきらした砂が集まってできたみたいに、美しいもののように聞こえて、私はそういうとき、いつも嬉しくなる。
 はい、と返事をするよりも、カトルくんがこちらに寄り掛かってくるのが早かった。その身体の感触と、重さと、熱に、ひゅ、と息を飲み込んでしまう。甘えるみたいに擦り寄られて、すぐには理解できなかった脳が数秒経ってようやく現状を把握したとき、既に心臓が激しく脈打っていた。顔が熱かった。石鹸の香りがふわふわと漂って、湿った髪の毛が頬に触れて、どきどきした。だけど、カトルくんはそのまま、何も言わない。
 私の身体が彼よりも小さいせいで収まりが悪かったのか、カトルくんはそのままずるずると倒れ込んで、私の膝に頭を乗せた。熱があるのかなと心配になってしまったけれど、私より熱いとは言え、エルーンであることを考慮したら平熱だ。今日は長めのスカートを穿いていたから、彼の頬や髪が直接皮膚に触れることはなかったけれど、それでも身体が緊張で強張る。
 ぎゅうと太股に力を入れたけれど、カトルくんは文句の一つも言わなかった。「か、カトルくん?」とどうにか口にした後、小さなため息を、ようやく彼は一つ吐く。



「疲れたので、ちょっとだけ貸してください」



 まだ髪が完全には乾ききっていなかったから、重さとか、ぬくさとか、その存在もそうだけど、腿のあたりが湿っぽくなって、落ち着かなかった。カトルくんの背中が丸くなる。それがなんだか小さな子供のそれのように思えて、思わず、触れてしまった。肉付きの薄い彼の背は、私が触れても、何の反応も示さない。まるで最初からそうされることを望んでいたみたいに。
 カトルくんの背中をそうっと撫でながら、心の中だけで、大丈夫だよ、と呟く。大丈夫、大丈夫だよ、カトルくん。ちょっとずつで良いんだよ、って。
 無意識に、子供にするようにその背を一定のリズムで叩いていたら、カトルくんはそのうち、はあ、と大きな息を吐いた。それが酷く震えていたように思えたけれど、私は聞こえなかったふりをした。






リクシチュ「背中に触れる」