カトルくんの怪我はあれから随分良くなった。まだ以前のように依頼を引き受けることはできないけれど、利き腕も違和感なく動かせるようになったらしい。以前の生活に戻れるのも、きっと時間の問題だ。



「本当に良かったあ」



 心からそう言えば、「ええ、ようやく髪も自分で洗えるようになりましたしね」と薄く笑いながら言われて心臓が跳ねる。
 先日のことはまだ記憶に新しく、思わず狼狽してしまうけれど、こういう反応をするからからかわれるのだろう。分かっているものの、どうしても顔は引き攣るし心拍数は上がる。変に口ごもる私にカトルくんは笑みを噛み殺す。その表情に胸がぎゅうとなる。カトルくんが傍にいることを、私は今でも時折夢なんじゃないかと思ってしまうときがある。
 カトルくんは先日、目を覚ましたシスさんのところにも顔を出しに行っていた。私にはついて来るなって言うからお部屋で待っていたけれど、戻って来たカトルくんは部屋を出る前と少しも様子が変わらなかったから、一体二人がどんな話をしたのかについては分からないままだ。それでもグランくんは「大丈夫」と笑っていたから、きっと本当に「大丈夫」なのだろう。グランくんがその言葉を口にしたとき、それが翻されることは今まで一度もなかったから。
 良かった、良かった、って私は毎日、祈るように思っている。前途は洋々であるように思えている。私たちを取り巻く全ては、今どこまでも透明で、何の曇りもないままで、そしてそれはこれから先もきっと覆されることはないと。ただの願望に過ぎなかったとしても、私はそういう希望を抱えて歩いて行きたいと思うのだ。
 そんなある日のことだった。



「ちょっとリハビリに付き合ってほしいんですけど」



 そうカトルくんに言われて、私は仔細を確認するまでもなく「なんにでも付き合います」と即答したのだった。








 カトルくんのお部屋のカーテンは開け放たれていて、穏やかな陽光が差し込んでいる。光の筋が空気中の塵をきらきらと星屑みたいに瞬かせて、私はそれを目で追いながら、折り曲げた足を両手で包み込み、小さくなっている。
 私とカトルくんの重みだけ沈んだベッドにはシーツに皺が寄っていて、カトルくんが動く度にぎし、とスプリングが軋んだ。何も変なことをしているわけじゃないし、されるわけでもないって分かっているけれど、どきどきする。無防備に背中を向けているせいかもしれない。自分が何をされるか分からない、というのは、やっぱりちょっと怖いのだ。



「……何も取って食おうってわけじゃないんですから」



 ため息交じりに言われた言葉にすら、びくりと反応してしまう。「は、はい」と背筋を伸ばすけれど、それでもやっぱり落ち着かない。
 これはリハビリだ。
 怪我が治っても利き腕の治りが遅かったカトルくんは徐々にその違和感からも解放され始めていたけれど、指先の感覚はまだ元通りとはいかないらしい。これでは短剣を扱うときに困るとのことで、日常生活で指を動かす練習なり、訓練なりをしたいそうなのだ。その一環として私は今彼に付き合っているわけで。
 髪の毛を後ろから梳かれて、「うひゃ」と声が漏れる。緩い力が加わって後ろに引っ張られたけれど、腹筋に力を込めて耐えた。櫛で丁寧に整えられた後、カトルくんの指が私の後ろ髪をひとまとめにするみたいに包み込む。
 最近のカトルくんはずっと髪の毛を下ろしっぱなしか、後ろで緩く一つに結んでいることが多かった。細かい動作が上手くできないせいで、編み込みがしにくいらしい。自分の髪を弄るよりも人の髪の方がやりやすいとかで、それで私の髪で練習させてほしいと声をかけてくれたのだ。
 ちなみに余談ではあるけれど、私は髪を一つ結びに括っているカトルくんがものすごく好きだ。初めて見たときは直視できなかった。動揺はどうにか抑え込んだから、きっと彼にはバレていないと思うけれど。



「結構伸びましたよね。出会った時よりもだいぶ長くなってないです?」

「え、そう? 覚えてない……」

「ここくらいでしたよ」



 首の付け根の辺りをとんと指で突かれて「ひ」とまた声を出してしまった。背後の方で、カトルくんが小さく息を漏らして笑っているのが分かる。いちいち反応するからって面白がってるんじゃないだろうか。膝をぎゅうと抱え直して次の悪戯に備えて息を止めると、カトルくんは私の髪の毛からぱ、と手を離した。まるで弄ばれているみたいだ。それが嫌、というわけでは勿論無いけれど。
 カトルくんは手先が器用だ。普段から自分で自分の髪をまとめているだけあって、元々そういうのは得意らしい。すごいね、いつも綺麗に編んであるもんね、と素直に褒めれば「星屑の街の女の子の髪を結ってあげているうちに上達したんです」と、抑揚の薄い、だけど穏やかな声音で返された。背中側にいるカトルくんがどんな顔をしているのか今の私には分からないけれど、柔らかい目をしているんじゃないかな、と思う。私の爪先に伸びている光の線みたく。



さんはあまり凝った髪型にはしませんよね」

「厨房のお手伝いをするときに後ろでまとめるくらいですね。不器用なので、自分で結ったりとかはなかなか上手く出来なくて」

「へえ……」



 カトルくんの指の腹が私の頭を撫でる。変なことをしているわけじゃないって分かっているのに、私からは彼の姿が見えないせいで変に緊張してしまう。背中に、ごみとかついていないかな、とか、首にできものとかないよね、とか、濃い産毛とかあったらどうしよう、とか。
 触れられた感触や、髪を指先が擦る音、時折背中に感じる彼の温度に神経を張り巡らせてしまって、ものの数分で疲れてしまった。ずっと私の髪を撫でたり指で梳いたりしているだけのカトルくんは、一体何を思っているのだろう。



「…………なんでずっと触ってるだけなんですか」



 痺れを切らしてとうとう口にした疑問に、カトルくんは「指先を馴らしてるんですよ。まだ上手く動かせないので」と尤もらしく答えるから、嘘なのか本当なのか分からなくなる。唸れば、カトルくんは噛み殺したような笑みを漏らした。悪戯しているだけだとそれで気がつくけれど、やめてほしいとも言えない。
 カトルくんに触られていると、ぞわぞわする。ぞわぞわするけれど、それは嫌なぞわぞわじゃなくて、足の先が痺れるような甘さを伴っている。どきどき、じりじり、好きな人に触れられているって、どうしてこんなに気持ちいいんだろう。
 やがてカトルくんが何か思いついたように私の髪を編んでいくその感触に気がついて、私は立てた爪先を擦り合わせて、じっと息を止めた。部屋の外で誰かの笑い声が聞こえる。少しだけ開けた窓の隙間からそよそよと柔らかな風が吹く。カーテンが膨らむのを見届けて、その窓の奥にある空の青さに、何だか目の奥がじんわりと熱を持つ。カトルくんの息遣いが、すぐ背中にある。
 一か月前はこんな日常を想像する余裕もなかった。幸せだ。心からそう思う。鼻の奥が痛くなってこっそり俯けば、「頭下げられるとやりにくいんですけど」と掠れた声で呟かれた。カトルくんの苦言すらも、ただ、今は嬉しい。






リクシチュ「髪を結う・ほどく」