恋人という関係になってから随分経ったけれど、カトルくんに触れるとき、私は今でもたまに、妙に躊躇してしまうことがある。腕が棒のようになるとか、自分の肩のあたりに重たいものが乗っかったみたいな感覚で、私の腕はぴたりと動きを止めてしまう。
服に抜けた髪の毛がついているとき、それが明らかに私のものだったりするとき、フードがちょっとだけ裏返っているとき、何の気なしに手を伸ばすこともあるのに、逡巡するのだ。良いのかな。このまま触れても、大丈夫なのかな、って。
壊れちゃわないかなって思うのだ。何がって、何もかもが。
そうやって私が躊躇うとき、カトルくんはきちんと私の挙動の不審さに気がついてくれる。そうして眉根を寄せて、「どうして」とでも言わんばかりの目を向ける。
もしも口に出してその理由を尋ねてもらえていたならば、私はきちんと自分の中にあるこの感情を整理して、彼にこっそり打ち明けたんだろう。何となく自分の中で渦巻いている得体の知れないそれは多分恐怖と名の付くもので、でも、じゃあその根源は何なのかと言われると、身振り手振りを以てしても伝えきれるか怪しい。
カトルくんは「どうして」の代わりに「何かついてるなら取ってください」って、全然柔らかくない声音で口にする。抑揚に乏しくて、私と比べればちょっと早口で、だけど、そういうカトルくんの声を、私はいつもくすぐったく思ってしまう。こうして向き合ってもらえることで、私の中に芽生えた恐怖や焦燥が、てっぺんから溶かされていくみたいに感じるから。
「ごみ」
ついてますよ。
本当はついてなんかないけれど、そんな見え見えの嘘を口にして、彼の髪の毛に触れた。さらさらしてて指通りが良いカトルくんの髪は、ベッドサイドのオレンジ色の灯りに反射して、昼間見るときよりもどこか白んで見える。カトルくんは何も言わずにその目を閉じた。眠いのかもしれない。さすがに疲れたって言ってたし、夕飯も、ほとんど食べていなかったようだから。
依頼が片付いて、彼が騎空艇に戻って来たのが夕刻だ。それもいくつかの仕事が重なって、こうしてきちんとお部屋で会えたのは一週間ぶりだった。明日もまた別のお仕事だって聞いている。忙しいんだね。心配から口にしたその言葉が、皮肉めいて響いていなかったか心配になったけれど、カトルくんは眠たげにその目を瞬かせただけだった。
カトルくんは強いし、依頼には常に真摯だ。十天衆として招集があれば出向いて行くし、星屑の街のことだってある。忙しいのも大変なのも当たり前で、私はカトルくんがどうか私の知らないところで怪我をしませんようにと祈りながら、騎空艇で皆のお手伝いをして待っている。
少しでも彼の力になれれば良いのにな、だけど、そう考えていることはカトルくんに伝わってしまっているみたいだ。彼は髪に触れたままでいる私を、他の人に向けるよりも僅かに温度の高い目で見つめてくれる。触れるときは怖いのに、一度そうすると今度は離したくなくなるのだから、私も大概自分勝手だ。
「さん」
ぴんと立ったエルーンの耳の下で、カトルくんはその眉尻を僅かに下げて、呟くように「すみません」と口にした。
「……本当は、もう少し話がしたかったんですが」
「ん、眠たいです?」
隣に座るカトルくんに尋ねれば、小さく頷かれる。
寂しいという感情は勿論あるけれど、ここで我儘を言うなんてことはできなかった。だってこの一週間、カトルくんはずっと気を張っていたのだろうし、騎空艇の、慣れた自分の部屋に戻ってきたことで安心したらしいということはすぐに分かったから。
「じゃあ、私、お部屋に戻りましょうか」
一緒に居たら気が散って休めないもんね、そう続けたのに、カトルくんは緩く首を振った。手首を軽く握られて、態度だけで行くなと訴えられるから、ベッドから浮かしかけた腰を慌てて戻す。
カトルくんの手は、いつも私よりも温度が高い。たまに、想定外の熱さにびっくりしてしまう。眠いから、余計に体温が高くなっているのかもしれない。甘えるみたいに手の甲に頬ずりされて、心臓が一瞬で爆発しそうになったのを、「おやつを欲しがるときのコンタみたい」と考えることで耐える。コンタのものと違って、湿っていない鼻先が皮膚に擦れる。わ、わ、と心の中で繰り返す。
一週間ぶり。でも、きちんとこうやって隣に座ってお話をする機会がなかった期間が一週間、っていうのであって、最後にこうして恋人らしい触れあいをしたりしたのは、もっと前だ。私はこうして長い空白期間を作る度に、いちいち免疫を失ってしまう。甘えるみたいに手に唇を落とされて、もう片方の手で口元を抑えた。膝を擦り合わせて感触に耐えていると、眠たいはずのカトルくんが喉の奥で笑う。笑うなんて酷い。そう思うけど、同じくらいにどきどきしている。
カトルくんは綺麗だ。
お花に例えるなら、藤とか、百合とか、そういう感じ。薔薇や牡丹のような派手さはないけれど、一見儚いのに存在感があって、一目見ただけでぐんぐん引き込まれるような力を持っている。そういうことを以前口にしたら、ちょっとだけ眉を寄せられながらも「あなたはあの、白い花に似てますよ」と言われた。草っ原に咲いているやつだって。小さくて、丸い花。シロツメクサかな、って口にしようとしたときに、今度見かけたら摘んできますって言われた。だから、それが嬉しくて、全部全部飲み込んだ。なんだろうなあ。って素知らぬ顔で笑えば、カトルくんはちょっと変な顔をしていた。
カトルくんは常にその背中に針をめぐらせているような人だった。でも、私といるときはその針が全部抜け落ちて、すべすべの背を剥き出しにして眠る。今もこうして、完全にではないだろうけれど、他の人の前にいるよりは、気を抜いてくれている。それがじんわりとした熱を伴って実感されて、胸の内側にある塊のようなものが端っこから解かれていくような気持ちになる。
私は色んなカトルくんを、多分、比較的に、間近で見てきたんだと思う。初めて会ったときは優しい人だと思った。ひったくりからバッグを取り返してくれて、一緒にお茶を飲んで、私の話を聞いてくれて、そうして、そういう思い出を全部ゴミにでもするみたいに「殺す」って言われた。びっくりしすぎると涙が出ないこともあるんだっていうのは、もうずっと前、死にゆくお兄ちゃんの腕の重さを感じながら知ったことだったけれど、あのときカトルくんを前にした瞬間も、涙はなんにも出なかった。
あれから月日は経ったけれど、こうして彼の隣にいることは、今でも夢みたいに思っている。カトルくんは、じ、と私を見る。切れ長の瞳は熱を孕んでいて、それに気がついた瞬間、お腹の奥が変な感じになる。
眠たいんじゃなかったのかな、と思いながらも、抗う気なんか今更無い。頬に触れられたのを合図にぎゅうと目を閉じれば、閉じた瞼の奥でカトルくんが小さく笑ったのが分かった。
ベッドがぎし、と音を立てる。ばくばくと音を立てる心臓の鼓動に支配されながら、もう一人の冷静な自分が、いつまでもこうしてはいられないんだろうな、なんて考えている。それは冷たい予感のように私を覆って、大きな影に飲み込まれるみたいな恐怖心を覚えさせるのだけど、絡められた指先が熱くて、心地よくて、あんまりにも優しいから、私はそういうものから目を背けてしまうのだ。
騎空艇は夜空の中、次の目的地へ向かって、空を走るみたいにして飛んでいる。

トラオム / 「夢」「牡丹」「涙」