海のある島を初めて見たとき、最初は理解が追い付かなかった。
 空に浮かぶ島に存在する海、一見成立しないように思える現象ではあるが、水の塊の上に島が乗っているのだとグランくんは説明してくれた。そう言われてもいまいち受け入れがたい。私にとって海はどこまでも続いていて、その向こうではまた別の島に繋がっている、そういうものだったから、この海が途切れる場所があるというのは、何だかそこで世界がぶつ切りにされて終わってしまうような感覚を覚えるのだ。
 ただ何も知らずに砂浜に立てば、眼前に広がるのは水平線で、足元に寄せては返す白波はまさしく海そのものだった。裸足の皮膚に砂がじりじりと染み込むような、懐かしい痛みを覚える。郷愁に浸りきる前に、私はその潮の香りにただただ慄いた。
 なぜ人は海を好むのだろう。私は海を前にすると、いつも畏怖の念が先立つ。溺れ死ぬ自分の図が、なぜかはっきりと脳に描かれるのだ。こんなこと、この年になった今では誰にも言えないけれど。








 夏の終わりに、ほんの一日だけのバカンスだけどと、グランくんは切り出した。その日一日だけ、グランサイファーは一切の仕事を放棄する。依頼は勿論、倉庫の整理も食堂での料理提供もなしだ。
 全員が休暇を取ることを義務付けられたその日の朝、私は目の前のコルワさんが徐に差し出した水着を両手に、途方に暮れていた。



「アウギュステと言ったらバカンス! バカンスと言ったら海! さ~あちゃん、その水着を着て浜辺に繰り出すのよ!」

「あの……こんなに可愛い水着を仕立てていただいたのは大変ありがたいんですが……」

「水着がないって言うから慌てて作ったんだけど、製作日数が一日って割には最高の出来だと思うのよね……多分ドーパミンが出てたわ。大丈夫、サイズはぴったりのはずよ」

「うん、サイズは問題なさそうです。あとすっごい可愛い……この胸元のフリルとかあれですよね、胸にボリュームを出せるから体型隠しになるってやつ……あっそうじゃなくて私は、海はちょっと、その」

「そうなのよ、そこのフリルが我ながら絶妙なのよね。大丈夫よ日焼け止めをガンガン塗れば紫外線も怖くないわ! 白い砂浜……青い海……照りつける太陽……水平線に沈む夕日を二人座って眺めて、カトルくんの肩に頭を乗せるちゃん。星々も二人を祝福するの……これぞまさしくハッピーエンドじゃない!」

「わあ~……! それすっごい素敵……! じゃなくてあの、私、実は」

「水着の上にはこの前作ったワンピースがお勧めよ! というかそのために作ったのよね、あれ。ちゃんが着てるところ、見たかったんだけど、……私は今日は午後から出かけるの、夜も女子会でいないから、戸締りを忘れないでね、それまで、ちょっと、眠る……わ……」



 喋りながらふらふらとベッドに向かったコルワさんは、そのまま倒れ込んだかと思うとあっという間に寝息を立ててしまった。昨晩ずっとこの水着を作ってくれていたから、その疲れがたまっていたんだろう。折角の休暇、「仕事禁止って言ってたけどこれは趣味だからノーカンよ」と言いながら彼女が作っていたのが私の水着だなんて思ってもみなかったけれど、その厚意はとても嬉しい。
 完全に眠ってしまったコルワさんにタオルケットをかけたあと、私は彼女が作ってくれた水着をもう一度見る。胸元のフリルが可愛らしいビキニタイプの水着で、色は白。下半身は露出を抑えたショートパンツ風になっている。白は透けるって聞くけど、コルワさんがその対策をしていないとは思えないから心配はしていなかった。私が憂慮しているのは、海そのものだ。



「…………海ぃ……」



 停泊したグランサイファーの窓からも、目を凝らせば砂浜が見える。
 私は水が怖い。









「とりゃ!」

「あっクソー! またやられたぜ~!」



 勢いよく回転したビーチボールは砂浜に落ちるというよりそのものを抉っていく。足跡よりも深く残されたその痕に慄きながら、拾ったボールを打ち返した。グランくんとルリアちゃんのチームは息がぴったりで、こっちのチームはなかなかポイントが取れない。ペアの相手がビィくんで、私が専らレシーブ専門というのも問題なのかもしれない。ビィくんが楽しそうだから良いんだけど。
 バカンス初日の昼、グランサイファーの皆はほとんどが海に出向いていた。コルワさんのように自室で休んでいる人も幾人かいるようだったけれど、少数派だ。外に出た面々は、海で泳ぐ人、日光浴をする人、浜辺を散歩する人、貝殻を拾う人、海の家のようなお店で休憩する人、と言うふうに各々自由に過ごしている。
 グランくんが早々にビーチバレーに誘ってくれたのは幸運だった。私は波打ち際に近づくことすらないままに、夏を満喫しているようにしか見えないはずだ。時折響く波の音も、皆の笑い声でかき消される。
 燦々と照りつける太陽は眩しいくらいだったけれど、これでも数週間前よりは随分暑さも和らいだらしい。ビーチサンダルの隙間から入り込んだ砂で、とうに皮膚の感覚は麻痺していた。べたついた身体にワンピースが纏わりついて、やっぱり暑い。例年より涼しかろうが、暑いものは暑い。



さん」



 名前を呼ばれて振り向けば、グランくんが立てておいてくれたビーチパラソルの下でカトルくんが手招いていた。「行っておいで」とグランくんに言われたのでその言葉に甘えたけれど、カトルくんの姿が細部まで視認できる距離で、私は躊躇ってしまった。水着だ。ここに来る前にも見たけど。パーカーも着ているから、上半身が裸であるわけでもない。でも、水着だ。
 身体を見るのが気恥ずかしくて、意識的にその双眸を見つめながら駆けよれば、カトルくんは私の強い視線にこの動揺を汲み取ってくれたのだろう。「さっきから思ってたんですが、ぼくの水着でどうしてさんが恥ずかしがる必要があるんですか……」と困惑の滲んだ瞳を向けてくるので、こっちの方が戸惑ってしまう。カトルくんは、自分の魅力を理解していない節がある。
 カトルくんの身体はエルーンらしく余計な脂肪は一切ついていない。筋肉だって、どちらかと言えばつきにくいのだろう。小柄なその身体は、だけど程好く鍛えられていて、薄い筋肉が必要なところに必要なだけついている。背中側は見慣れているとは言え、正面を無防備に晒されると目線のやり場に困るのだ。グランくんの水着姿には何も感じなかったのに。



「あ、あの、それで、なんですか?」


 
 そう尋ねた私に、カトルくんはじっと私を見つめ返す。真剣な目で何を言うのかと思えば、「その姿で動くと、色々見えそうなので気を付けてください」だったのだから、返答に困る。この砂浜には、私なんかよりもっと際どいデザインの水着を着た女性たちでいっぱいだ。誰も私のことなんて気にも留めていないだろう。
 コルワさんが先日プレゼントしてくれたワンピースは胸の部分が大きく開いていて、一枚では着られないデザインだった。キャミソールなりタンクトップなり、インナーと合わせて雰囲気が変わるんだな~、なんて思ってたら、どうやら今回の水着のためのものであったらしい。コルワさんの指示通りに水着の上にワンピースを着たら、胸元からたっぷりとしたフリルがあしらわれたビキニ部分が露わになって、びっくりするくらいに可愛かった。もう脱ぐ必要がないんじゃないか? と泳ぎたくない私は考える。丈は膝上で、やっぱりいつも着ているものよりは短めだったけれど、水着を着るという前提があるならばむしろちょうどいいくらいだった。



「あっこれね、下に水着着てるので、見えても大丈夫!」



 ちょっと驚いたけれど、気にしてもらえたのが嬉しくて、思わずスカート部分の裾を持ち上げてしまった。顔色を変えたカトルくんが「ばっ」と短い怒鳴り声をあげる。たぶん、馬鹿って言いたかったんだろう。身を乗り出されて手首を掴まれて、ワンピースの裾はひらりと空気を孕んで落ちていく。
 カトルくんは私の手首にぎゅ、と力を込めると、長い息を吐ききった。



「……そんなことは、分かってますよ」



 その顔が薄ら赤らんで見えるのは、夏の日差しのせいなのだろうか。カトルくんのその表情に、私はすっかり面食らってしまっていた。彼の、上半身までもが桃色に染まっているから、思わず目を逸らした。視線の置き場にこんなに困るなんて、知らなかった。目を隠して過ごしたい。カトルくんの水着は、私には刺激が強すぎる。
 水着姿を直視できないなんて、私たちの関係を具に知っている人がもしもいたとすれば、驚かれて当然だろう。恋人という関係になって、もう随分経つ。デートは勿論、キスも、それ以上のことだってしているんだから、裸だって見ているのに。カトルくんなんか、私の黒子の位置まで把握しているのだ。なのに、どうしてこうも緊張してしまうんだろう。



「……座りませんか」



 腕を引かれ、私は大人しくそれに従う。グランくんたちの方に目をやれば、いつの間にか、私の抜けた穴にヴェインさんが収まっていた。私とは比べ物にならないセンスを持っている分、私の時よりもラリーが続いているのは間違いないようだ。
 カトルくんの隣にじっと座っていることが落ち着かず、お尻を浮かせて、ちょっとだけ離れた。足の先の方がビーチパラソルの作る影からはみ出て、じりじりと熱される。きちんと日焼け止めは塗ったけど、やっぱり気になる。両足を抱えて、丸くなった。
 そうしてじっと無言でいると、カトルくんの足首にいくつかのアンクレットがあることに気づく。太陽の光を浴びて、それはちかりと瞬いた。互いに黙りこくったままだったけれど、砂浜や海ではしゃぐみんなの明るい笑い声のおかげで、気まずさとは無縁でいられる。
 喉が渇きませんか、とカトルくんが口にするまで、私たちはただただ、海に入るでも遊ぶでもなく、じっと砂浜の上で待機していたのだった。まるで付き合ったばかりの、距離感を測りかねている恋人同士のように、或いは、そうなる以前の間柄の関係性であるように。








 その日の夜、カトルくんは私に打ち明ける。「さんの水着を他のやつらに見られるのが嫌で海に入ろうとは言えなかったんですが、おかげで自分も見れていなかったことに気づきました」って。私の方もとうとう海が怖いとは言えなかったけれど、その告白は来年まで取っておこう。二人で飲んだジュースが美味しかった、それだけで充分だ。







リーヴァ / 「白波」「星」「手首」