予定していた依頼がなくなったとは、先に騎空艇に戻ってきていたカタリナさんから聞いていた。カトルくんの姿が見えないのは、その足で用事を済ませに行ったためだとも。
 彼の住んでいた星屑の街は、現在グランサイファーが停泊している場所からそう遠くはないはずだ。今停泊しているのは、以前、一週間ほど騎空艇を降りて星屑の街で滞在していた彼を迎えに行ったときに指定された街なのだから。きっとお姉さんに会いに行ったんだろう。ランチタイムの終わった食堂のテーブルを拭きながら、そう考える。
 カトルくんの、双子のお姉さん。名前は確か、エッセルさん。
 いつか会ってみたいな、とは思っていたけれど、自分から言い出すには勇気がなくて、今までずっとカトルくんの話に出てくる彼女のことを思い描くだけだった。
 優しくて、自分が苦しくても、いつもそれを隠して周囲の人間ばかりを気遣う人、彼はそうお姉さんを評している。



「僕とは真逆の人ですよ。いい意味でも、悪い意味でも」



 なんてしれっとした顔でカトルくんが続けるから、私はちょっとだけ、笑ってしまった。カトルくんだってそういうところはある、と思ったのだ。私の表情で言わんとしたことを察したのか、彼は「ぼくはごく一部の人以外を気遣ったことはないので」と吐き捨てるように言った。何でも見透かされているのだから、恐ろしい。
 ローアインさんたちは、既に食堂を後にしている。私の仕事を手伝ってくれようとしたけれど、大丈夫だと笑って手を振った。彼らは午後から街へ出かけてくると言っていたから。それに、ただでさえ今日はお昼の忙しい時間帯に手伝えなかったのだ。後片付けくらい押し付けて貰わなくては困る。
 だから、今私は、食堂に一人だ。
 良く陽のあたる窓辺の席、壁に沿うように作りつけられた長いテーブルの、端から端までを、テーブル用の布巾片手に駆け抜ける。途中できちんと片づけられていない椅子に足をぶつけそうになったから、通り過ぎた直後に戻ってそれを席に押し込んだ。この島は、空からの日差しがぬるくてきもちいい。



「もうだ~いじょうぶ~」



 中学生のときに流行った女性歌手の歌を口ずさみながら、今度はテーブルの手前側を拭くために方向転換する。一カ月に一度か二度あるかないかのやたらと調子のいい日が、たぶん今日だ。それには特にこれといった理由が一つどかんとあるわけではなくて、色んなものが薄い色紙みたいに少しずつ重なり合って、全てが重なったその一部分が奇跡に近い色を放っている、その瞬間を偶々目に出来たような、そういう一見不安定なバランスの上に成り立って出来上がったものだ。だけど一度こうなると私は強い。無敵感でいっぱいだ。今ならどんな障害も衝撃も一網打尽にしてやれる、そう、この布巾でね。
 午前中からグランくんやルリアちゃんと街に行けたし、お昼ご飯に食べたもちもちしたパンはチーズとトマトが挟んであって、尋常じゃなく美味しかった。カトルくんも今日はこれ以上お仕事がないみたいだし、用事が済んだら、一緒にのんびりできるかもしれない。でも、もしできなくても平気だ、私は今とても満たされている。



「ふんふんふ~ん」



 満たされていようが無敵だろうが脳から抜け落ちた歌詞を歌えるわけはなく、記憶から薄れている部分の歌詞は鼻歌で誤魔化す。軽快なステップでテーブルを拭き終えた。スマホがあるわけでもない、この歌を知っている人がいるわけでもないこの世界で、私はこの歌を最初から最後まで間違えずに歌いきることなど二度とないのだろう。だけど私は、それを悲観したりはしない。思い出せなくてむず痒い、とは思うけど。
 このまま扉のガラスなんかも拭いちゃおうかな、なんてスキップ交じりに食堂の扉に向かう。この時までは、まだ私はわけもなく浮かれていた。「あなたの~そ~ばで~ふんふ~ん」こんなにご機嫌だったのに、しかし、直後私はそのガラス扉の向こうにいた人の存在に気が付いて悲鳴をあげる。



「ぎやぁああ!」



 なぜ咄嗟にカリオストロちゃんのような悲鳴をあげることができなかったのか。「キャッ」とか、せめて「わっ」とかそう言うのであるべきだった。こんなところで無敵感を出す必要はないのだ。
 恋人に聞かせるには野太すぎる悲鳴に、ガラス扉の向こうのカトルくんは、何とも言えない顔をしていた。その目線が、ゆっくりと彼の隣に立っていた女性に注がれるから、私もつられてそちらを見る。彼が一人じゃないなんて珍しい。ガラス扉の内側で、そして私は彼女を見た。
 薄紅の長い髪を編んだ、エルーンの女性。施された化粧の下で、その瞳は涼しげだった。いや、この際、私は良いのだ。例えご機嫌に掃除をしていたところが見られていたとしても、音程の取れていない鼻歌を聞かれていたとしても、女らしくない悲鳴に戸惑われていたのだとしても。問題はそこにあるのではない。私はただ息を飲んで微動だにできなかった。だって、つい先ほど彼女とはシェロちゃんのお店の前で出会っていたのだから。
 その鼻梁の形がカトルくんに似ていると思った人は、実際に彼と並んでみたら瓜二つだった。切れ長の目元も、薄い唇も、眉の形すらも。どうして気が付かなかったのだろう。髪の色が違うせいだろうか、それとも耳の大きさか。この人は、間違いなくカトルくんと血が繋がっている。彼女がエッセルさんなのだ。
 きっと、カトルくんが属する騎空団に挨拶にやって来たのだろう。先日のシエテさんのように。カトルくんの表情が芳しくないことを思えば、もしかしたらカトルくんの方は気乗りしていないのかもしれない。いや、単純に私みたいな女を紹介しにくいんだろう、私だってこんな女がお兄ちゃんの彼女だって紹介されたら、心配しちゃうし。



「……その、初めまして」



 扉の向こうで丁寧に腰を折ってお辞儀をしたエッセルさんを、私は布巾を握りしめたまま凝視している。だけどその頭があがって目が合ったそのとき、私は自分が名乗っていないことを思い出してしまった。まだ冷静になりきれていない頭で自分の名前を名乗りながら、どうしたら好印象を残せるかを計算してしまう私の浅ましさも大概だ。



「あ、えっと、その、と言います。か、カトルくんとは、健全なお付き合い……を……させてもらって……?」



 言いながら私たちの間に健全さは失われていることを思い出した。おかげで疑問符が意味深すぎる。最悪だ。
 私の言動がおかしくなっているのを察したらしいカトルくんが、深いため息と共に「姉さん、せめて中に入れば」と言うまで、私はほとんど身動きの一つも取れなかった。
 このまま弟の将来を悲観したエッセルさんによって、私との交際は白紙に戻るのではないかという思いが一瞬頭を掠めたけれど、改めて食堂に足を踏み入れたエッセルさんは私の醜態など一切気にしていなかったらしい。少しぎこちない笑顔で、「カトルが、いつもお世話になっています」と私に小さな包みを渡してくれた。



「今、星屑の街の子どもたちとクッキー作ってきたから……。良かったら」



 クッキー。その一言で、私の動揺も、後悔も、何もかもが飛んで行ってしまうのだから、現金なものだ。



「手作りクッキー!」

「ん……そう、カトルも一緒に」

「ちょっと姉さん、それは言わないって約束だったはずだけど」

「えっうそカトルくんが」



 咄嗟にカトルくんの方を見たけれど、彼は私とは視線を一切合わせようとはしない。ただ、その動揺がエッセルさんの言葉を真実たらしめていた。「……型を抜いただけですから」と彼がまくし立てるように言うから、私は可愛らしい包みに入ったクッキーを覗き込んでしまう。その香りにくらっと来てしまうのは、甘いものに目がないからで間違いない。



「あ、あの、今お茶淹れますんで、三人で食べませんか……!」



 そう提案した私に、カトルくんとエッセルさんは、顔を見合わせた。男女の双子は二卵性っていうけど、やっぱり二人は良く似ている。








「おかえりなさい」

「すいません。突然姉を連れてきてしまって。驚いたでしょう」

「驚いていないように見えました?」

「いえ」

「ですよね……」



 エッセルさんを送ってきたカトルくんは、わざわざ食堂に顔を出してくれた。使ったカップは洗って定位置にしまったし、テーブルも拭いて床も掃いた。あと十分もすれば、ローアインさんたちが戻ってくるだろう。私がすぐに夕食の準備の手伝いをしなくてはいけない時間になることを彼も知っているから、カトルくんはそのまま、手近な椅子を引いて座った。



「クッキー、おいしかったなあ」

「そうですか? バターを使っていない分、あなたの口には合わないかもしれないと思ったんですが」

「大抵のものは砂糖が入ってれば美味しくない……?」

「……」



 この世の真理を説いたはずなのに、カトルくんは目を細めて私を見ている。はっきりと言葉にしてもらったほうがまだマシだ。カトルくんの向かいの椅子を引きながら、私は苦い顔をしてしまう。お姉さんにも、こんな風に変な印象を持たれてしまっているのではないだろうか。思い当たる節が多すぎて、言葉を濁しながらも尋ねようかと思案した、その私を見透かすように、カトルくんが「姉が」と切り出すから、私は彼を見る。



「……いや、なんでもないです」

「はい?」

「なんでもないです。大したことは言っていないので」

「な、ななな、なにそれえ……! 絶対何か言ってたやつですよね……!」

「いえ。ああ、そろそろローアインさんたちが戻ってくるんじゃないですか? 僕も部屋に戻りますので。では」

「あ、ああッ、逃げないで!」

「うぃ~っすちょ! めっちゃ食材買い込んできて腕が爆発する五秒前的な。略してMK5ってやつなこれ」

「あっおかえりなさい! 手伝います手伝います、あっカトルくんちょ、ああ~ッ」



 こういう時身のこなしが素早いのは狡い。後から来たエルセムさんとトモイさんの隙間を縫うようにして食堂を出て行ったカトルくんは、私の言葉に振り向きもせずに行ってしまった。
 あとで、絶対、絶対聞き出してやる。ローアインさんたち三人が広げた食材の整理を手伝いながら、私はそう胸に誓うけれど、夕飯を食べ終える頃にはすっかり忘れてしまっていた。こういうところが私のダメなところだ。








「確かにあの子は放っておけないね」



 星屑の街まで姉さんを送ったその帰り道、思い出したようにそう言って笑った、その横顔はいつも、どこか拭いきれない翳りがある。きっと、ぼくにも。
 だけど、あの子といると、そういうのが和らぐ瞬間があるんだよ。
 あの子が歌っていた、わけのわからない歌。下手くそなステップ。目が合った瞬間、酷い声で叫ばれた。布巾を握りしめて固まって、挨拶なんかとんでもなかった。だけどそういうところに、ぼくは信じられないくらいに惹かれているんだ、姉さん。
 嫉妬も憧憬も乗り越えた、これを愛と思っても、間違いはないだろう?
 何も言っていないのに、姉さんは、「うん、それでいいよ」と、小さく呟いた。
 姉さんと並んで歩いた星屑の街は、どこか懐かしい、ドブのような臭いが、まだ微かに残っている。







カナフ / 「白紙」「空」「内側」