食堂の壁にかかっている、その日の団員の予定が記されているホワイトボードを見上げるのは、朝皆が食堂にやってくる前に行う私の日課だった。
下拵えが終わり、朝食の準備がほとんど整った食堂は、ローアインさんたちの作った食事の香りでいっぱいになっている。今日は夢に出てきてくれたカタリナさんへの愛が留まるところを知らず、完璧のさらに上を行く黄金のスクランブルエッグが完成してしまったらしい。っべーわパねーわとローアインさんを讃えるエルセムさんたちの声を背に、その香りに空腹を刺激されながら壁を見上げた。私の立つカウンターの正面にあるそれは、ふとした時にも目に入る。
(今日も依頼かあ)
私はもう探さなくてもカトルくんの名前が三列目の真ん中あたりにあることを知っているし、そうでなくても意識する前に彼の名前を視野の真ん中に置いてしまう。十天衆の一人である彼の欄が真っ白であることなんて滅多になく、今日も終日依頼で出払っているらしいことが見て取れた。きっと戻ってくるのは夜になるんだろうな、なんてあたりをつけた後に、ふと気が付いた。グランくんの欄が空欄になっていたのだ。
珍しい。この騎空団をまとめる立場である彼は、カトルくん以上に休みがない。お休みなんて久しぶりじゃないだろうかと考えていると、「おはよう」と、耳に馴染む穏やかな声の人物に話しかけられた。まさしく当の本人だ。
「これ、ノート。遅くなってごめんね」
グランくんは私にノートを手渡しながらそっと微笑む。このノートを始めて長いけれど、何だかんだ、定期的にやり取りは続いていた。彼は私の元いた世界のことに興味があるらしくて、私が書いた何気ない言葉に線を引っ張って、「これはどういうもの?」と尋ねてくれるから、私も先生になった気分で楽しんでいる。自分のことに興味を持ってもらえるのは、やっぱり嬉しいのだ。
騎空艇にいる限りは、依頼が控えていようと休みだろうと体内スケジュールが狂うことはないらしい。食堂にはいつも早い時間に訪れる方だったけれど、今日は彼は一番乗りだ。トレイを持ってきたグランくんに黄金のスクランブルエッグを渡しながら、「今日はお休みなの?」と何気なく尋ねると、グランくんは曖昧に頷いた。
「うん、でもよろず屋に行く用事があって」
「シェロちゃんのところに?」
「シェロカルテに武器を見てもらいたいんだ」
以前、に銃を探してもらったことがあったでしょ? 続けられた言葉に、一瞬理解が追い付かなかったけれど、「結局セルエルが見つけてくれたやつ」と補足されて、私ははっと目を見開いた。
カトルくんの部屋までグランくんが私を呼びに来た日のことを彼は言っているのだろう。あの前後にあったことを思い出してしまって、顔が熱くなる。けれど勘のいいグランくんに何かを察せられてしまうことだけは避けたくて、私は慌てて「ああ、うん、あれね」と神妙な面持ちで頷いた。グランくんの瞳を真っ直ぐ見ることができない時点で後ろめたさと言うのは如実に現れてしまっていたとは思うけれど。
私の反応を彼が訝しんだかどうかは定かではないし、確認しようという気も起きない。だけどグランくんは身を捩ってホワイトボードに目線をやった。どうやら今日の私の予定を確認したらしい。と言っても、私の場合はあそこに何かが書かれることなんて数日に一度あるかどうかというところだ。今日も例に漏れず空欄であるのを確認して、彼は私に微笑む。
「もし良かったら、一緒に行く?」
思いもよらぬ誘いに、私はぱっと目を見開く。街に出るのに、断る理由なんかなかった。
食堂の片付けを終えてから、私は自室に戻って支度を急ぐ。
グランくんと話をした後で食堂にやってきたカトルくんにも一応断りを入れておいたけれど、彼は私の言葉にそっと眉根を寄せた。
「でもルリアちゃんもビィくんも一緒だから」
そう続ければ、その寄せられた眉は分かりやすく緩む。「嫉妬しい」とグランくんに評されるだけあって、彼は私に執着の欠片を見せてくれる。私はそれを、愛されていることの証左のように思ってしまうのだ。歪んでいるのかもしれないけれど。
「まあグランさんがいるならば大丈夫だとは思いますが、気を付けて。くれぐれも迷子にならないように」
「だ、大丈夫だよ。子どもじゃないんだから」
「そうですか? 初めてさんに会ったとき、どうでしたっけ」
「…………どうでしたっけ?」
目線を逸らした私に、カトルくんは小さく笑った。
あの頃のことを思い出すと、私は不思議な気持ちになる。初めてカトルくんと出会ったとき、彼は幾重にも皮を被っていた。彼の笑顔は他人を騙すためのもので、気遣いには裏があって、彼はそうして利用するために私の前に現れたのに、今はこうして自身を曝け出してくれる。飾らない笑顔を見せてくれる。それが何よりも嬉しい。
それと同じくらい面映ゆいのだ。シェロちゃんに武器を見てもらうためによろず屋に行く、という話で思い出すものが、二人の出会いという共通事項であるということが。
余所行き用のブラウスのボタンを留めて帽子をかぶり、待ち合わせ場所であるグランサイファーの外に急ぐ。通路の窓から、カトルくんがカタリナさんたちと数名で依頼に向かう後ろ姿を見た。私には、彼のその身体の周りが光って見えるのだ。そんな告白じみたこと、彼には到底言えないけれど。
シェロちゃんのお店でグランくんが彼女に件の武器を見てもらっているとき、ルリアちゃんが「ふわあ」と感嘆の声をあげた。
彼女の視線の先に目をやれば、通路にはみ出さんばかりの荷物の山が出来上がっている。全部食料品であることが見てとれたが、乾麺や缶詰といった日持ちの良さそうなものが多く、普通のお店ならばこんな量を一度に確保することは難しいように思えた。
だけど、こんな量の食品を、一体何に使うんだろう。長く旅する騎空団のためのものかなとぼんやり考えていたら、背後から「……ん」と微かな声が聴こえた。
「……ゴメン、邪魔だった?」
「あっいえ」
振り向いて、息を飲む。
はっとするほどきれいな人だった。薄い紅色の長い髪、エルーン特有の耳は大きく、その顔の小ささを際立たせる。化粧の施されたその顔は大人びていたけれど、もしかしたら私とそう年は変わらないのかもしれない。憂いを帯びた瞳はしかし優しげで、私たちを気遣っているのが分かった。
見惚れて、言葉に詰まった私の代わりに、ルリアちゃんが「あっ、この荷物はお姉さんのですか?」と会話を続けている。ルリアちゃんに視線を向け、頷くエルーンの女性の横顔を、私は言葉もなく見つめていた。その鼻梁が、カトルくんと同じ形をしていると、そのとき気が付いた。
「ルリア、、お待たせ。行こう」
グランくんに声をかけられて、私は意識をそちらに向ける。どうやら用事は済んだらしい。
「あっ! はーい! 行きましょうさん。じゃあ、お姉さん、私たちはこれで!」
女性に手を振るルリアちゃんの隣で会釈をして、私はグランくんの元に駆け寄った。この後は街を散策する予定だ。軽くどこかでお昼ご飯でも食べようか、と提案するグランくんに、ルリアちゃんが同意する。彼も以前のことを思い出していたのだろう。「今日はちゃんとどっか行かねえで待ってられたんだな!」と、一年近くも前のことを蒸し返すビィくんに謝りながら、背後からの視線に気が付かないふりをする。
嫌な類のものではなかった。刺さるほど痛いわけでも、纏わりつくような感覚も、一切なかった。私はあの女性の横顔を思い出している。胸が痛いくらいにドキドキしていることを自覚したけれど、私にはその理由が分からなかった。
「………………?」
よろず屋を去った彼らの中にいた、と呼ばれた黒髪の少女の後ろ姿を、私はただ見つめている。

アプラウズ / 「急ぐ」「終わり」「告白」